向いているとか、いないとか

仕事でも社会生活でも生きていくことについても、今やっていることが向いているとかいないとか考えだすと、たいへん苦しい気がする。

向いているってどういうことなのか。苦痛を感じずに物事を進めることができる、ということなのか、楽々とうまくできるということなのか、自らもしくは誰かの要望に応えられるということなのか。そのどれもを満たすことなのか。それならば確実に向いていない。こんな自分に向いていることなんてあるのか。何も向いていないように感じる。向いているものがあったとして、それがわからなくてたどり着けなければどうしようもない。向いているものがあったとして、その周りを向いていないものが取り囲んでいたらどうしようもない。そうしたらもう全部向いていない。向いている人に任せて全てから手を引いたほうが世のため人のためではないか。云々。

というのを気持ちが下向きのときに延々ぐるぐると考えるわけだ。確実に苦しい。

一つ明らかなのは「向いているか、いないか」という問いの答えはどうやったって「向いていない」にしかならない、ということだ。この問いは、疑問が生じた時点で答えも決まっている問いなのだ。皮を剥がしてみれば、中心にあることは、なにかが辛くて苦しい、という、そういうことなんだろうと思う。

「私は○○に向いていない」と言う人に、向いているよと言ってしまったこともあったな、と思う。実際にそれが向いているかいないかはその場合はどうでも良くて、いま苦しくて何かが嫌だということを、言いたかったはずだ。それこそを聴くべきであっただろう。とんだ的はずれなことをしてしまったな、と今更ながら思う。
そして、「私は○○に向いていない」と、自分も人にこぼしたこともあったな、と思う。それもやっぱり、向いているとか向いていないとかジャッジしてほしいわけでなくて、思い通りにできていないことが苦しくて苛立って嘆いていただけだった。

自分は向いていないのではないか、自分には何が向いているのか、という問いに囚われてしまうことは度々あるが、そのときは、考えることからまず逃れなければならない。その問いは流砂のようなものであり、そこでもがいてしまってはどんどん苦しくなる。

考えることから逃れること。頭を空白にすること。いつも確実にできることや、すぐに実現すること、思い通りに行くこと、できれば身体を使うことをやる。そしてお風呂に入って眠る。そのうちに、どうでもよくなるから大丈夫。忘れられたら、万々歳。

なぜこのようなことを書いておくかといえば、これは私が毎年引っかかるトラップだからだ。
毎年、特定の時期に、向いているかを考え出しては元気をなくす。原因はおそらく違うところにあるのだが、なにか辛くて嫌なことがあるのだが、それを向いているかどうかの問いにすり替えてしまう。違う。ほんとは、何も楽しくないだけだ、ほんとは、思い通りに行かなくて辛いだけだ。

今は浮上できているから、忘れないように、書いておく。

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