時計合わせ
まただいぶ間が空いてしまった。
今年は心身の調子があまり良くないことが多く、日々疲れている。休みの日にリフレッシュしてもすぐにだめになり、体力が一週間もたない。不安定。低調か、とても低調か、しかない日々で、もうこの低調具合をスタンダードと考えるべきではないかという気がしてくる。なんだかいつも疲れたことばかり書いているが、書けるときというのはまだかなりマシなときだ。
最近ではいつどうやって辞めるかを考えることが多くなった。辞めるだけなら簡単、だが他の人の負担を増やさず迷惑をかけずに消えるように辞めようとかいう条件を考え出すと途端に苦しくなる。結局のところ、世界に組み込まれている以上、迷惑をかけずに死ぬ方法なんてないように、迷惑をかけずに辞めることもできない。かといって迷惑をかけずに生きられるのかというと、そうでもないからこういうことを考え出すわけで。どっちに行っても迷惑しかない。迷惑をかけることに開き直らない限り、生きていくのはどうにもならないなぁなどと思う。
疲れて毎月毎月具合を悪くしながら、辞められもしないのに仕事か人生どちらをどうやって辞めようか、などと栓ないことを考えているくらいなら、休んで寝たほうがいいのだろうということは分かっているのだが、それもなかなかできなかったりする。
ギリギリの人員で回しているし、休める勘所が分からない。休むのにも計画と大義名分を必要とする状況になってしまっているのだが、なんとなく心身の状態が優れないということは自分の中で大義名分に値しないと思ってしまう。体調不良を理由に休むと今度は熱がないことや大したことがないことを必死で弁明しなければならないのも非常に億劫だ。大したことがないなら休んであとの負担を増やすこともないでしょうよ、と脳内で自己完結してしまう。結果、良くならない。
そんな感じでずっと具合の悪い波にぐるぐるし続けていた数ヶ月だった。
月初めの頃、気分転換に自然物を感じようと思って、神社に紅葉を見に行った。
季節のものをその季節に感じておかないとどんどん感覚が狂う。11月なんて数字だけ見ていても全く信じられないが、落ち葉を拾えばそれもそうかと理解するものだ。時計合わせのような、世界との感覚合わせのために、休日は外に出るようにしていた。
それで神社に行ったついでにおみくじをひいてみたのだが、内容がまたそのとおりで参った。
健康運には、頭の使いすぎや他人のことに気を遣いすぎて体調を崩しやすい、とある。仕事運は、他人の小さな失敗が重なって大きな問題となって自分に降りかかる、とのこと。
なんとまぁ。やっぱり。見透されている。神様お墨付きの具合の悪さだ。
全体運には、努力を積み重ねても成果が出ず運気は停滞気味だがくよくよ考え込まずに開き直れ、とある。必要以上に深刻に考えるなと。
これはもう仕方がないのだと開き直るしかない。神様もそうアドバイスするくらいだから、もうどうしようもないのだ。
などと思っていたところ、今週、霜が降りた。
朝、車のフロントガラス一面の霜。
なんだか嬉しかった。これは世界からの時報であるような気がした。いまここに、合わせなさい、というような。
それまでここの季節がわからず、空気がわからず、もやもやとした感じでうまく合わせられないでいた。ここは霧や靄が多く、眺める高い山もなく、白鳥も来ない。頭を悩ます恒例のカラマツもない。それでもこの地にも色づく木々はあり、霜も降りるのだ。いずれ雪も降る。完全未知の世界ではない。合わせようとしすぎず、違いやずれに固執しすぎず、時々ふとあるこうした時報のときに、少しチューニングすればいいだけなのか、と、なんとなく腑に落ちた。
まぁ何とかやっていこうかと思えるような、自分を取り戻せるような、そんな、霜だった。
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