秋の憂心

秋になり、大学では徐々に入試シーズンに入るわけだが、共通テストの受験案内や関係資料なんかを見ていると、これまでこの規模を紙と人力で大きな失敗なくやり遂げてきてしまっていることがある意味悲劇だなとしみじみ思う。

共通テストというのは人が機械の代替をするイベントだ。毎年毎年少しずつ工夫を重ねて機械に成り代わる。プログラミングされたとおりに動かなければならないが、しかしトラブルには柔軟に対応をして自動修復する、理想的な機械になる。

たとえば50万件の出願書類はすべて紙だ。どうしているかは知らないが、確実にこの時期出願書類を一気に50万通分処理する郵便局と事務局があるということで、おそらくひたすら工場のように捌く部隊があるのだろう。
そうして集計された50万の受験者を700くらいの試験場に割り振り、各試験場ではそれを試験室に小分けにする。
試験問題も、解答用紙も、とうぜんのことながら全て紙で、同じように分配され、またそれは小分けにされる。回収され、集約され、処理される。

様々なものの、分配と、分解と、処理と、配付と、回収と、集積と、処理と。人と紙の波間に溺れて気が遠くなる。

ソフト的な面でいうと、司令は大学入試センターからやってきて、全国の大学の教職員は、それを各自の頭にインストールして、コピーされた細胞のように同じふるまいをしなければならない。あらゆる不測の事態も、そしてその時の対応も。ネットワークは神経細胞のように張り巡らされて、全国の大学、教職員らは、人と紙で織りなされた有機的で無機的な一つの巨大な機械になる。

そしてそれは遂行される。

経験を重ねるうちに、もはや奇跡を通り越して狂気を感じるようになった。

壊滅的な失敗が起こらないままに大きく育ってしまって、ドウケツエビみたいだと思う。公平性という名のカイロウドウケツのなかで、破滅と終わりがやって来るまで毎年同じようにそれを続けるしか、道がないのだ。

今年もまた、そんな季節がやってくる。

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