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EOへの手紙


 謹啓
 少林窟道場の同門の士K居士の仲介によって、尊師の御文章をいくつか拝見させて頂きました。大変興味深く拝読させて頂きました。あまり時間がなくて、じっくりとは読んでいないのですが、とにかく早く尊師とコンタクトを取りたく、お手紙差し上げた次第です。尊師のスタイルを踏襲させて頂いて、学人としては無礼ではありましょうが、こういう形のワープロ文でお許し下さい。
 簡単に自己紹介をしておきます。私は平成元年春に少林窟の門をくぐり、その夏に少林窟道場主・井上希道に就いて出家得度しました。そして平成四年春、当発心寺に安居しました。この春と秋に出した「発心寺寺報」は、私が編集したものです。(その役のため、ワープロを打つ環境が与えられていましたが、今回で「寺報」の編集から離れるので、ワープロを打てるのも今夜が最後です)。
 K居士が送って下さったのは、第一回目が「大仙寺における~EOの横槍」「法は無教育なり」。第二回目が「質問者Bへ」「土」。第三回目が「発心寺、少林窟関係者各位へ」とそれまでの物を含めた大量のコピーです。
 先ず、大雑把な私の印象から述べます。
 尊師の説かれる方便は、決して意外な、奇妙なものではありません。それどころか、私が少林窟、発心寺で教わった工夫と根本的に同じと思えます。私が興味をひかれたのは、それが極めて先鋭であることです。「死」ということです。「一息に死に切るしかないんだ」という最初からの結論が、行きつ戻りつの中で急激に煮詰まって来ている時だったので、大変大きな刺激を受けました。
 あまり時間がないので、「発心寺、少林窟関係者各位へ」という名指しの御文章についてだけ感想を述べます。
 どうもこの御文章は他の物と比べて明晰を欠くようですね。少し意気に馳せてしまったのかな、という感じがします。具体性に欠けているように思います。以下、かい摘まんでの感想です。
 ・少林窟門下にとっては、これは決して「前代未聞」ではありません。(ただし、茶碗を頭に乗せるとか、宇宙人云々は除きます)。ポイントは「意識の闇」と「留意」だと思いますが、これは「自己を忘じる」ということと「心を置く」ということに対応すると思います。心を一息に置くも頭頂に置くも同じことです。少なくとも今の私には頭頂を特別な部位とすることは理解できません。禅では「単」になるために工夫を用い、その工夫もなくなってしまうことを「自己を忘じる」「三昧」と言います。その「単を練る」ことを(とりあえず)修行と言っています。工夫は「一つになる」ためだけにするのですから、その一つは何でも良いことになります。一息、公案、見聞覚知、すべて同じです。一つになれば、その一つも落ちなければいけません。「一つ」というものは存在し得ません。それは一切が落ちることを意味します。
 ・「心の陰に『欲の顔』がある」と言われますが、これは必要不可欠なものだと教わっています。それを「菩提心」と言います。一般的には「求道心」と言った方が分かりやすいでしょうか。この「大欲」を振りかざして「今」に、「一息」に切り込んで行く時、それまでの世間的な、ケチな「欲」はケシ飛んでしまう。そして究極に至るまで、それを持続させるのに必要不可欠なものも「菩提心」です。少林窟が「菩提心」を高く掲げる所以です。とは言っても、尊師の言われていることももっともだとは思います。
 ・「求心を捨てなさい」とは言われますが、それは求心の強烈な求道者に対する「薬」であり、一般的に言われることではありません。まして「無欲になりなさい」という教えは聞いたことがありません。一般的に禅の言葉はすべて対機説法、応病与薬です。別の人には丸反対の指示をされることはよくあることです。
 ・少林窟門下が発心寺堂頭老師に対して愚問を発したことを厳しく糾弾されていますが、実際にどのような質問だったのか、あまり詳細には書かれていませんね。バカバカしくて書く気にもならなかったのでしょうが、同門の者としては少し気になるところです。少林窟に参じた者は大概、三日目に言葉を失います。しかしそれは「何も知らないほうがあるがままだと感じ始めたから」ではありません。工夫の「着眼点」が明確になったからです。それは言葉とは無縁ですから、只無言で「今を練る」ことのみになります。少林窟には常に、無言で即今を練る修行者たちが作り出す一種異様な雰囲気に満ちています。(この着眼点を把握させる手腕において少林窟老師は絶古今の力量を持った師家に違いないと、私は思っています)。大仙寺での愚問というのは、その人が他流試合のつもりで勢い余ってそんなことになったのではないかと思います。傲慢ですが、老師を試みるつもりだったのではないかと思います。残念なことです。ただ、そのことだけで少林窟を判断していただきたくないと思います。少林窟門下が、尊師が少し書かれているようなことを本気で問題にすることはあり得ません。そして、私自身、師の徳を損ずるような弟子であってはならないと強く自戒しています。
 ・「現存する禅の方便では探求の道がふさがっている様子を、嫌になるほど、具体的に、実例をあげて、あからさまに書くことにした。」と言われていますが、どこがそれに当たるのでしょうか。私は決して「少林窟絶対主義」ではありませんが、是非とも尊師に少林窟の修行の様子を良く理解して頂きたいと思います。その上で、もし少林窟に欠陥があるというなら、そのことをはっきりと示して頂きたいと思います。少なくとも私が今まで読んだ尊師の御文章からは、少林窟がダメだということは一片も読み取れません。もちろん世に「禅」と称しているようなものは、すべてダメです。なんにもありはしません。そういうものと少林窟を混同しないで下さい。唯一、欓隠老大師の流れを受けた法系のみが法燈を守っているのです。
 ・「論理的に、絶対に反論の不可能な事実を宇宙という場所で、私は持ち帰った。」と言われていますが、それはどういうことなのか、是非とも知りたいと思います。特に「宇宙」という言葉で何を指示されていますか。
 ・「馬鹿になれ、知るな、分かるな、ただいろ」というのは少林窟でも同じことです。少林窟に入山した当初、庭の掃き作務をやっていたら、方丈が通りかかり、傘の柄を私の首にひっかけ、「バカになって、頭を切り捨てることだよ」と言って、首をぐいぐいと引っ張られたこともありました。「頭を切り捨てろ」あるいは「バカになって、一心不乱に一息をやれ」とは口癖のように言われることです。
 ・「我々は滅びそのものだったのだ」とは素晴らしい言明ですね。そういうことだったのか、と感じ入ります。尊師の「死」に関する法話には驚嘆してしまいます。本当に素晴らしいと思います。私はその辺りのことについてほとんど教えを受けていませんから。
 ・何だか、少林窟の弁解がましい文章になってしまいました。しかし、それは尊師の説かれる法を尊重するが故に、少林窟を正しく理解して頂きたいからです。最初から対立しないで頂きたいのです。

 私は、ほとんど直感的に尊師に魅了されてしまいました。これまで少林窟、発心寺でどうしても突き破れなかったものを解く鍵を尊師が提示されていると見たからです。それが「死」です。
 尊師は「私の売り物は死だ」と言われますが、私は是非ともそれを買いたいと思います。さて、そのお代はいくらですか?
 因に、予想外の金が転がり込んで来ましたので、これで尊師の著書を購入したいと思います。『廃佛録』上下、『雑語集』上下、『一転語問答集』を各一部お送り頂きたく、お願い申し上げます。おつりはいりません。尊師の活動資金の足しにして頂ければ幸いです。
 では、尊師との縁をつくって下さったK居士に心から感謝して、終わりにします。
合掌
  平成5年11月14日
                          浅田幽雪九拝
 EO老師
     大坐下

追伸 「座」でも「坐」でもあまり気にしないで下さい。ただの記号です。私は伝統に従って「坐」を使います。

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EO様
禅の修行は「注意力の持続」ではありません。それは根本的な誤解です。
「持続」「継続」「維持」というようなものを持ち出すと、それは全く逆立ちした修行になります。「前後」をつけてしまうからです。それは全くの妄想です。
「一息」が呼吸の長短、深浅、粗精と無関係であることと同じです。
常に「瞬間」の問題なのです。一瞬の勝負なのです。
問題なのは、常に「今」だけです。

EOは「認識と次の認識の間の空白」を言っていますが、問題なのは、その一つの「認識そのもの」です。
「事実」と「認識」の間には距離がある、というのが雪渓老師の持論です。認識は常に後です。
その「認識の手前」に帰ること、そこに留まること、それが修行です。
それが「只」です。
それはEOの言う「空白」と同じです。
合掌
  1994 1/19
                          幽雪十拜

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EO様
「巨人の星」はすばらしかった。EOの最高傑作だ。これほどしみじみと笑いころげた文書はない。

昨日、EOに手紙を書いて、すっきりしたのか、留意は更に明確になった。

そして、まずいことに、すべてがバカバカしくなって来てしまった。少林窟も修行も、すべてがバカバカしく、気違いじみているように感じて来てしまった。

「修行僧」であることは、今の僕の最低ラインだ。これが僕のアイデンティティーのすべてだ。これを破ることは、本当に、本当に、すべてを失うことだ。
それは、死ぬより最低のことだ。
修行して死ぬことなど何でもない。それは栄光であり、名誉でさえある。本望というものだ。

悟って人に認められることやら、印可やら、世間的な活動やらという外部的なことは、それに気付けばバカバカしいと簡単に捨てられもする。
しかし、「修行者であること」「菩提心」は、絶対に死守されねばならない最後のラインだ。それを破ったら、僕はゼロ以下に落ちる。

しかし、やることなすことすべてが「悟るための工夫」と化してしまう。

「バカバカしい」。中学の頃の口癖がよみがえる。
                              合掌
  1994 1/24
                            幽雪十拜

追伸
『巨人の星』が禅の奥義書だとは知らなかった。
僕の人生は『巨人の星』と共に始まった。あのアニメが僕や僕の世代に与えた影響は計り知れない。

 思い込んだら、試練の道を、行くが男のド根性
 真っ赤に燃える王者のしるし、巨人の星をつかむまで
 血の汗流せ、涙を拭くな
 行け、行け、飛雄馬、ドンと行け  

こりゃ、まるで僕のことじゃないか。
そうだったのか。「厳しい修行」に対するマゾヒズムにも似た憧れが、ここで植え付けられていたんだ。

  1994 1/25
                                十

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EO様
よくこれだけ大量の文書が生産できるものだなと感心致します。これじゃ消化不良だな。
今ようやく坐禅ができるようになったような気がする。
「本当に只坐ること」はまだできないけれど、単純に只坐りたいなあ、と思う。
そのあとの「ごほうび」が目当てじゃなくて、単純に只坐ることだけで充分だ。
もう何もいらない。

敬宗老師はなかなか味のある人だと思う。会えなくて残念だった。その(もしかしたら嗣法の)弟子が二人ばかりいる。一人は玄心さんというじいさん。もう一人は老師の奥様。この奥様は生来のものか度量が大きくて腹がすわっている。「あなたなんかね、視野がズーッと狭くなっちゃってるのよ。そんなものポンと取っ払っちゃってごらんなさい。パーッと世界が広くなって、ステキよーっ」なんて言われたっけ。
玄心さんには会った途端に法戦をしかけられてしまって随分イビられた。でも僕が着眼を分かっていることが分かると随分気に入ってくれて意気投合してしまった。明らかに心が騒いでいるのに、それを指摘しても「いーや、なんにもないっ!」と言い張るその「頑固さ」と自信にあっけにとられてしまった。
敬宗老師の「味」を伝えてくれるお二人である。
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「なんでもみんなよろしゅうございますなあ」
という言葉が不意に思い出された。誰が言った言葉だったかなあ、としばらく考えた。そして記憶をたぐって行ったら、それは、ゾシマ長老が行脚していた頃、彼が出会った漁師の青年の言葉だと思い出した。久しぶりに『カラマーゾフの兄弟』を引っ張り出して来て少し見てみた。何とすばらしい作品だろう。今読んだら涙が止まらないな。

                              合掌
  1994 1/29
                             幽雪十拜

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EO様
一人の大悟者も打出せずにやめてしまうつもりじゃないだろうね。

あなたの力によって、今、僕の中から大きな重荷がズルッと落ちた。
そして「この身」だけが残った。
ようやく、あなたの友になれそうな所まで来た。

今朝、EOにもう一度会いたい、と思った。
この摂心は19日で終わりにするから、20日の午後にでもお邪魔させて頂きたい。そして一泊だけさせてほしい。布団などはいらない。毛布一枚だけ貸して頂ければ十分だ。

只、EOに会いたい。只会いたい。
どうぞ宜しくお願いします。

これから僕の「遊行」(又は幽行、悠行、融行)が始まる。
それは「末期」の戯れだ。零点振動。

そうだ。あなたにとても言いたい言葉があったんだ。死人禅門下としては失格なんだろうが、それでもかまわない。僕は既に一切の失格者だから。

「ありがとう」

                             合掌
  1994 2/3
                           幽雪十拜

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EO様
このところ肉体的に変調を来している。頭部の圧迫感はとても強い。特に眉間が強烈になっている。全体的に締め付けられるようだ。
そして心臓の動悸が激しくなっている。それが時々異常に昂進する。何か心臓にとても大きな負担がかかっているようだ。

しかし、坐禅は楽しい。たばこを吸うのは楽しい。歩くのは楽しい。食事をするのは楽しい。何もかもが楽しい。静かに楽しい。
時々、郵便局へ行く。広々とした田んぼ、その中を一直線に通っている道路、走る車、近くの山並み、吹き渡る風、すべてが美しい。全く当たり前に美しく楽しい。
そう言えば、釈尊もその「最後の旅」の時、「楽しい」を連発していたなあ。

2/1のメモは雪渓老師と方丈にも送った。そもそもあれは、雪渓老師が『百尺竿頭進一歩』と銘を書いてくれた絡子(袈裟の代わりに着けるよだれ掛けみたいなやつ)に目が留まった時、ふと浮かんで来たものだ。僕が「作った」ものじゃなく、単に僕が書き留めただけのものだ。禅語を使ってあるから何とも仰々しいが、単に失格者である今の僕の様子だ。二人とも「ふざけるな」って怒るだろうなとは思ったが、何となく送ってみたくなった。まあ、あれは雪渓老師に対する絶縁状だな。

しかし、まあ、「何者かになろう」とすることを諦めたら、こんなに楽になるものだとは驚くばかりだ。そして、すべてが、一切が、そのままで、完全に丸く治まってしまっている。なんということだ。
「末期」の者には、悟りや光明がなくても、そんなことはちっとも問題じゃない。悟ってないからダメだ、と言われても、もはやそんなことは関係がなくなってしまった。意味を喪失してしまった。
僕はこのままでしかなく、ここから動かない。いや、動けない。

そんなことは単に居直って、問題解決を回避しただけのようだが、それでも逃げおおせれば、それこそ問題なかろう?。末期の者には、もう時間がないのだ。
この末期の時こそ尊い。その時初めて、一切のものと本当に親しくなれる。自己のはからいが存在する余地を失い、全くの無力となる。

僕は禅者として全く失格してしまったが、これで初めて単々と行じて行くことができるようになった。お師家さんたちは「只やれ」と言っていた訳だから、それで文句はなかろう?。

僕はもう、今まで何をやっていたのか、何を求めていたのか、さっぱり分からなくなってしまった。何にも思い出せなくなってしまった。一体、何をやっていたのだろう。
あまりにも、これは変だ。何かが狂っていた、あるいは狂ってしまった。
もし、狂ってしまったのだとしたら、これはもう全く極当たり前の静かな狂気だ。

全く、今まで何をやっていたのか分からないなんて、変だ。
確かに同じことをやっていた。坐禅して、歩いて、食事して。全く同じことだ。それが、何で、こんなに決定的に違うんだ?。

少林窟で達した状態にも似ているが、違う。何かが「欠落」してしまっている感じだ。「充実感」とかそんなんじゃない。あまりにも、あまりにも当たり前だ。

まあ、そんなことはどうでもいいや。
                              合掌
  1994 2/4
                             幽雪十拜

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EO様
「只坐る」ということを誤解していたようだ。
どうしても「無念無想」だの「三昧」だのという言葉が頭にこびりついてしまっていた。そういうふうになることを「只坐る」ということの内容としてイメージしてしまっていた。何か「雑念」というようなものがあったら、只坐っていることにならないような気がしてしまっていた。
そうじゃないね。「只」とは単に「取り引き」のないことだね。「見返り」を求めないことだね。
雪渓老師は「やりっ放し」と言っていた。なるほどな、と今ようやくうなずける。
「雑念」は雑念ながら、そのままでしかない。もう何にもなくなってしまうべきなのかも知れないが、あるものは仕方がない。「無念無想」には別に用事がない。

もう何もすることがなくなってしまって、何もできなくなってしまって、終日坐っている。ただ、EOから手紙が来ないかなあ、ということだけが待ち遠しい。今日は日曜日みたいだから、手紙は来ないだろう。
日差しが静かに暖かい。
                             合掌
  1994 2/6
                           幽雪十拜

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EO様
階段の途中に母がカレンダーを掛けてくれていた。今まで見向きもしなかったが、ふとそれに目が留まって、驚いて見入ってしまった。それには素朴画風の絵が画いてあるのだが、それはこんな情景だ。小川に木橋がかかっている。その欄干からお姉さんと弟が川面を見下ろしている。お姉さんは弟に寄り添うようにして、そっとほほ笑みながら弟の肩に手を置いている。その弟が何をしているか。
彼は自分の奴凧を釣り降ろして、それを見つめているのだ。少し憂いを含んだ表情で。川面は静かで、その奴凧がはっきりと映っている。少し離れた所で二人の少年が、空高く凧を上げながら、こちらを見ている。遠くに富士山のような雪の山がそびえている。空は雲一つなく晴れ上がっている。
一体どういうことなのだろう。凧を上げるには、最初少し走る必要があるが、この少年はそれができないのだろうか。
彼は川面に映る空に向かって彼の凧を上げているのだ。
何ともおもしろい絵だ。こりゃ公案画だな。

   * * * * * * * *

この前、『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャが覚醒(というふうには表現されていないが)に至る「ガリラヤのカナ」の章を読んだら、ボロボロ泣いてしまった。キリスト教の世界の話だから、変に悟りだとか見性だとか仏性だとかが出て来なくて、素朴で新鮮だ。
ま、これは小説だからね。でもとてつもなく素晴らしい作品だ、と思う。僕はこの作品に出会えて幸運だった。やっぱり本を選び出す僕の「嗅覚」「直感力」は天才的だ、と我ながら感心してしまう。
この中に「ゾシマ長老の年若き兄」というエピソードがある。「末期」の美しさを見事に表現している。その「兄」は末期において「最低」の者になった。それは正にイエスその人だ。それが後にゾシマ長老を生んだ。

   * * * * * * * *

『これ』は話の半分なんだろう、と思っていた。
これからが「禅」の話だろう、と思っていた。
ここから「菩提心」に鞭打って、「勇気百倍」して、「只管」で「只管」を越えて行かねばならぬのだろう、と思っていた。
ここから本当の「只管打坐」が始まって、そして「工夫なき工夫」を「練って」、「三昧」になって、「縁」に「打発」されて、「悟り」とか「見性」ということが「現成」するのだろう、と思っていた。
そのように教えられていたから、そう思っていた。

しかし、どう見ても、『これ』は『これ』でおしまいの話だ。
僕は『このまま』でしかあり得ないし、これで十分だ。
もう何もいらない。全然、必要じゃない。

悟っていないからダメだ、と言われても、それはもう僕には何の意味も成さない言葉だ。これから悟る必要など何もない。
これから悟る「悟り」など、丸で絵に画いた餅だ。そんなものいらない。

すべてのものが意味を喪失してしまった。
意味がないから、そのものが、そのものだけで、そのものだ。
すべてのものごとが、ただそれだけのものだ。
それだけで完結している。

以前となんでこんなに決定的に違うのか、よく分からないが、禅の用語を使えば、以前は「求心があった」と言うことになるんだろうか。
これは雪渓老師からずーっと指摘され続けたことだ。

しかし、不思議だ。なんとも、不思議だ。
不思議過ぎて、なんにも考える気にならない。
ただこのまんまでおしまいだ。

   * * * * * * * *

高校の時の「あの朝」のことは、すっかり忘れていた。
結局、問題は、ほとんど無意識の中の「動き」なんだな。
どんなに「形」を止めても、「意識」を止めても、「無意識」というような領域で動いているものがあるんだろうな。
それが、あの朝、一時的に止まったんだな。
それは決して表面の「意識」の問題ではないな。
「形」も「意識」も止めることは比較的簡単だし、そういうことは修行とは関係なくすべての人に時々起きているはずだ。
しかし、それだけでは決して『・』は現れないはずだ。
それに「心意識」を止めることが『・』なら、それにズッポリ浸り続けるなんてことは不可能だ。
「心意識」の動きが止まることで、「無意識」の動きが殺されるんだろうか。
とにかく、形でもなく意識でもないところで、何かの「動き」が完全に息の根を止められるんだろう。
ま、その何かを禅では、多分「求心」というのだろう。

だから、本当に「死ぬ」必要があるのは、形でもなく、意識でもない。
それらはただの現象だ。その元になっているものが、何かあって、それを殺すために形と意識を使うのだろう。
あ、それを釈尊は「無明」と呼んだのかな。

ま、そういう詮索はどうでもいいか。

   * * * * * * * *

もうEOから手紙が来ないんじゃないかと心配だった。
死んだのかも知れないと思っていた。
このところ、人が死ぬことを極当然のことと思っているから、すぐに「死んだかな」と思ってしまう。

仏教者が葬式を司るのはすばらしいことだな、と思うようになった。常に死者と接し続け、死人の「先輩」として引導をわたす責務を負っている。
秋口に発心寺の檀家さんの息子が死んだ。まだ高校生だった。僕が枕経も通夜経も火葬経もやった。葬儀では侍者だった。あの子のことを何だかしきりに思い出す。
                              合掌
  1994 2/7
                            幽雪十拜

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EO様

沈黙はやはり偉大だな、と思う。
小賢しくなってはいけない。
黙るに越したことはない。
結局、只坐るというのが始めであり、終わりなんだな。

昨日から断続的に雪が降っている。大分冷え込んで来た。
発心寺では涅槃会摂心が始まっているかも知れない。
                         合掌
  1994 2/10
                       幽雪十拜

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EO様
親元に帰っていた時、テレビで「裸の大将放浪記」の再放送を何度か見た。初めて見た。娯楽番組にされちゃってるから、「水戸黄門」的に、最後に「あの有名な放浪の天才画家山下清画伯ですよ」となるのが鼻についたが、確かにすてきな人だなあ、と思った。全く雲水顔負けだな。しかし実際、あんな軽装備で金も持たずに放浪していたのかなあ。数日で野垂れ死にしちゃいそうだけどなあ。

いずれ僕もそんな行脚をしてみたいな。まあこれは気質の問題も大きいように思うし、僕はどっちかというと植物的に一か所にじっとしている方が好きみたいだから難しいかもしれないけどね。
「野に咲く花のように」というテーマソングも素朴で良かったな。

EOが二人の旅人の話をしていたよね。一人は目的地を捜し回り、一人は目的なく只ぶらぶらと村をさまよって多くの友人を作り村の様子を知悉してしまったという話。本当にそうだな。旅も人生も目的、目的地があると、その途中の様子を見過ごしてしまうんだな。今が目に入らなくなってしまうんだ。目的地のない行脚っていうのがいいな。
                            幽雪十拜

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EO様
やれやれ、「この死にぞこないめ」と言われて一安心。
一時はどうなることかと思ったよ。

発心寺にいた時に『麻意ね、死ぬのがこわいの』という本に出会った。
白血病で7歳か8歳くらいで死んだ少女の記録だった。白血病の最期が、こんなにもむごいものだとは知らなかった。こんなに生々しい末期に出会ったのは初めてだ。
その治療の苛酷さもさることながら、もう手の打ちようがなくなり、白血球がゼロになってしまった最後の1、2週間の様子には、もう絶句するしかない。それまで懸命に彼女の延命を願っていた母親も、そのあまりの凄絶さに「麻意、もういいよ。よく頑張ったよ。もう楽になってよ」と祈らざるを得なくなったほどだ。
彼女は聖ロカ病院で死んだ。そこの牧師の対応は十分なものだとは僕には思えなかったが、しかし彼女は自ら進んで洗礼を受けた。その頃、彼女はこんなことを言った。「麻意ね、神様を信じているけど、それでも死ぬのがこわいの」。
その後、彼女の心の様子がどのように変化して行ったかはわからないが、確かに彼女は自分が死ぬことを理解していたし、自らの死を受け入れていたし、周りの人々を気遣っていた。
自分が間もなく死ぬことを覚悟したこの少女に、誰が何を言い得ようか。
僕の「修行」など、なにほどのことがあろうか。

彼女が最期を迎える前、母親は彼女の完治を信じながらも、彼女が死んだ時に着せたいという思いから、白いドレスを買う。その最期を迎える直前、一見まだ元気そのものだった彼女は一度だけそのドレスを着て、はしゃいで見せる。彼女が死んだ時、母親は彼女にそのドレスを着せて葬った。おそらくその肉体は見るに堪えないほどに崩壊していただろう。しかし、それは「麻意」に違いなかった。「麻意」そのものだった。

以前、『アンナの小さな神様』(原題“Mr.GOD, this is Anna")という本に出会った。8歳で事故死したアンナという天才的洞察力を持った少女の物語だった。この原題は、彼女が、彼女の「神様」に語りかける時の、その祈りの冒頭の言葉だ。全くのフィクションなのか、実話に基づくのかわからないが、尋常ではないリアルさがあった。
彼女が死んだ後、話し手である作者がこんなことを言う。「アンナは、今どこにいる?おれの『なか』だ」。

麻意もアンナも、僕の中に生きている。
死ねば、それでおしまいで、その亡きがらはただのゴミなのかな。
死体そのものをどうこう問うことは、あまり意味がないように思う。
「敬意」とか何とかじゃなくて、全く違う思いが僕の中にある。
それを「妄想」と言うなら、それもよかろう。

麻意もアンナも、彼女ひとりで生きて、死んだのではない。
正に、僕の中で、生きて、死んだのだ。そして、その関係性、「縁」は死なない。
だから、麻意もアンナも、僕の中に生きている。

死も死ではなく、生も生ではなく、意味もなく、無意味でもなく、価値もなく、無価値でもなく、そういう「さかしらごと」と関係なく、ただ是の如くにあることしかなにものもない。

「何も残っていない」などということは、玄心じいさんにでも言わせておけばいい。
僕にはそんなことは用がない。「残る」も「残らない」もない話だろう。
「死にぞこない」で大いに結構。それこそ末期の者だ。そこに麻意もいる。

死に死に死に死んで、死の終わりに冥し。
                           幽雪十拜

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EO様
警策(きょうさく)をお送り致します。
少々のことでは折れないとは思いますが、材は柿ですので「実戦」にはチト使えないようなオモチャです。飾りにするなり、ご母堂のおつむをコツンとやるのに使うなり、つっかえ棒にするなりしていただければ、幸いです。
これは、昔、少林窟の裏の軒先に生えていた小さな柿の木でした。渋柿が10個程度つく木でした。
この警策に、その唯一の面影を残すのみとなりました。
2000番のペーパーで仕上げてありますが、材質が柔らかいので、濡れたタオルで拭くと艶が落ち、ザラついた手触りになります。もう一度ペーパーをかければ、すぐに元に戻ります。
更には、ビンなどのガラス面でこすると、表面が押し固められて、コーティングしたようにピカピカ、ツルツルになります。あまりピカピカにしても良くないかな、と思いましたので、それはしませんでした。

   ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

手塚治虫の『ブッダ』のオチみたいなことを、EOも言うんじゃないだろうね。
まあ、「振り」に過ぎないのかも知れないけれど、あんまり力まない方がいいね。
かえって滑稽なことになるよ。

それはともかく、「最終通達」を読んで、何かがクリアーになった。
境涯とか何とかという結果はさておいて、それ以前に、ちゃんと行ずべきことを行じているのかどうかということが、そもそも問題だ、ということ。
あまりにも当たり前過ぎて、あまり意識しなかったが、実はそういうところが問題な訳だ。
ブツクサ雑音ばっかり言っているに過ぎないんだな。
経典を持ち出すとなんだが、『法華経』の「寿量品」の最後に、こうあるよ。
「我常知衆生。行道不行道。随応所可度。為説種種法。毎自作是念。以何令衆生。得入無上道。速成就佛身。」
EOも結局おんなじようなもんだろう。
法を説く人は大変だ。ご苦労様。

今日、托鉢に行って来た。忠海に帰って来たのは昼を過ぎていたから、駅前でお弁当を買って、海辺の方に寄り道して野外昼食にした。ちょっとした岬のように小高い丘がある。公園になっていてゲートボール場がある。
日差しは柔らかく、暖かく、松風がさわやかだ。ゆるやかな波の音。時折、行き過ぎる船のエンジン音。目の前を滑空して行くトンビ。折り重なる島影。

タウに瞬きの瞑想を教わった。
彼はほとんど瞬きをしないが、時々ゆっくりとまぶたを閉じる。それは全く穏やかなくつろぎを示している。
是の如くあればいいんだな。

ところで、
この柿は、生か、死か?
                          幽雪十拜

  ************************

EO様
お母さんの具合はどうですか。
親元で独接心をしていた時、両親の終末を思った。僕自身の「修行」などというものが、バカバカしく思えた。そんなことより、この両親の終末まで、彼らと共に過ごした方が良いように思えた。今、両親は二人だけで暮らしているが、僕にはしっかりした兄がいるから、いざとなれば、兄夫婦が親の世話をしてくれるのだろう。その点、僕は全く気楽なのだが、僕を生み育ててくれ、僕の無茶苦茶な我がままをそのまま黙って見守ってくれ、僕の無事を祈り続けてくれている両親に何らかのお返しをしたいという思いがある。
人生、そらごと、たわごと。まことあることなし。

今日は雨上がりのさわやかな快晴だ。
タウはこのところ全く無気力そうにデレーッと寝ていることが多い。
コスモスやスイートピーの芽が大分成長して来た。
今日は人が少なくて、のどかで、穏やかな一日だ。
言うことなし。することなし。
                            幽雪十拜

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EO様
ここへ来る人達は、一体、何を求めて来るのだろう。
悟り? 安心? 解脱? 落ち着き? 静寂?
あるいは、的確な判断力? 決断力? 度胸? 円満な人格?
あるいは、禅という何かしらすごそうなものを体験してみたいという好奇心?
僕自身が禅にかかわった最初は、「これはすごいなあ」「これが最も根本的な道だろうなあ」という好奇心みたいなものだった。かかわったが最後、「悟り」というやつが出て来て、最後までやり遂げないと始末がつかなくなってしまった。そして「本物探し」が始まって、「これだ!」ということになったのが少林窟だった。
この連休中に参禅に来た人が所感を送って来ていた。少し前だったら、「なかなか心境が進んで来たようだが、ちょっと法我見が出始めたかな」ぐらいに感じるところだろうが、今は、呆れてしまって呆然としてしまった。
結局、みんな、そんなもんさ。
「自己の死」を求める人なんていないさ。まして、参禅するような人に、いる訳がない。それは求められ得るようなものじゃないさ。
それは期せずして、突き付けられるものだろう。
ここに来る人達は「悟りゲーム」を楽しんでいるんだから、それを邪魔するには及ばないさ。そうやって、楽しんで、楽しんで、最後に絶望してしまった人とだけ、僕は話をしたい。その時こそ、本当に語り合えると思う。
ノイローゼとかで苦しんでいる・・・

  ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

今、海蔵寺(方丈の自坊)の奥様から電話があり、子猫が屋根裏で死にそうになっているから助けてやってくれとのことで、レスキュー隊として出動して来た。親に見捨てられて3日くらいたっており、もうかすかに鳴くのがやっとで、水をやってもほとんど飲めない状態。親が来ても、もう取り合うこともなかろう。死ぬのは時間の問題だろう。何もなすすべがない。呆然と看取ってやるだけ。そこに、かわいそうも何も入る余地がない。

  ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆

さて、なんだっけ・・・
ノイローゼとかで苦しんでいようが、何だろうが、かまわないが、苦悩している人というのもいるが、そういう人は、その苦しみが除かれれば、それでOKな訳だ。悟らないと除かれないような苦しみを苦しんでいる人なんて、あんまりいないんじゃないかな。大概は精神科のカウンセラーにでもかかった方がいいような人達だ。

そう、この前の手紙で書き忘れていたことがあった。
EOが「寺はなんのためにあって、どうしてそこにいるのか」と質問していたね。
それに対する僕の答えはこうだ。
「私は『寺』に、いるのでは、ない」。
「寺」というものは存在しない。「世間」というものも存在しない。
仏はいない。衆生もいない。男はいない。女もいない。人間はいない。動物もいない。では、何がいるのか。
「『このもの』というのが最も適切な表現です」
と言うのが、雪渓老師だ。
そして、この「このもの」が「ここ」にいるだけだ。

かなり昔から、こんな問いが去来することがあった。
「度すべき衆生は、どこにいるのか?」。
どうして、こんな問いが生まれたのか、不思議だが、今、その答えは明らかだ。
「どこにも、いない」。
いるのは、「その人」だけだ。どんなレッテルも、無意味になって、はがれ落ちた「その人」だけだ。「その人」は「衆生」なんかじゃない。
そして、「その人」と「このもの」との間に生じた「縁」が動いて行く。
無常に変化して行く。何と速やかに、激しく変化して行くことだろう。
                            幽雪十拜

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EO様
EOからも、あっさり縁を切られてしまったかな、と、つくづく無常を感じていた。この頃、本当に無常が身に染みる。僕も動く、周りの人達も動く。目まぐるしく動いて、めまいがして来そうだ。アメリカン・フットボールみたいだ。・・・でも、気がついたら、僕は、ここに、いつもいる。何とも不思議だ。
まあ、とりあえず、また土俵際で残ったのかな。いずれにせよ、僕からは一方的に手紙を書くけどね。EOと同じようにね。

では、
                            幽雪十拜

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EO様
以前の手紙で書いたけど、僕がレスキュー隊として救出した子猫は、翌日には死んでしまった。海蔵寺の藤の木の下に埋葬して心経を読んであげた。死に際して、最後のけじめをつけてあげられる坊主の身というのは、有り難いものだと思う。

人が変容するというのは、一体、何が、どうなるんだろう。
言葉が迷いの元だとしても、言葉自体に問題があるのではなかろう。
言葉によって形成された概念とか観念自体ということでもなかろう。
心の果てた人は、そういうものを自在に使いこなすのだから。
僕は深層心理学というものを知らないが、やはり根本的な問題は無意識の領域にあるように思う。ある意味で、仏教は精密な実験深層心理学でもある。唯識というのが、そういうものだ、と聞いたことがあるように思う。
何かが、無意識の領域に沈んで固着しているのだろう。それを時間的側面で言えば、過去の記憶、特に深い心の傷(トラウマとか言ったっけ)ということになる。
そういうものは、明るみに暴き出すことで、自ずから消滅するようになっているようだ。それを促すのが心理学的セラピーなんだろう。
EOの「何のための修行か」という問いは、正にそういうものだろう。

人に対すると、その人の波動というようなものを感じる。その人独特の何かがあって、それが僕に伝わって来る。僕もそれに同調してしまって、感染してしまう。それは感情的な揺れとか情念というようなものであることが多い。
なぜ、そんなものを、それぞれの人が持っているのか不思議に思う。正に十人十色だ。それも刻々に移り変わって行く。
それを「個性」と言っていいのかどうか知らないが、そういうものが形成され、維持されている「場所」がどこかにあるのだろう。それは無意識の領域だろう。
そういうものをあらわにしなければ、人の変容というものは起こらないのではなかろうか。坐禅というものを始めると、様々な思いやら記憶やらが湧き出して来る。それが無意識を暴くことにつながる。しかし、そういう行と共に、クリシュナムルティーのような対話、問題の所在を共に探求して行く対話というものが、とても重要になると思う。その人の過去に逆上り、無意識を暴き出して行く対話だ。それは確実に行を促進して行くだろうと思う。そのための釣り針として、公案はあるはずだ。

今には、何も問題が存在し得ない。問題があるとしたら、それはすべて過去と未来だ。それは架空のものだから、明るみに出されると自然消滅する(と、簡単に言えるかどうか知らないが)。無明とはよく言ったもんだ。

一人の人を救う、なんてことは、とてつもない大仕事だ。自分の全存在を懸けても、尚できるかどうか怪しいものだ。結局、そんな傲慢なことはできない話で、せいぜい、その人が自分で自分を何とかするのを手助けしてあげられるだけのことだ。
サリンジャーの『フラニーとゾーイー』を思い出すなあ。
                             十拜

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EO様
同封したものは、アメリカに留学している方丈のご子息がFAXで送って来たものの写し。学校の宿題だそうだ。いかにもアメリカらしいな、と思う。こうやって自分の価値観というものを明確にさせて行くんだな。
以下は僕が送った回答。

I′m sorry that I can′t response to you according your question.
I think that only value is vanishing of any value that is any value becomes nonvalue. It is same vanishing of ME.
The values of the list are concerned our external world and inner world. But if I vanish that is I dead, any value becomes meaningless. And in the DEATH, for the first time, we can quiet down.
“Value" is meaning the intention to anythingelse except NOW. If you can′t quiet down in just now, you can never quiet down in anytime. If you are clamorous to want anything, even if it is the most valuable thing, you can′t be happy, free, salvaged, wise, ・・・ etc.
Then, in the first, you must kill yourself that is your sense of values. In the vanishing of yourself, everything is accomplished already.
                         by JU yusetsu

では、
                             十拜

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EO様
人間なんて愚かしいもんだなあ。今、東京から来た若い女性が、一日で帰って行ったよ。それなりの楽しい生活の中に浸っていて、自分の中の本当の苦しみに真っ正面から向かい合うことができないみたいだ。どうにも手の施しようがないし、無理にそうする必要もない。人間なんて、そんなもんなんだろう。禅は末期の水だ。それが本当に必要な人にしか与えてあげられない。

人間のやることなんて、本当にすべてがバカバカしい。全く無意味だ。何かに価値があると思うなんて、なんて愚かなことだろう。

自宅で接心やっていた時のこと(だけじゃないけど)は、ほとんど記憶にない。たんぼのあぜ道に吹き渡る風くらいしか思い出せない。茶碗を乗せていた時間なんて分からない。ただ茶碗を乗せていたせいで首が痛くなって来たことはあった。そう、それで、もう乗せていられなくなって、もっと軽い物は何かないかと思って、硬貨だとかメダルだとかを試したこともあった。でも、ちょうどいい重さの物がなかったような気がする。それで結局どうしたんだったかなあ。茶碗を乗せる時間を減らしたのかな。忘れた。
その後、ぶっ通しの留意を指示されて、朝と夜とか留意が甘くなったような時とかに茶碗を乗せていたように思う。
もしぶっ通しで乗せるのなら、もう少し軽い茶碗の方がいいかも知れない。特に新しい小ぶりの茶碗はちょっと重いね。

ああ、本当に愚かだ。バカバカしい。ならば、本当にバカになるしか道はないな。
                              十拜

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EO様
いろいろと、ご注言ありがとう。
すべてが甘くなっているのは確かだと思う。
ただ、それすらよく分からないまま、テンションが落ちてしまっている。多少、言い訳みたいな言い方になるが、刹那刹那の流れにのまれてしまって呆然としている感じではある。いよいよ過去のことを(昨日のことさえ)思い出すのが、困難になっている。
それを、開き直って、善しとしている面があるんだろう。

いくつかの事で事実関係に誤解があるようだが、一々言っても仕方がないかな。
一つだけ言えば、僕はEOイズムというものは「死」と「絶望」に集約されると思っている。もし僕がEOから学んだものがあるとしたら、この「絶望の視点」こそ、それだろうと思う。それは禅が、本来そういうものであるにもかかわらず、完全に見落としているものだろうと思う。だからこそインパクトがあった。
僕が人に何か語ることがあるとすれば、この視点を抜きにしたものにはなるまい。

「悟り」という言葉は、もうセピア色の郷愁を帯びた言葉になってしまったな。懐かしく、便利な良き言葉ではある。ただ、悟りそのものは、蜃気楼のように消えてしまった。一杯の水が「良い」かどうか知らないが、良いこともあろうし、どうでもいいことも多かろう。

僕が、どうしてここにいるのか、いよいよ分からなくなっている。何も考えられなくなった。もういやだ、と思う時もあるし、頑張ろうと思う時もあるし、いいかげんなもんだ。ここにいると修行が進む、なんていう感覚はない。そんなことあるはずがない。
ここだと、世間なんかより、ずっともみくちゃにされる。それが厳しい修行になって、僕には、いいのかも知れない。

如何に食うか。
何故、食うか。
どこで食うか。
みんな、たわごとだな。

では、、
                             十拜

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EO様
いやーっ、うれしかったなあ。
ひさびさに、マトモな手紙だったなあ。
これだね、これ。こう来なくっちゃ、いけないね。

特に最近のEOは、これでお仕舞いにしたいからか、余計なことを言い過ぎている。

まあ、このクソ暑いのに、断食とは恐れいっちまうが、そりゃ一体、何なんだい?
自分の首を引っ提げて、門下を追い詰めようって算段かい?
それで大悟する者が出れば目出度いもんだが、まあ、恐らくはイエスの場合と同じだろう。彼も自分の死と引き換えにして弟子を何とかしようとした。しかし彼の「期待」していたのとは違った方向で、何とかなってしまった。
この分じゃあ、死人禅もキリスト教の二の舞いになっちまうわな。
イエスもEOも急ぎ過ぎているようにも思うな。釈尊のように50年もボロボロの肉体を引きずって遊行するだけの根気がないのかね。

またEOに会いに行きたいな、と思っている。もし断食を続けるのなら、この猛暑の中では、その頃が、そろそろ肉体の限界だろう。
まあ、どうなるか分からないけど、そんなことを思った。
維摩を見舞う文殊みたいなもんだな。

では、--
                              十拜

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EO様
最初から無心、無欲、無我を求める人なんていない。
無心、無欲、無我なんて、結果の話であって、修行者がそういうものを求めている、と言ってみても、それはただの想像物、虚構に過ぎない。ただ、そのように教えられたから、そう言ってみるだけの話だ。それに禅の修行者の中には、そういうことを言う人は、あまりいないだろう。いたとしたら、頭の中で理屈をこねているだけの人だ。
人の発心の動機は様々だろうが、そういう抽象的なものであることは、あまりないのではないだろうか。抽象的な問題で発心し、修行し、出家する人は少ないだろう。そういう人は書物の中に埋もれて行くことが多いのではないかと思う。
最初は、やはり具体的な悩みなのではないだろうか。幼少の頃の心の傷が無意識下で衝き動かしている場合も多いだろう。抽象的な問題に取りつかれる場合にも、その下には、そういうものがあるはずだろうと思う。
雪渓老師は、出家の目的を鮮明にさせよ、としばしば言われる。それこそが最も大切なことだろうと思う。それが修行を押し進める原動力であり、最終的に脱落させるべきものだからだ。

要するに、修行者が、「何かの代用品で満足できる幸福」を求めているに過ぎないとしても、それが得られても満足するということは決してあり得ない、ということだ。
雪渓老師の言葉を借りれば、「満足は次の不満足を生む。だから、そういうことはやめなさい」ってとこかな。
みんな大した違いはないのだ。僧・俗という決定的な違いが、固定的にあるのではない、と僕は思う。
禅は、来た者に対しては、究極の満足を得るための方法を授ける。その人に必要なのは、本当はそんなものではなく、もっと違ったものである場合が多いのだろうが、そんなことにはおかまいなく究極の道を示す。だから、大多数の人達にとっては、ただ一時の経験で終わってしまう。しかし、最後の最後、どん詰まりにおいては、この道しかないのだ。
その人が、本当のところは、何を求めているのか、ということをあからさまにして行く対話は、とても重要だろうと思う。あからさまにされるだけで消滅する問題というものも多いのではないだろうか。

要するに、何が言いたいのか、と言うとだな、破門だとか絶縁だとかと言う前に、もっと学人の心を掘り返してみる必要があるのではないのか、ということだな。まあ、それは十分やったのかもしれないし、去って行く者を追う必要はないけれど、EOの方がダメという結論を出すのは、何かヘンじゃないかなあ、という気がする。
悉有仏性とも言うしね。
また5人で飯を食いたいもんだな。

まあ、人の事どころではないな。こっちが破門されかねないからなあ。
では、---
                               十拜

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EO様
よし、きた。OKだ。
僕は冗談を本気にしてしまうことが多くてね。ジョークの通じない人間なんだな。
                              十拜

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そうだ。苦諦は僕がずっと気にしていたものだ。EOの言う通り僕にはその見極めが全くできていない。その見極めがなければ、途中で頓挫してしまうのではないかとも思っていたが、禅は苦そのものをあまり追及することなく(あるいは、それは当然の前提としているからかも知れないが)、いきなり道諦に入る。とにかくこうしなさい、と教えられるので、こっちとしては、それに従うだけだから楽なものだ。ただ、言われた通りにするにはどうすればいいのか、ということだけが問題になって、それもまたゲーム感覚のおもしろさを生み出す。
いろいろ嫌なことがあり、なんとかしたいという不満があって、それ故に修行というものに手を出した訳ではあるが、釈尊の苦諦、一切皆苦には、どうしてもしっくりしないものがあった。苦しいこともあるが、結構楽しいこともあるさ、といういい加減さがあった。
苦諦からやり直しだ。

《言葉》
その時、僕の中から何かが抜け落ちてしまった。
それは見性ではないのだろうが、その見性そのものがどうでもいいたわごとになってしまった。全くそんなものには用がなかった。一切が無意味、無価値のまま、只それだけだった。すべてがお仕舞いになってしまった。
そして、ふと一つの漢詩もどきが生まれた。それは明らかに投機の偈だった。しかもとてつもない境涯の偈だった(と思った)。それを見た時、一つの距離が生まれた。
しかし、それでもそれまで僕が思っていたような「見性」とは関わりがなかった。そんなものはどうでもよかった。そのまま、只在ることだけで、それ以外のものは何もなかった。
EOが「見性のジョーク」を連発し続けた。それに対して真っ向から異を唱えるのも、馬鹿らしい(と言うか、見当違いのような気がした)ので、時折婉曲に否定してみたりはしたが、大概は聞き流すようにしていた。
しかし、いつしか、それは「あの時・・・だった」という過去の記憶となり、しかもEOにしつこく言われることによって、その言葉に自分が縛られる結果となってしまった。言葉に自分を適合させよう、させなければいけない、というような転倒が生じた。まことに不自由な事態となった。
EOへの手紙が瑣事に関する極端なおしゃべりになっていたのも、その現れである。「悟ったような顔」をしようとしていたのかも知れない。なかなかそういう事態を転換させることができなかった。
そのジョークが、僕に対してではなく、他の人達、特に雪渓老師に言われたことによって、歪みは限度を越えてしまい、怒りになって爆発してしまった。
すべてが吹き飛んでしまって、またゼロからやり直しとなった。しかし、爆発したことで、歪みも吹き飛んでしまったから、清々した。
全く言葉とは恐ろしいものだ。自分の状態を言葉によって表現することによって、逆にその言葉に縛られ、それに自分を合わせるようになってしまう。そういうことになってしまうのは、自分はかくありたいという理想、求心があるからであろう。
以上が、ここ数カ月の大きな苦の顛末である。
                              by JU

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EO様
ありがとうございました。
ようやくにして死人禅実習者の見習いくらいになれそうかな。
何だかようやく修行が修行になって来たような気がする。
何とも微妙な道である。

道を歩けるしあわせを感じる。
                           ゆう十拜

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EO様
おもちゃのような柿の警策では遠からず折れてしまいそうなので、桜の警策を作りました。謹呈致します。手警策にしてはいささかゴツイ物になってしまいました。これならKさんも打ち殺せるかもね。ちなみに、この桜は白滝山にありました。

金沢の大乗寺のことは少し知っている。板橋老師は義衍老師に参じていた人で、雪渓老師とは兄弟弟子ということになる。会ったことはないが、聞くところによると、ひょうひょうとした、とても気さくな人だそうだ。人望のある人なのだろう。非常に几帳面な人でもあるらしい。とても味のある書画をよくする人だ。義衍老師が印可しているとは聞いていない。
どういう訳か、僧堂にはそれぞれ特有の雰囲気がある。類は友を呼ぶのか、師家の影響なのか知らないが、似たような雲水が集まるようだ。発心寺は真面目な、悪く言えばお坊ちゃんぽい感じの人が多い。それと反対に大乗寺は無頼漢のようなのがごろごろしている。悪く言えば非常に俗っぽい。大乗寺のその強烈な個性には面白みを感じる。一度行ってみても悪くないかな、という気がしないではない。ただ、北陸はもう行きたくないけどね。
宗務庁がどういうつもりで大乗寺しかないと言ったのか知らないが、発心寺だって在家からの出家者がほとんどだ。まあ、この二つくらいしかまともな所はないのではあるが。今、気がついたが、宗務庁が発心寺を挙げなかったのは、雪渓老師が「見性問題」で宗務庁に楯突いたことがあるからかも知れない。EOは呆れるかも知れないが、曹洞宗では「見性」は禁句なんだぜ。「見性なんてものはない」というのが「公式見解」なんだな。
一年前に雪渓老師が宗務庁から頼まれて達磨大師に関する文章を書いた。ところが、それに「見性」という言葉が使ってあったから没にされてしまったのだ。それが、EOの所にも行っているはずの「見性成仏」とタイトルをつけた寺報の巻頭文になった。

では、、
                             十拜

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EO様
パタパタッと人が少なくなって、静かになって暇になるかなと思っていたが、静かにはなったものの手紙を書くことも忘れていた。
しかし楽しい。やることが何もない、今やっていること以外には。次にやらねばならないことが何もない。だから、思う存分に茶碗を洗い、食器を拭き、庭を掃き、雑巾掛けをし、ゴミの始末をし、禅堂で坐り、たばこを吸い、猫の様子を眺める。
今しかないって何て楽しいんだろう。

では、また、、
                              十拜

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EO様
光陰虚しく度ること莫れ、と自ら戒む。

参禅者の様子を見ていて、法我見というもののバカバカしさを痛感してしまった。本当に下らない我見に過ぎないものを後生大事に抱えているものだ。法我見と言ったって、結局、我見に過ぎない。固まり物だ。サラサラ行かない。しなやかじゃない。持ち物があったら、それだけ重荷だ。

と言っても、本当に境涯が伴っていないから、問い詰められるとまごつく。
ある頭の切れる女の子が、「先生、教育者、指導者とは何か。それらにはどのような違いがあるのか」と僕に問うて来た。明らかに心行問。何か魂胆がある問いだ。彼女の意図を探りつつ、いっしょに考えた。先生と教育者に関しては、ほぼ見解(けんかい)が合意に達したが、指導者に関しては、宿題にされてしまった。

では、、、
                             十拜

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EO様
親切なお示し、ありがとうございます。
是非善悪というものが、確かにある。死に損なっていると言われれば、そうなのだろう。変に「法」というようなものを立てている感じでもある。何か自分の中に持ち物があると、そこに必ず価値基準が生まれて、自他に対する是非判断が生じてしまう。

ただ、「大死」ということに関して、EOの言っていることを正確に受け取りかねる面がある。
「心なるものがねこそぎ殺されるようなチャンス」と言うが、そういうような特別な縁というものがあるのだろうか。「大死一番」と言う時、それは工夫に成り切って自己を忘じることだ、と僕は理解していた。だから、大死と工夫、行法とは別物ではないと思っていた。

思い起こして見れば、1月にEOに追い詰められた時、僕は自己の存在の消滅に直面して、とてつもない恐怖を味わった。そして何かがボッコリ落ちてしまった。しかし、まあ、死に損なったんだろうな。
そのことを思えば、「大死一番」には、工夫と共にピントの合った公案が必要なのかも知れない。
禅の中にはそういう方便が欠落している。あくまで工夫一本槍みたいだな。

では、・・・
                           幽雪十拜

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EO様
この前、帰りの電車の中で、周りの人達を見ていて、とても不思議な感覚におそわれた。
人は皆、何かをしようとしている。「自分」の存在を当然の前提として、そこを振り出しにして、何かをしようとして右往左往している。
持って生まれた肉体的な、あるいは精神的な能力、資質を初期条件として、それを元手にして、何かをしようとしている。
すべてが「1」から始まっている。
でも、どうして、あなたはそこにいるのだろう。
どうして、僕はここにいるのだろう。
ここにいるのは何なのだろう。

人間の知的営みというのは、すべて、
◆この世界は何故あるのか。(論理的、時間的因果関係)(過去)
◆この世界は如何にあるのか。(構造、法則)(現在)
◆この世界は如何にあらしめるべきか。(展望、構想)(未来)
という範囲にあるのではないだろうか。
すべてが、この世界の存在を当然の前提として出発している。
しかし、そもそも、どうして、こんなことが始まったのだろう。この世界、自分という存在そのものはそんなに確かなものだろうか。(今は、EOが既に言ってしまっていることは棚上げにして、単に僕自身の感じたままを書いているだけです)。

「1」から出発するのではなく、まず、「0」を問うてみる必要があるのではないだろうか。
「1」があることの不思議さは、「0」によって初めて裏付けられるのではないだろうか。
何かをしようとする、その存在自体の根底。そこは不思議の領域であり、無の田地だ。
電車の中の乗客を見ていて、どうしてそんなに当たり前に生きているのか、と驚いてしまった。そして、僕自身がここにいることの不思議に満たされた。

「今」というも、「ここ」というも、そこには既に、「今、ここ」に存在している存在者が前提されているのではないだろうか。それを「本性」などという、僕にはあまりなじみのない言葉で呼ぼうと。
しかし、そういう一切の存在自体が、根底を奪われ、希薄になり、不思議につつまれて消滅してしまうのが、「今」というものだろう。
過去心不可得。未来心不可得。現在心不可得。
不可得とは不思議だろう。

古東哲明先生の『在ることの不思議』という本についてEOがコメントしていたことがあったよね。この本の題名にとても引かれるものがある。もしよければ、入手方法を教えてもらえるとありがたい。

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EO様
物事を見る視点ということについて。
EOの指摘、あるいは示唆を正確に受け止めることができていないが、僕の中には、現状の問題の追究よりも、かくあるべしという理想を先に出してしまう傾向が確かにあったと思う。だから仏教徒というサークルに入ったにもかかわらず、基本的な教理である苦諦とのズレを感じ続けていた訳だ。現状をよく見るということよりも、理想、目標を掲げてそれに向かって進む方が、一見それらしいし、簡単なんだろうと思う。
でも、問題自体に参究することが、解答を出すことよりも重要であり、答えは問いの中にあるということは、一つの真理として高校の時に僕の中に根付いている。(まあ、それに気付いた原因は、幼稚なもので、物理の試験で満点を取れなかった時、その原因は問題文の読み取りミスでしかない場合が、ほとんどだったからなんだけど)。そして真の解答、解決とは問題自体の消滅に外ならないということも、どうした訳か大学の時、了解していた。
だから、物事を見る視点の一番根底には、こういうものがあると思う。

余談のようなものではあるが、
人間の争いの中に、本当に宗教が根本原因になっているものがあるのだろうか、と僕は疑問に思う。そして、人間は本当に平和が好きなのだろうか、ということも疑問に思う。僕の私見では、人間は争いが好きなのであり、宗教などは、争うための口実の一つに過ぎないのではないかと思える。僕には武力戦争(槍や弓矢を使おうが、戦車や核ミサイルを使おうが同じことだろう)も経済戦争も受験戦争も、全く同じことに見える。あらゆる競争というものは、出所が同じだろう。
そもそも「平和」とは何なんだろう。それは単に武力戦争のない状態のことなんだろうか。そうだとして、武力以外の戦争は構わないが、武力を使うのはいけないということであれば、あまり実現の可能性はあるまい。そして一切の戦争をなくしてしまうとしたら、それはおそらく人間の望むようなものではあるまい。
「宗教」なんてものも、結局人間が作ったものだから、争いの好きな人間が一つの宗教におとなしくまとまるなんてことはあり得ず、どんどん分派し乱立し争うのは当然のことだ。

・・・なんだか何も書く気がしなくなったな。
うん。坐禅はいいなあ。
只坐る、只在る。なんて楽しいんだろうなあ。
余計なものなんて何にもいらないのになあ。

僕の中で、何かの枠が、また一つ、壊れたな。
どういう訳か、無自覚の内に枠を作ってしまい、それが壊れた時に初めて、それの存在を知る。

                           ゆう十拜

  ************************

EO様
『アメジスト・タブレット・プロローグ』を再読しました。
・・・何とも言葉がない。
以前、読んだ時、どうしてあまり打たれなかったのか不思議だ。

ウーン。EOと双璧を成すような、好対照の覚者だなあ。
しかし、彼はやはり「高み」にいるね。極めて伝統的な正統派であり、全くの優等生みたいだ。やんちゃなワルガキのEOとは対照的だ。
それにしてもすごい。

  君そのものが
  欲望と苦悩なのだ

  君という渇望には
  決して絶対確実な安心がありえない

僕は何か大きな勘違いをしていたようだ。
いわゆるの「無明」というようなものが、僕の「中」にあって、それをガンの摘出手術のように除去するもの、あるいはそれを別のものに「転化」するもののように思っていた節がある。
そうではなかった。「僕」自身が「無明」そのものだったんだ。
全面的な問題だったんだ。
「僕」は決して「救済」されない。何人たりとも「救済」することは不可能だ。
人は、無明そのもの。苦そのもの。滅びそのもの。無常そのもの。
そこに光明を付け足すことはできない。悟りを付け足すことはできない。

  君そのものが苦であることを
  全身全霊でわかった時
  君は1ミリも動くことができなくなる

「わかる、とは何ぞや」の公案をまだ透過してないので、「わかった」とは言わないが、深く打ちのめされてしまった。
こんな基本的なところで、まだズレがあった。
最初に苦諦を究めずに、「悟り」だの「救い」だのというエサに食いついてしまった結果だな。EOの法話も大部分、いや、すべて素通りしてしまっていたことが明白だ。

「仏教」の「凄み」が少し実感できて来たようだ。
全面的な「死滅」の法だ。

  人間性の救済への一切の努力が無意味であることが知的にではなく、
  全面的に理解されれば、
  そこに真実の只管打坐が、果てしなく開けている。

では、、
                           ゆう十拜

  ************************

EO様
無工夫の坐禅をしている。
僕には、事の最初から「雑念」と戦おうとする意志が欠落しているようだ。雑念を切るのではなく、一息なり頭頂留意なりをすればいいだけの話だからだ。雑念に撹乱されて苦しめられたということもない。少林窟に最初に参禅した時の最後の夜に、膨大な雑念がひしめき合って収拾がつかなくなり、呆然と眺めていたことはあったが、苦しんだ訳ではなかった。こりゃだめだから電源を切るしかないと、寝てしまった。
「甘い」のかも知れない。
雑念がなくなること、あるいは、「心境」なるものがよくなることに至上の価値を置くことができないままなのだろう。
無工夫の坐禅をしても、それで、EOが言うような「苦」は顕現して来ない。
苦を苦と認めることができないほどの甘さの中にいるのかも知れない。
古東先生の本の中に「気づいていないことすら気づいていない二重忘却」という表現があった。そんなところだろうか。

思考は無常に流れて行く。川の流れのように。あるいは、下痢のように。

古東先生の本によるとハイデガーは「存在忘却の根本体験」なるものから彼の哲学のすべてが生み出されているようだ。方丈に言わせれば「『念想観の測量』が瞬間的に停止したのだろう」というところだろう。往々にしてそういうことがある。僕の高校の時のこたつの一件はそれのミニチュアだろう。
しかし、仏教はそういう次元の話ではなかろう。

ダンテス・ダイジに公案を打ち込まれた。
それは、あの趙州無字の公案と全く同じだ。
「狗子に還って仏性有りやまた無しや。州云く、無」。
この問答には続きがある。
「既に悉有仏性、なんとしてか無なる。州云く、汝に業識性有る在るがためなり」。
では、、
                             ゆう十拜

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EO様
さて、、
EOにかかると片っ端から奪われてしまうな。
全くだ。ウム。

よくわからないが、どうも僕には、物事をはっきりさせたいという衝動があるみたいだな。解決するとか改善するとかではなしに、「これはもうこれでおしまい」という「切れ」がほしい訳だ。
そういう意味で古東先生の本は快感だった。その感想の一端は、同封してある彼への手紙に表れていると思う。人文科学の本でこんなのには出会ったことがない。全く数学書のようだ。哲学の限界域を明示し、そこまで確実に読者を引っ張って行く明晰さがあるように思う。これほどまでの透徹した思索と明晰な表現には驚嘆するばかりだ。
あまり感心したものだから、方丈にも見せたくなった。学の本など読んでいると怒られるだろうなとは思ったが、隠しておきたくなかった。方丈はもともと東洋哲学を学んだ人で西洋哲学もいい先生に教わったと聞いている。それでちょっと興味を持たれて、読んでみようと言われた。
そしたら、さあ大変。哲学なんて概念と概念をつなぎ合わせているだけのもので、そんなものに感心するとは何事だ、ときつく叱られた上、このところの法話は哲学批判の連続みたいになっている。それはそれで、禅の在り様がくっきりとしていて、いい話になってはいる。
僕は、哲学と禅を混同したりゴッチャにしたりしているのではなく、ただ古東先生の哲学的思索の明晰性に感心している訳だ。そして彼の哲学は、宗教の領域を哲学の側から確定している。つまり、宗教には最早、「行」だけしか残らない。それも「只」の行しか残らない。

この本の注の中で、臨死体験と同じようなことは大脳側頭葉のシルビウス裂とかを電気刺激すると起こるということに言及され、そのような神秘体験は死の恐怖を緩和するための生体の防御システムだろうというようなコメントがあった。何とも味気無い話だ。

このところ、頭の中を思いきりシャッフルされている感じ。言葉に付いて回っているということか。そして廻り廻って、その廻るところに還る。手も足も出ず、このままでしか在りようがない。と言うより、既に、このように結果が出ている。確かに。
                            ゆう十拜

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EO様
この前、また腹が立ってしまった。よく観察して見ると、正しく「我」ある故なんだなあ、と感心した。人の喜びを、そのまま自らの喜びとして、共に喜んであげることができなかったんだな。自分の都合だけに目が奪われていたようだ。
「菩提サッタ四摂法」なるものがある。布施・愛語・利行・同事と言う。怒り、腹立ちというのは、この全部を完全に破るものだ。道人として最悪だな。
まあ、お陰で、発熱による解毒作用みたいな感じで、変にこだわっていたようなものが落ちたように思う。

まっ、こんな具合にモソモソやっております。
では、、
                            幽雪十拜

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EO様
人から質問された時、未だに僕の中に迷いが生じる。
その人の意図を測ろうとする。何を知りたいのか、と推測してしまう。
同じ質問でも、場合によって答え方は千差万別になる。あるいは、今の僕では、そうなってしまう。
法の人からの質問でも、なにげなしに聞かれると、まず世間的な答えがスッと浮かんで来る。そして、おっと待てよ、と迷いが生じる。
最近は、何か聞かれても、一体何を聞かれているのか、とその問いを反芻することが多くなっている。これは上で言った推測とは違う。ただ問いの反芻だ。
しかし、それをすっ飛ばして、パッと答えが出ると、これが我見そのものだ。

この前のEOの「アンケート」とやら。これもEO自身が世間的なスタンスで質問仕掛けて来ていたから、僕も一応、世間的な「アンケート」と同じように取り組もうとした。バカバカしいので通読するのが困難だったが、EOが聞いていることなんだから真面目に答えようとした。こうしてすぐに世間レベルに落ちてしまう。
そして、そこそこ真剣に考えたら、すべてバツという回答が明確に出た。
何となく全部バツじゃあバツが悪いかな、とも感じたが、まあどうでもいいことだから、そう回答した次第。

禅門では「一箇半箇」と言う。「人」を得ることの困難さであり、多くを求めてはならない、という戒めでもある。少林窟にいて多くの学人を見て来たが、この人こそ、という人などほとんどいない。ここにわざわざ参禅に来る人でさえそうだ。
南嶽禅師は、わざわざ若き馬祖の所へ出向いて行って彼を度した。
四祖道信禅師も牛頭法融の所へ出掛けて行った。
趙州は六十再行脚だ。
祖師の慈悲、徹悃である。

「駿馬の鞭影を見て行くが如し」という言葉がある。鈍馬は鞭でひっぱたかれて、ようやくノソノソ走りだす。しかし優れた馬は、振り上げられた鞭の影を見ただけで、騎手の意を察して、すっ飛んで行くということ。
こうやりなさい、と言われても、なかなかその通りに実行できないものだ。ましてそれを継続して行くのは、実際上、至難のことだ。
行ずるということ、行じ続けるということ。たったそれだけのことが、どれほど困難なことか。逆に言えば、とにもかくにも、悟りだの境涯だのはともかくとして、行じ続けられる人というのは、それだけでも希有な存在だ。
その上、正修行となると、もうほとんど絶望的だ。
(ちと、他人事のように書き過ぎているな)。

縁というのは不思議なものだ。釈尊以来、多くの祖師が出たが、そのほとんどは、それこそ一箇半箇の法嗣しか残さなかった。馬祖とか白隠は80人くらい残したことになっているが、それも中身は怪しいものだし、多いと言ってもその程度のことだ。欓隠老師にしても欓文、義光、大智くらいのものだ。
あまり多くを語らなかった祖師もいたろうし、本を書きまくった祖師もいたが、それにしても一箇半箇だ。
この世の中、出会うべき人と出会うようになっているとしか思えないね。
探さないと出会えない。しかし「もっとよく」探したら、もっと多くの、もっと優れた「人」と出会えるかと言えば、そうではあるまい。実際の出会いがすべてだ。
まっ、おもしろいものだ。
EOも行脚でもするかい?

野に咲く一輪の花は、蝶の来ないことを嘆いたりしない。
只、咲いている。
只、枯れる。
それでいいではないか。
これを自受用三昧と言う(のかどうかは知らないが)。

僕には、変なところで完璧主義者みたいなところがあった。
完全に正しい、間違いのない道を選択しなければいけない、というような強迫観念があったような気がする。そういうものが、僕を鋳型にはめ、枠を作っていたような気がする。せせこましい考えに陥りやすかった。不自由だった。
正しいも、正しくないもない。それだけのことだ。これだけのことだ。
今、ここの縁を満喫するだけだ。

達成すべき目標やら理想やらみたいなものが、(理屈の上でだけに過ぎないのかも知れないが)破壊されたからだろうな。
別の表現をすれば、達成すべき目標が、すでに達成されている「今ここ」と確定されたとも言えるかな。
すでに達成されているんじゃ、もう何もすることはない。どうすることもない。
まあ、この「どうすることもできないところを〈練って〉行く」のが、禅の修行というものなんだけどね。
そうでないと、「経行」が「散歩」になってしまうことが多いからね。

では、、
                          幽雪十拜

  ************************

EO様

今、ここに
在る
この不思議さに
つつまれて、

僕というものが、
ニタニタ笑いだけを残して消えて行く
チャンシャ猫のように
曖昧になって行く

生死はすなわち仏の御いのちなり、と元古仏は言う
でも、この生老病死が仏の御いのちでないのなら、
私のいのちだとでも言うのだろうか

私はどこから来たのか知らぬ
どこへ去るのかも知らぬ
いやいや
それどころか、
来るも去るもあったためしがない

何故、ここにいるのか知らぬ
何故、今に在るのか知らぬ
知らぬものが知らぬままに、
只このように在る

なのに、どうしてこのいのちを
私のいのちだなどと言えようか
故知らず、ここにいる
故知らず、今に在る
故に、このいのちは
私のものではなく
私は、私ではない

只このように在る
それに価値がある訳ではない
そのようなものが入る余地はない
只在ることが良いのでも、正しいのでもない
そうしか在りようがないだけのこと

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EO様
「仏教は最初に結果を提示する」。これは雪渓老師の言い分。
「今しか真実はないんだから、今を離しちゃいかん」。これは方丈の言い分。

見性そのものが何であるのか、僕は知らないから、見性する原因もプロセスも結果も知らない。
ただ僕の修行とは、今、只の一点上を錐揉みのように掘り下げて行くだけのことだ。そこにはプロセスと結果が螺旋状に折り重なっている。
目的としての只管、手段としての只管、結果としての只管ということを大智老尼が『30年』のどこかで書いていたと思う。
しかし、畢竟何が鍵になるのかと言えば、工夫の善し悪しとか環境ではなかろう。もちろん工夫の着眼は極めて重要且つ微妙であり、僅かの誤差も許されないものではあるが、坐禅の要領は坐禅が教えてくれるものでもある。
畢竟、何なのか。それは極単純なことだが、真剣さということではないだろうか。本気になるということ。大信根、大疑団、大憤志ということが言われるが、この3つが混然一体となったものだ。
方丈の接化の様子を見ていると、
如何に坐禅修行というものが必要なことであるのかという理を説いて信を起こさせ(大信根)、
如何に工夫すべきかという着眼を明確にさせ(大疑団)、
それを確実に遂行することのできない不甲斐ない自分を叱咤激励させる(大憤志)
というように言えると思う。信に関しては、わざわざ参禅に出向いて来た人達なのだから、信を起こしていることは前提されているので、あまり多くは言われない。一番重要視されるのが着眼であって、これを明確にさせるのが、最初の参禅指導の目的みたいなものだ。そして3、4日目で飛躍が起きるのは、大概、大憤志による。
僕も3日目の朝、「君には真剣味が足りん」と冷たく罵倒されたのが引き金になったものだ。
本当に真剣になる、ということは、人生の中で滅多にあることではなかろう。まあ、程々にやっておけば何とかなってしまう世の中だ。
工夫というのも、たった一つのことに全力を全挙させる練習のようにも思う。人生というも、今一瞬のたった一つのことに過ぎない。

切実、真剣、本気。そういうものがなければ、何事も起きはしないだろう。あまりにも当然のことだから、殊更に言うべきことではないのだが、それこそ本当に重要な鍵だと思う。そうでなければ、何をやっても「ゴッコ」に過ぎない。
だから菩提心が強調されるのだろうと思う。本当に菩提、無上道を求める強烈な心があれば、必ずそれは成就されるはずのことだ。

「初発心時便成正覚」という言葉がある。
普通、「初めて発心した時、すでに正覚が成就している」というふうに理解されていると思うのだが、最近ふと、そうではないように思った。
「初発心時」というのは、過去のある時のことではない。いつでも、今が初発心時なのだ。そういう初発心時の中でこそ、初めて正覚というものが成ぜられ得る。
だから、この言葉は、「常に初発心でなければ、正覚は成就しない」と言い換えられるだろう。
何事もそれに取り掛かった時が、一番勢いがある。その勢いが大切だし、その持続が重要な課題になるのだろう。
しかも、これがまた不思議な程、困難なものであり、そのような人物は極めて稀なのだ。そういう稀な人物が祖師になった訳である。資質というものが問題になるとしたら、この初発心の持続力だろう。

何かしら段階があるような気がしてしまう。心境が「進んで」いるかのように思ってしまう。自分はもう初心者とは違うかのように思い込んでしまう。
そこに退転してしまう要素が忍び込む。

方丈のハシゴの譬え。「ハシゴを上るのと同じでね、目的地に到達するまでは、一段一段上る、その行為は同じことなんだ」。
同じくドリルの譬え。「ドリルで壁を打ち抜くのと同じでね、皮一枚でも残っていたらダメだ。打ち抜くまでは、ドッドッドッドッ掘り進んで行かなければいけない」。

プロセスと結果というものを峻別して考えると、恐らく道を誤るのではないだろうか。「修証は無きにあらず。染汚することは即ち得じ」。

「只が結果であるならば、最初っから只やればいい」というのが少林窟のやり方だな。
「一超直入如来地」とも言い、「如法」とも言う。
そして、その「只」の味わいを深めて行くことが修行みたいなものだ。
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・
EOイズムの超すばらしい所は、「前後の破壊作業」にある、と僕は思う。本来の公案とはそういうものだったのかも知れないが、恐らくEOイズムほどの精確さは持っていなかったのではないだろうか。頭頂留意と闇というシステムが、それを可能にしているのだろう。

禅の修行者が往々にして中途半端なままになってしまうのは、前後が残っている(即ち自我が残っている)にもかかわらず、残っていないかの如く振る舞い、且つ自己欺瞞的にそう思い込んでしまう所にあるように思う。
プロセスと結果を混同してしまうから、そういう誤りに陥る。そこで菩提心が強調される訳だが、それよりも、もっと積極的に前後を破壊して行く作業というものが大切なのだろうと思う。
それに意識的な頭上点留意は只管打坐を加速するのは確かだろうと思う。そういうことを知らなくても、只の中では無意識の内に頭上点留意がなされているようだからだ。
只管と頭上点には強い相関関係があるのではないかと思う。
ダンテス・メモにもそういうコメントがあるね。頭上点への「ジャンプ」というのが、最後の詰めなんだろうか。

   ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

僕には独自なものは何もない。僕が、ここの参禅者に何か言う場合には、方丈の補佐としての範囲を出ない。つまり方丈の言われていることを重ねて確認して、たたき込むという感じ。おもしろいもので、大概、自分勝手に解釈しているものなのだ。ストレートに受け込むということがなかなかできないものなのである。複数の人間に同じことを言われると信憑性が高まるもんなんだな。
もう一つは、心境に対するこだわりを取ること。どうしても現象的な変化を期待しているものなのだ。物がはっきり、美しく見えるとか、体が軽くなるとか、あるいは自分で勝手にこういう状態にならないといけないというものを作ってしまって、そうならないとダメだと思い込んで、それに捕らわれてしまう人がいるのだ。

   ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

畢竟何なのか、ということが、僕の中にくすぶっている。悟りやら修行やらと言っても、畢竟、それがどうしたのかと。
何のために、ここに是の如く在るのか分からず、分からないまま是の如く在り、
説くこともなく、説く用もなく、只の役立たずの薄らバカに落ちて行く。
そのことに僅かに抵抗がある。

今日、坐中に頭が締め付けられるように、割れるように痛んだ。頭部の筋肉の痙攣みたいなものだと思うが、こんなことは初めて。頭蓋骨が動いたか、脳が変形したかのように感じた。
それ以後、ずっと頭上点にいる。

では、、
                             幽雪十拜

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EO様
さて、、
またもや洪水のように文書が押し寄せて、返事が間に合わなくなってしまっているが、いくつか書いてみたいことがあるような気がする。

畢竟、「苦」である、というのは、そうだろうと思う。
それが出発点であり、本当の切実さ、真剣さの元だからだ。
しかし、ここで不思議に思うことがある。EOは、修行とか工夫とかによって大悟したのではないということが、僕などとのズレを生じているようだ。
EOもよく言うように、(死人禅の)行法をやっていれば、「そうなってしまう」ということがある。当然、そこには「楽になる」という要素が含まれる。方丈のよく言うことで、「楽になっていかなければ、本当ではありませんよ」ということがある。
只、行ずるだけだ、この道を行けばいいんだ、というところが明確になり、そこに落着することで、それまで、抱えていた自分の問題というものが(解決するのではなく)、希薄になり、問題自体が消滅して行くプロセスというものがある。それが「楽になる」ということの様子だと僕は思う。
行法というものに「救い」があるのは当然で、そうでなければ、行法として成り立たない。

「行」というもののそういう面と「苦」というものは、どう関わっているのだろうか。
結局、苦というも、自分の考え、思考の世界の様子だ。一切の解決というものは、考え、思考、人間的なるもの、そういうものの範囲を越えたものだということになれば、苦そのものがその存在根拠を剥奪されることになる。雪渓老師の言葉によれば、「どんなに考えても及びません。ですから、工夫に成り切って下さい」ということになる。
しかし、一切が解決するまでは、苦が根本的に消滅することはない。或いは、行によって苦というものが、純化、結晶化されるということもあるかも知れない。一点に集約されるということかな。

苦というものは、結局は「隔て」のことだと言われる。
  如何なるか 苦しきものと 人問わば ものを隔つる こころと答えよ
隔てがあるということは、「自分」があるということと同じだろう。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・
苦とは、思考そのものだ。
では、、
                            幽雪十拜

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EO様
この前、疲れ果てて昼寝をした時、変な夢を見た。
ちょっとした小川か農業用水路のほとりの小道を歩いていた。
僕は誰だったのか思い出そうとしたが、どうにも頭が粘り着くようで思い出せない。
ようやく、昔、NIICという会社で働いていたらしい、ということまでは思い出せたが、今現在の所属が分からない。
どうにもならないので、諦めて、歩き続けた。

目が覚めて、僕は、6年前から少林窟道場で「修行者」をやっていることを思い出した。笑ってしまった。
それは、夢の中で僕が必死になって探していた「所属」ではなかった。
そういうものからの逸脱だった。
にもかかわらず、やはり僕の中には、何かに所属し、依存したいという思いがあるんだなあと感じた。

目が覚めた後、どうして思い出せなかったのか不思議に感じながら、
しかし、今ここに在ることの不思議さに、しばし浸っていた。
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・
未生以前の公案にぼつぼつ取り組んでいる。まだあまり本真剣にはなれていないが。
即今底の参究ということと内容は同じようである。
僕が初めて少林窟に参じた時、5日目くらいに、ふとこの公案を思い出し、完全に得心するものがあった。
それは、一瞬一瞬が完全に脱落していることを体験した時だった。
「時間の流れ」というものが架空のものであることを実感したのだった。
そこには「因果」というものがなかった。
坐を立ち、廊下を歩き、トイレで用を足し、手を洗い、廊下を歩き、単に上って坐った。しかし、何々をして「から」、何々をした、のではなかった。
一々が完結し、終わっていた。
その時、僕は「因果というものはない」と早合点した。
時間というものを無化してしまえば、父母未生以前というも無意味になってしまい、本来面目だけが残る。となれば、答えは明瞭だ。
そんな話を方丈にしたら、「ならば、見解を述べてみよ」と言われた。
「答えは簡単明瞭。これだ!」と言って、膝を叩いてみせた。
絶対の自信と気迫があった。
「それは頭で理屈が分かったに過ぎないが、他の道場で、それだけの自信をもって見解を述べたら、見性していると言われるから、他の道場へ行ってはならぬ」と言われた。

まあ、それはそれだけのこと。
今は、もっと精密に参究すべきことを感じている。
一弾指の間に七百の生滅あり、とか言うらしい。(正確な数字は忘れた)。
一体、何が生滅し、明滅しているのだろう。

仏教が徹底的に攻撃した外道の中の代表に、断見外道と常見外道がある。
「死」をもってすべてがお仕舞いになるとする断見と、死んでも魂は生き続けるとする「心常相滅」の常見である。
今まであまり理屈、道理にかかわりたくなかったから、そういう考え方がどうして間違いなのかということを追求しようとはしなかった。特に断見がどうして外道なのかよく理解していなかった。

要するに、所謂の「死」を境として、存続する「もの」があると考えようが、断滅する「もの」があると考えようが、そういう実体を想定するところに問題がある訳だ。

実際はどうか。

身も心も、一切は、関係性の中で縁起しているだけだ。
その中道に在って初めて、寂滅だ。
外道は騒がしい。「今」の「外」に何かを求めるからだ。

縁起しつつある今の実際を参究するのが、未生以前の公案か。

では、また、、
                            幽雪十拜

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EO様

工夫なき工夫とは、「只在る」ということに過ぎません。
つまり、「工夫する者なき工夫」です。
したがって、「私は、今、工夫なき、工夫」では、あり得ません。

工夫で工夫が打ち壊された時の様子を「工夫なき工夫」と言うのだと、僕は思います。

見性が馬鹿馬鹿しいのではなく、見性を云々することが馬鹿馬鹿しいのです。
工夫なき工夫も、「私は工夫なき工夫をやっています」などと言うことが馬鹿馬鹿しいのです。

EOの心切、身に染みて有り難く感じます。

                            幽雪十拜

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EO様
また何やら手紙が飛び交っているが、
この前、出した手紙が、今日頂いた手紙の返事の一部になっているかと思う。

あの夢は、僕の心底にある願望をえぐり出してくれた。
問題は環境ではない。
どこにいようが、なにをしようが、常に縁は無限にある。
自己同一化は何にでも出来る。

「私は、何々で、ある(ない、と言うも同じ)」という「何々」が問題なのではない。
「〈私〉は」こそが問題になるのだ。
そこから一切の思考、妄想が立ち現れる。

それをお仕舞いにするのが仏道というものだろう。

何か、今までとは全く違う局面に出会いつつあるような気がする。
工夫とか行とか、ということではなくて、
もっと直接的に「自分」というものの存在基盤そのものを削岩機で切り崩しているような気がする。
                            幽雪十拜

続き
理屈を言うことに、もう、うんざりした。
そういう理屈を言いたい自分に、もう、うんざりした。

僕は「今」に只、坐っていればいい。
この前から、ダンテスの言葉がしきりに思い出される。
「坐り続けろ。鉄の意志で坐り続けろ」。
EOから見れば、「道」(いや「法」かな)から外れっぱなしの僧侶ということになるのかね。
                             幽雪十拜

  ************************

EO様
一切の修行が無駄であることは最初から(古の祖師方から)言われ続けていることだ。
何かやれば、跡が付く。
すべて余計な計らい事だ。
結論は、そうだ。
何もしなければいい。
何もしなければいいが、何かしてしまうから、そこに方便が必要になるだけのこと。
今更、言うまでもない。

確かに、禅界という一つの縄張りに身を投じて、洗脳だか何だか知らないが、頭が別の方向でねじ曲げられているのかも知れない。
別の変な「常識」を植え付けられているのかも知れない。
しかし、見性について云々するのと、我見について云々するのとでは、多少の相違がある。
見性について云々するのは、即今からの逸脱だ。
我見について云々するのは、即今からの逸脱からの逸脱だ。

迷いとひとつになる、とか、我見になりきるとは、なんのことだろう?
ひとつになる、なりきるというのは、自己のないことだ。
つまり自他、内外のないことだ。
そこには迷いも我見も存在する余地がない。

だから、決して何物も拒否するな、という意味で、誠にその通りだと思う。
拒否するところに既に隔てが存在するからだ。
古人は「嫌う底の法なし」とのたもうた。

ダンテスの言葉は「気迫で坐れ」という意味なのかも知れないが(多分そうだろうが)、今、ダンテスが僕に語りかけているのは、そういうニュアンスではない。
坐る、というそのことだけで終わっていなさいという意味だ。
確かに、坐禅は坐禅なのだ。それだけのことだ。
そこに、それ故に、無上の楽しみがある。
坐ることが楽しい。
全くもって馬鹿らしいことだから、楽しい。
他に誰もいない道場で、一人只坐る。これほど愉快なことはない。
                           幽雪十拜

PS 次の文章を最近、書いたんだけど、気が向いたら、批評乃至は添削をしてみて頂けますか。

落葉の閑林 更に幽なり

自然には深い静けさがある。
 それは、人がその本来に帰った
  安らぎであり、落ち着きである。
街から離れた林へ行き、静かに木々と親しむ時、
 自ずとその静けさに包まれる。
鳥のさえずりも風に吹かれる葉擦れの音も、
 その静けさの一部となって、
  人に安らぎを与えてくれる。

その林も、今はもう、すっかり葉が落ちてしまった。
鳥も鳴かず、葉音も聞こえない。
すると、
 静けさのその奥にある
  更に幽玄な静寂が満ちて来る。

 葉を落とすことで、
  林はその静寂を深める。
   人もまた、林の如く
    静寂へと帰って行く。

  ************************

EO様
つまらん詩のようなものについて反応して頂いて、ありがとうございました。
誤解されるといけないので、ちょっと説明しておきますが、
落葉の閑林更に幽なり、というのは、いわゆるの禅語で、古人の言葉です。それに対して僕が一般の人を対象に注釈をつけただけ。
自然の様子をさらりと詠んで、そこに禅味のようなものを染み込ませる、こういう禅語というような言葉は、あまり好きではなかった。しかし、やむを得ず注釈をつけなければいけない状況に追い込まれて、浮かんで来た言葉をすくい上げてみたら、自分でも結構、気に入った詩が出来てしまった。そして、この禅語の味わいを深く感じられるようになって、この禅語も気に入ってしまった。
この注釈は、本当は方丈がつけるはずだったんだけど、「たたき台を作れ」と言われて、仕方なく作ったら、無修正で通ってしまった。

  松枯れし 庵が裏の 冬山に 張りつめ渡る 竹一声
  冷ややかな 硬き大気に 立ち止まる 頭上の一息 月醒々
  説法に 茶々を入れるは 寒空に 腹を空かせし タウの声

では、、
                          幽雪十拜

  ************************

僧都(かかし)


  守るとも 覚えぬながら 小山田の 
          いたづらならん かがし(僧都)成りけり
                    (「行住坐臥」と題する元古佛の道歌也)

かかしは、只、立っている。
何も言わない。
身の内に十字架を包み込み、へのへのもへじに、ぼろ手拭のほおっかぶり。
人は彼を見て笑うが、彼の涙も、祈りも、静寂も、知らない。
傾いた道路標識のように、只、立っていることが、彼の存在のすべてだ。
彼は、わめき立て、腕を振り回して、カラスを追い払うことは出来ない。
只、じっと立ち尽くしながら、人に豊かな実りが与えられることを願うだけだ。

彼は無力だ。
何も出来ない。
その何も出来ない無力さが、彼のすべてだ。
無力さの中で、只じっと立ち尽くすことを彼は学ぶ。
より綿密に、より精彩を加え、立ち続ける。

何も出来ない。
人の幸せを願いながらも、彼にはそれを手助けして上げることが出来ない。
彼には、それが痛いほどよく分かっている。
無力さが、彼のすべてだからだ。
彼自身が、その無力さに己のすべてを投げ込んだからだ。

なんという逆説だろう。
人の力になりたいと願う思いが、無力さへと収斂し、
実は、その無力さしか、最後の力になり得ないとは。
最後の力。
それは、寂滅へとジャンプする末期の一息。

だから、彼は、只、願う、
人が、彼と同じように只立ち尽くす僧都になることを。
只の傾いた道路標識になることを。

彼は只立ち続ける。否、只立っている。
それを学ぼうとする者が僧都になる。
学ぼうとするだけで、僧都になる。
そして学び続けることで、更に不動の僧都となって行く。

最初から僧都である者はいない。
野山を旅して行く時、ふと僧都を目にして、
些細なことにしろ大それたことにしろ、何かを求め回ることの非を知る。
世界が動いているのではなく、己が動いているのだと知る。
そこで彼は立ち止まる。
立ち尽くす。

僧都であるかどうかは重要な問題ではない。
僧都になろうとするのか、更に旅を続けようとするのかが問題だ。
僧都となるのに難しいことはいらない。
只、立ち止まればよい。

僧都になれ、僧都になれ。

  ものいはぬ 山田の僧都 かなしけれ 闇夜の烏 頭上に休む

                          by JU


柿の葉の変容


若葉萌ゆる頃、瑞々しい柿の葉に触れてみる。
ぽってりとした厚み、しなやかな緑、やわらかな輝き。
生まれたての新鮮ないのちの息吹が、ここにある。

夏。
強い日差しに照らされて、柿の葉は硬くなり、くすんだ色になる。
ところどころ虫に食われ、時の経過を身に刻む。

山々が紅葉に彩られる頃、柿の葉もその姿を一変させる。
それは、なんという美しさだろう。
深く鮮やかな紅や黄や緑が入り交じり、
一枚々々がそれぞれの模様を描き出す。

そして、枝を離れ、地に落ちる。

只の落ち葉に過ぎない柿の葉は、取り除き、焼き捨てるだけのゴミでしかない。
しかし、立ち止まり、その一枚々々を手にして、見入る時、
それは、驚くほどの輝きを放つ至高の存在であることを知る。

散り行く柿の葉に、これほどの荘厳を与えたのは神の慈悲なのだろうか。
それとも、
散り行くものへの共感故に、
人が、それを美しいと感ずるようになったのだろうか。

  秋深く 散り行く柿の葉 手に取れば 一々光明 道照らす友

                           JU

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EO様

EOはラインマーカーを持って読め、と言っているが、僕は学生時代に色々試した結果、一番都合がいいと思ったのは、結局シャープペンシル或いは只の鉛筆でした。色鉛筆だと僕には、どぎつくて目障りになりましたし、ラインマーカーもそうでした。それにラインマーカーは書き込みができないので、都合がよくありませんでした。結局鉛筆で線を引きながら、時には書き込みをして行くのが一番便利でした。只の線でも、自分が引いた線は微妙に特色を持たせることができますから、後で見直した時にすぐに思い出すことができます。

それから、和尚の『秘境の心理学』とモンローの『究極の旅』を大分前に読みました。

「存在」と「存在感」ということが、ずっとひっかかっている。

えらいけんまくやなあ。
三宝印とか四宝印とかいうものがある。これがあれば仏教であり、欠けていたら仏教ではないという、仏教の旗印だ。
諸行無常。諸法無我。涅槃寂静。そして、一切皆苦。
どういう訳か、一切皆苦をはずした残りの3つを挙げる場合が多いようだがね。
おそらくEOの言うように、一切皆苦というテーゼ或いは事実に人々はなじめないのかも知れない。僕自身がそうだ。それは現実の実感を言っていて、それを実感している人にはことさらに言う必要のないことだし、実感していない人に言ってもピンと来ないことになる。
だから釈尊は論理的にその事実を敷延したのだろう。
釈尊はどう言ったのだったかな。
一切は苦である。それは、諸行が無常だからだ。(ここが釈尊とEOがかなり違っているところだ)。その事実を見極めると、結局、諸法は無我だと判明する。そこが寂静なる涅槃だ。照見五蘊皆空。度一切苦厄。
法華経に有名な火宅の例え話があるが、釈尊にとっては、人々は苦の燃え盛る家の中で、それを苦とも知らずに遊んでいる子供達だったのだろう。だから様々に方便を使った。
しかし、釈尊は宇宙のことなど持ち出さない。今ここから一歩もはずれない。
無常だから苦であり、それは一転して無我だという筋道。これは今ここの様子に外ならない。

一切が苦である、ということは、楽と思っていたことも実は苦であるということに外なるまい。一切が苦である、という時の苦は、苦楽の苦ではない。通常の苦/楽というものが一切合財苦であるということだ。苦楽の苦から一切皆苦を結論しようとすれば、それこそ宇宙の果てまで行ってみなければいけなくなる。
そうではない。一切皆苦の苦とは、苦楽の苦ではなく、その根底にあるものだ。
それが無常だ。
一切が苦である、ということは、時間的にも空間的にも、もうどこにも行き場がない、ということに外なるまい。
それが今だ。
EOは一切が苦だと諦観(体感)したから、今ここからどこへも行き場がなくなったと言うのだろうが、実際はすべての人及びものは、今からどこへも行きようがないのだ。
にもかかわらず、どこかへ行こうとする、そういう顛倒妄想が問題になるのだ。
一切皆苦の見極めとは、今しかないということの見極めに外ならない。

存在は苦である、或いは存在は悪である、と言うが、では、その存在とは何のことを言っているのだろうか。
その存在とは、決して木の葉や小石や雲や水のことではあるまい。EOは木の葉も苦だと言うのだろうか。木の葉が苦だと言うだろうか。
「私」が苦なのだ。「私」という存在が苦なのだ。

だから、この「私」、この心が問題になるのだ。決して宇宙やらあさってのことではない。.

<これはボツ。>

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EO様
「迫力入りテープ」を聞いて、何やら手紙を書こうとして、ワープロを点けたり消したりしていたが、止めた。
理屈を言いたがる悪癖はなかなかなくならないものだ。

侍者として膝下で聞いていた雪渓老師の『参同契提唱』に、こんな一節がある。

「この頃では、「生死問題」などということがあまり問題にされなくなりましたが、物事をずっと突き詰めてまいりますと、畢竟、「生死」ということが問題になってまいります。それは、遠い昔においては、「四苦八苦」という苦の形であらわれ、中世期には「無常」という形であらわれましたが、現在では「差別の問題」とか「人権の問題」というあらわれ方になってきているようです。しかし、いずれにしてもその根底には「生きるか死ぬか」ということがあるわけです。したがって、坐禅弁道するということは、生死の問題を根本より解決するということになるわけです。いいかげんな気持ちではなかなかこの問題は解決しない」。

まあ、EOの痛罵が聞こえてきそうだが、、
EOが苦諦を強調するのは誠にもっともなことだと思うのだが、「迷いも進化する」という点から言えば時代との誤差が生じているかも知れない。
偽仏教徒と言えば、釈尊そのものが仏教徒ではあるまい。
EO自身が、釈尊絶対という、釈尊を担ぎ回る誤謬に陥っているようでもある。
まあ、それもすべてEOの落語に過ぎないのだろうが、、

山々が紅や黄に色づいている。ここの山がこんなに美しく紅(黄)葉するとは今まで知らなかった。夕陽が射して黄金色に輝く竹林の荘厳さにも気が付かなかった。

幼稚な屁理屈を書き並べていてボツにした手紙に、こんな一節があった。
「一切皆苦の見極めとは、今しかないということの見極めに外ならない」。
今ここから、時間的にも空間的にも隔たって行くもの。それだけが唯一問題になるものだ。外の世界に問題や解決を求めるのを外道と言う。今ここにすべてがあるのだ。

では、、
                            幽雪十拜

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EO様
いろんなこと、本当に、ありがとう。

土を耕し、
種を蒔き、
水をやり、
芽を出し、
花が咲き、
実が実る。

そこには、太陽を初めとする大自然の恵みと、
そして、〈時〉が必要だ。

時節因縁。ゆったりと、のんびりと、世界舞台を演じましょう。
またお会い致しましょう。
では、、
                       変わらぬ友  
                         幽雪十拜

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EO様

EOは無意識についてどう見ているだろうか。
EOは意識を是とし、思考を非とするような言い方をするが、どうも僕には響かないようだ。
本来とか本性とかというものは、意識というものとは一線を画するものだろうと思う。
この宇宙の存在は、僕たち自身を含めて、実にうまくできている。
逆に言えば、うまくできているからこそ、今ここに在る。
僕たちのこの存在は、決して意識ではない。意識のみではない。
意識などというものは、極末端の事象に過ぎない。
僕たちは、この存在をどれ程、意識下に捉えることができるだろうか。
通常は、カップに手をやることさえ意識下に捉えることは困難なのだ。
一歩の歩みも、一息の呼吸も、見ることも、聞くことも。
僕たちが、「自分」と呼んでいるものは、単に記憶の断片と、いつの間にか作り上げられた自分というもののイメージと、今の漠然とした存在感に過ぎない。
僕たちのこの存在は、そういう「自分」というものを遥かに凌駕する広大なものだ。
そこに無意識の巨大な領域がある。
無意識というのは意識の側からの言い分であり、本当は、無意識のほんの先端部分が、意識化されているに過ぎない。
意識は意識しか意識できないから、意識を世界の全体だと勘違いしてしまう。
ここに顛倒夢想が始まる。
僕たちのこの存在は、実にうまくできている。
自在である。
にもかかわらず苦が生まれるのは、顛倒した執着による。
自分というものへの執着(我執)、ものへの執着(法執)である。
そのような我も法も空である、という勘破が仏教である。
我と法を空にするのではない。もともと空だと言うのだ。
こんなことを言った宗教はどこにもなかろう。
僕たちは、いつの間にか顛倒した世界に住んでいたことになる。
だから、我と法の解体作業が修行というものだ。
意識が自ら生み出した顛倒夢想を意識自らが正そうとするのだ。
そのために意識は無意識にアプローチする必要がある。
意識の世界は、それ自体で完結してしまっているから、突破口がない。
無意識の領域に移ってしまったものを、もう一度意識の領域に取り戻す作業が始まる。
手元、足元を明らかにして行く作業である。
意識と無意識の中間地帯にあるものを使う訳だが、その代表が呼吸であろう。
無意識を意識に引き寄せることで、意識もまた無意識に引き寄せられ、両者の交流が始まる。
意識は、その絶対的な存在を失い、意識だけで作り上げられていた世界の空回転に終止符が打たれる。
そのプロセスはこんな風に記されている。

  観・自在菩薩。
  行・深般若波羅密多時。
  照見・五蘊皆空。

これが仏教というものだ。
存在を嫌悪するのではなく、その本来の在り様を真正に観ることだ。

僕たちは、途轍もなく小さな存在だ。そして、同時に途轍もなく広大な存在だ。
自分というもの、意識という範疇でこの存在を捉えると、
それは、一粒の泡の生滅、一瞬の瞬きに過ぎない。
自分という枠を超えた時、そこは一切がひとつものの仮に分かれた様子に過ぎない。
全体は部分の集合ではない。

参禅指導の現場に立ち会い続けていて、思うことがある。
ほとんどの参禅者にとって悟りというようなものは無用だ。
悟りを求めているような人はまずいない。
もっともっと極素朴なもの、あるいは欲望達成の延長がその動機だ。
今の人類社会に必要なものは悟りではなく、その前の段階として、まず自らの顛倒夢想に気づき、そこからの離脱の方法を知ることだ。
それだけでも巨大な変容と言うべきだ。
これまでは、全くの夢遊病者が政治を動かし、経済を動かし、社会を動かして来たようなものだ。気違いの世界だ。
だからマハリシ・マヘッシ・ヨーギのような人も必要なのだろう。
この法の素晴らしさは、一本道だということだ。
各人の菩提心の程度に応じて、それなりの功徳があるというもんだ。
誰も切り捨てる用はない。去る者は追わず、来る者は拒まず。
たった一息の中にすべてがある。

詰まらない雑談をしてしまいました。
また気が向いたらお手紙下さい。

では、、
                          幽雪十拜

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EO様
ものには順序というものがある。時節と言ってもいい。
種を蒔き、雨が降り、芽が出、花が咲き、実が実る。
こういう順番は変えられない。
花が咲かない内に、実を収穫しようとしても、それは無理というものだ。
二義に下り、泥臭いことを惜しまずにやることが、結局、大きな収穫につながる。
「正しい」ことだけを言っていれば、それで人が救われるのではない。
「人が救われる」という表現が間違いであるとするなら、
「正しい」ことを言う、その本来の目的、動機に合致する結果が得られない、と言ってもいい。
道とか工夫とか方便とかというものこそが大切なものなのだ。
それは道であり、方便である限り、通り過ぎれば用のないものだ。
用がなくなる、ということが大切なのだ。
悟っていない者にとって、悟りが推測に過ぎないなら、悟りを云々することは、
悟っている者にとっても悟っていない者にとっても無意味なことだ。
余計なものを取ることだけが、大切なことだ。
その「取る」という作業のマニュアルが道だ。

またお便り頂けましたら、幸いです。
                           幽雪十拜

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EO様
自我というものを僕はあまりはっきり認識していなかったけれど、
「隔て」そのもののことなんだな、と思いました。
自と他、自分ともの、主体と客体、認識するものと認識されるもの、目的と結果、分別、そういうもの、あるいはそういう事態が、「自・我」なんだね。
ここで「我」というものには、固定性、一定性、固まりものというものが含意されている、と仏教では言うようだ。
修行とは、隔てを取ることだ、と言われているのだが、そのことと「無我」ということがようやく結び付いた。
隔てがなければ、「私」というものは存在しない訳だね。
この隔てというのは、言わば空間的なものであり、
時間的に言えば、無常ということになるのだろうか。
それをまとめて言ったのが空ということだろうか。

知人から妙な爺さんの話を聞きました。85歳くらいの爺さんらしいが、戸籍もなく、名前もなく、ただ「おっさん」とだけ呼ばせているらしい。同封したような連続講義をしているそうだ。言葉、特に「私」という自己称(?)が問題の根源だから、それを使わないように、というようなことを言っているらしい。
詳しいことは何も分からない。
茶々を入れてみたくなるのだが、EOは如何?

<これもボツ。これにてお仕舞い。>

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