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EOからの手紙・2

ファイルしていたEOからの手紙を見返してみたら、
感熱紙の文字が消えかけていた。
消え去って行くダイヤモンドダストを僅かでも掬い取ってみたくなった。
傍点、下線を付けられた箇所は< >で括ってある。
便宜のために、見出しは、私が付けた。
「十」というのは、EOが私に付けた号である。彼は音を重視していて(音楽家でもあったようだ)、私は幽雪だから「ゆうさん」と呼ばれることが多かったので、濁音を入れた方が良いとのことで、「じゅう」という号になった。漢字は辞書を見ながら「十」が良いだろうということで決まった。これが「10」にも通じて、なかなか意味深長だった。
EOも「エオ」という音が元になっていて、多くの場合、「EO」と表記しているけど、「回小」と漢字表記することもあり、これをデザインしたサインを多用していた。
巻頭の絵はEOが描いて来ていたもの。

一度やられたものは、必要ない
何が本当は問題なのか?。苦の責任は?。はたして人間の責任にあるですむのか?。
むろん神になすりつけてもしょうがない。だが、その責任はどちらともいえない。
あるいは、我々は絶対的に、無力な生物なのかもしれない。
悟りなども、ごまかし、トリック、安心させたのちに、また輪廻させる策略ではあるまいか?。
あなたはこういう事を疑ってみた事はないのだろうか?。
あなたは釈迦そのものを疑ったかな?。
私は今後、趣味としてだが、こうした問題にとりくみたい。

場合によっては、仏教も禅も、血祭りにあげてみたい。
私の論法は、常に、『そんなこと考えてもみなかった。なんてこった』というのが
常套手段だからだ。釈迦も禅も、はたしてそんなに崇拝するに値したり、修行に間違いがないだろうか?。
あるいは、そもそもそんなものは必要ないとも言える。
苦が苦のままで、どうにもならないのかもしれない。
釈迦は嘘つきかもしれない。
悟った人間は、本当はどうなった人達なのだろうか?。
根底から、私は、もう一度問いたい。こんなことは、必要ないのではないか。
我々は歴史の中の人物に勝手な憶測ばかりする。
そして、その共通点から、悟りはこんなものだろうなどと言う。
雪渓老師は『私は無人島を見て来ました』と言う。そんなこと証明できるかな?。
むろん、EOだって、ただの気違いではあるまいか?。
インスペックスに悟りとかを説明させたら、
『あー、ありゃ、こういうパーセプトですよ。ただのメインスイッチの一時停止の技法ですよ。400年もすりゃ、またリピートする生命体になるんですよ。』で終わりかもしれない。

人間を卒業すると言って、出て行ったはずの卒業生は、3000年には、
『くだらん{体感遊園地}としての地球』に戻って来たという物語りも解せない。

物質の肉体が手に入らなかったまま2000億年を高次元ですごしていた、ある種族は、地球その他の惑星の第3次元を改良しつづけたあげく、やっと、肉体を手にいれた。
では、それまでの我々の苦悩、悟り、生活、文明、憎悪、愛、一体、それらはなんだったのか?。
そして、57億の人間のうち、たった数百の人間だけの悟り。

こんなものにはなんの価値があるのだろう?。
そんな人間の存在は、けっきょくは、他人の葛藤や願望をあおるだけだ。
しかも、それが成熟されるのも希な境地だとしたら、
悟ったやろうなど、まったくただの『人騒がせな見世物』にすぎない。
一体、我々は、ここで、何をしているのだろう?。
本当に、これは、私の、やりたいことなのだろうか?。
そして、あなたは何をしているのだろう?。本当に、道はそれしかないのか?。
それとも、それ以外の道の可能性を、いまさら模索して見付けるのが、面倒なのかな?。

禅や悟りは究極だと、簡単に思うのは私に言わせれば、根拠なき妄想だ。
そんなことは、証明されたためしはない。また反証されたこともない。
私は廃墟のブッダたちの4シリーズに限っては、断定と脅迫を満載した。
そうでなければ、統一的なテーマの本になり得ないからだ。
だが、今は違う。私は、私の過去から自由だ。EOなど私の知ったことではない。
不確定性宇宙に今、一番興味がある。
疑い続けるゲームに興味がある。別に結論などいまさら欲しくない。
ただ、禅も仏教も、疑わない前提がそこにあるのが、どうにも知性を感じられない。
・・・・・・・・・・・・・
今、とは、あなたが『今には問題はない』という
そんな確実な悟りのエリアではないと私は認識している。
私は、けっこう、かなり、地球の人間に妥協しつつ、道なんぞというくだらないものについて、今までは語って来た。
なんならば、明日から、禅、仏教、taoなど、愚弄し、まったく別の宇宙観を投入してもいいが、そうなると、今度は私が精神病院行きだろうな。

疑うのは楽しい。たとえば、
あなたのその存在そのものが、そもそも、それは一体何であろうか。
そういう疑問は苦を生む。だから今にいればいい、という禅ゲームはもう、私は飽きた。

そんなのは、実につまらん、ヒューマンな境涯だ。
そんなことは、とっくに2500年前に済んだことだ。
どうせなら、「全く新しい悟り」でも得た方がいい。

今、何かが、私のなかでカチカチと動いている。
こんな言葉を思い出した。
それは15才のころ、私が自分の哲学とした言葉だ。

『どんな者であれ、たとえ地球以外の生物であれ、
どんな人間の、どんなものであれ、他人がただの一度でもやったものならば、
私が何もその後を追ったり、同じ境地になる必要はない。
たった一人の誰かが到達すれば、それは宇宙にはかならず記録される。
誰もが、ある日、そのシステムの記録を自由に使えるはずだ。
あたかもそれは、特許のようなものだ。
したがって、2番煎じだけはやめよう。
どうせやるならば、誰もやらなかったことだけだ。』

一度やられたものは、必要ない。という鉄則を自分にいいきかせていた。
私はどんな人間をも参考や研究対象にしたが、
そうした人達と、同じようになりたかったことは決して一度もなく、
むしろ、絶対に同じことだけは、やるまいと思って生きて来た。
私は、繰り返すことには意味がないと思っていた。

何かが私の中で、カタカタと動いている。
今でも、最低の人間であることには変わりないが、
こうなった以上、なんの意味もなく、変な個性、単に変な道、
あり得ない道、あり得ない哲学、前代未聞の何かを作りたいというものが私の中にある。
とにかく、繰り返しは嫌だ。
だから、歴史的な誰かのようになりたがっている人間を私はいつも馬鹿だと思っていた。
釈迦にせよ、誰にせよ、そんなやつは、一度あらわれたらそれでいいではないか、
いつか、そういうのは、年月をかけて、平均化するものだ。
だから、自分は、自分だけのオリジナルなものを作るのが、本当は一番楽しいはずだと思った。
オリジナリティーは、別に正しい行為なのではない。それは単に『おもしろい』のだ。
そして、繰り返しは、つまらない。それは間違っているとかいうのではなく、
私の中の何かが、繰り返しの退屈さを拒否しているようだ。
繰り返しには、ぞっとするような、身震いするような、喜びが感じられないからだ。

まったく、・・・・・・・・・

            1994 8/13

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坐るということは、思考や概念や自我をそこで殺しにかかっていること

十への法話

さて、非常に単純な原則が祖師たちの見性の瞬間には存在するのを思い出すとよい。
まずもってして誰一人として、悟りの瞬間に何かを「思考していたやつ」などいないということだ。
爪を剥がして悟った者。
寄り掛かろうとして、もんどりうって悟った者。
老師にふすまを閉められて、足を折って悟った者。
30棒打たれて悟った者。
小石が竹に当たる音で悟った者。
明星を見て悟った者。
箸を置いた瞬間に悟った者。
階段から落ちて悟った者。
闇夜の烏の一声で悟った者。

やや、この類から脱線するのが道元と雪渓老師だが、
道元の場合は十牛図の8図の絶対空性に着眼がある。死人禅で言うところの闇への脱落。
雪渓老師の場合は、「今、仏道はどこにあるのかね」の反芻が、問いと答えの往復から、
問い「そのもの」だけが残り、問いそのままが「このもの」となって見性したのだろう。
原則的には方丈が任意の物体を指して弟子に問う「これはなんですか?」と変わりない。
ただ義エン老師は、雪渓老師が「こだわっていた、囚われていたもの自体」を公案の素材として唐突に指したという点でさすがだ。
さて、ところが、歴代のほとんどの見性者たちは知的な問いよりも、長い緊張と疑問ののちに、
ちょっとした「工夫の隙間」を打たれたようなショックで悟っている。むろん人為的であったり、自然の悪戯だったりと複雑ではあるが。

この原則から言えることは、価値観も煩悩も妄想も、とりとめのない連想もふくめて
すべての思考というものに断絶した停止状態を生み出すことが見性のひとつの原理である。
私は基本的には、生死への根本疑問、すなわち「なぜ生きているのか」と、そして
「何故死なないのか」という二つの問いに追い詰めるのが常套手段である。だから方丈のように瞬間的な思考の論理構造の断絶のためのトリックを使うことはあまり好きではないが、
だからと言って、効力がまったくないわけではない。
さて・・・・・・・・・・・・・・

生、老、病、死の苦、あるいは四聖諦の問題とは、実は思考の明滅する僅か3秒の中にある。
瞑想や座禅とは、その3秒の思考宇宙へ切り込んでゆく精密な職人芸だと言える。
何も人は何週間もかけて物事を悩むわけでもない。我々の苦はすべて3秒の思考プロセスの中に凝縮されている。たとえば、
まず禅堂で座ったら、幽暗行ではなく、普通に只管打坐するといい。
そこで、一切何もやろうとしてはならない。いったん深呼吸を終えたら、その後は呼吸を整えてもならないし、呼吸をただやるのも駄目だ。なんの工夫もあってはならない。一切無工夫である。
さて、ここからが醍醐味であり、全人類の不幸の根源が発動するのを見るがいい。
坐ってたった10分の中に、全世界の苦と不幸は存在する。
まず、思考は何か安全な繰り返しの中に存在しようとするために、理解できない流れ、すなわち経験的に整理や定義が出来ない、つまり覚えのない現象に対して不安を感じる。
たかが坐っているだけで起きてくる不安はほとんどがこれに起因する。
たかが坐るということは、坐ったらいきなり「理解」というものが崩壊を始めるのであるから、
坐るというのは、その瞬間に即、根本公案に向かうのと同じだ。
何かをやっていたり、思考していれば、自分が何者であるかという妄想の中に存在できるが、
ただ坐ることは急速にそれらの崩壊を生む。
思考にはだいたい次のものがある。
目的のある思考。つまり坐って悟ろうだのがそれ。
全くどこから湧いたのか分からないような、とりとめのない連想や止まらない歌。
外部の音などで連想が始まる場合。
さて、ただ坐れば、釈迦の言う苦など、あっというまに出現する。

1.心地よい気分を留めておきたいと欲するが、それは消えてゆく。
2.嫌な妄想や記憶が出てきて追っ払いたいのに、それらがやってくる。
3.自分という枠が崩れて自我の安定したアイデンティティーが死にそうになる。
4.思考そのものが衰退、すなわち活動として老いること。

親鸞とイエスの話を先日の外伝で延べたように、だいたいのブッダたちは、ほとんど比喩を使って語ってきた。そしてその比喩の本当のターゲットは、汝の敵であれ、いわんや悪人をや、であれ、
それは思考のことを言っている。したがって釈迦の説法においても、老、病、死、生、という苦、
愛憎、離別、明滅、諸行無常もまた、外部現象としてのそれらではなく、我々の思考の問題に転化してとらえるべきである。そうすると、それらの基本的な苦は、何も数十年という人生の中に明滅しているのではなく、坐ってたった数分、数秒の現象の中にそのすべてのミニチュアがある。
それは、すなわち自分の中に起きる思考に対する「あがき」のシステムのパターンである。
だから、禅堂であれ、部屋であれ、坐って工夫なしで、ただ坐って、
問題は、そこで思考というやつが何をやらかそうとして落ちつかなくなるかを、じっくりと観察し、また、単に観察するのではなく、ゴチャゴチャになっても、それと共に戯れてみることだ。
ただ坐っているだけで、人間は充分に狂うことが出来ると分かるだろう。
まず、ただ坐るということは心理的安定感というものが喪失される。
次に、意志とは関係なく、情緒や連想が発生する。
それらに一切手をつけないままにしても、依然としてあなたは自分に対して「何かをしよう」としはじめる自分の存在を感じるかもしれない。これすなわち、常に、自分に起きる事を<制御したがる>自我の悪癖である。
また、現象を理解したいとか、自分に起きている状況を把握したいというものも不安を生む。
把握というのは、流れ続ける川の水を止めようとするような矛盾だからだ。

もしも、ただ座り、ただ何が起きても、それと戯れるということが起きたらば、
始めて、あなたは「無条件性」というもの<恐ろしさ>、そして法悦をも経験する。
その法悦は、極端な恐怖と<背中合わせ>である。
思考を無条件に許す(その思考に従って行動する、しないという問題は今回のテーマには含まない・・)という事は、そんなに楽観的な事ではない。
試しに、とにかく無工夫の座禅と、無条件の許しを十の座禅としてみるといい。
まず、あなたは、いかにいろいろな事を「許さない自分」が、未だにそこに踏ん張っているかを自覚するに違いない。
只坐るというのは、最もとんでもないワークである。
実際には、坐るということは、思考や概念や自我をそこで殺しにかかっていることであり、間違ってもリラックスの為の座禅などは成立するわけがない。
一旦座禅など始めたら最後、
見性するまでは、本当に<緩む>ことなど不可能であり、多くの場合は、まだしも座禅などしないほうが良かったと後で後悔するほど、実際にはもろもろの心理的恐怖や死滅への恐れを座禅は誘発する。
こうしたことは某が少林窟で本当に脱落できたのが10回に1回であるとか、十が楽しかった座禅がほんの最初だけだったことを思い出せばいいだろう。

やれやれ、ここまで打ってたら、世俗のくだらん邪魔(仕事)が入った。
残りは家で書くか・・・・・・
            1995 1.23 崩山
                       世間にて。

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ミカンそのものが悟りだ

十へ

会社のワープロで打った文章から、何日も
何も特に言うことも出て来ないまま、そのままになっていた。

確かに、十にしても私にしても、誰にしても、EO師の本などは、
重要な部分は、ほとんど無意識に素通りしてしまっているはずだ。

だからといって、彼の本を教科書のように取り組んだところで、いくら真面目にやったところで、その真面目さが祟って、肝心の要点を逃してしまう。
読者としては、真面目にやればいいのは、行法ぐらいのものだ。

ところが門弟となると、
いろいろそこに、EO師からの突っ込みや点検が入ってきたものだ。

さて、、、
いわゆるTAOないしは、仏法の本で、しかも著者や語り手が有名であれ、無名であれ
ひとりのブッダである場合、それはまったく通常の本となにもかもが異なってくる。

通常の本は、なんであれ、それは『説明』をしようとする手段だ。
それは何かについての説明であり、また説明者の自己主張がけたたましく入り込む。

ところが、ブッダたちの文章や語りというのは、
説明なのではなく、それは『仕掛け』である。

見性学なる学術書を作ったとしても、
それを読んだからといってどうにかなるわけでもない。
事実、インドなどはいわゆる悟りのメカニズムなるものを必死こいて説いたり(全然説明になっていないが)、霊的分野なども、うるさい説明の山だ。
ところがTAOとか、本当にそうであった禅、そしてEOイズムなどは、
論理的説明ではない。EOイズムのように、ひどくめんどうな論理的な部分がかりにあるとしても、論理を記憶させるのが目的ではなく、また論理を応用してもらうのが目的ではなく、要は、それが『有効』に機能するかどうかなのである。
それが『何』に対する有効性なのかは言うまでもないことだ。

そういう意味では、一般書にするのは困難だったし、実際『廃墟のブッダたち』にしても『地球が消える時の座禅』にしても、まったくあれらは一般書ではない。しかも個々の文書は全部原文が老師から質問者への手紙だったものだ。
EOがあなたにあてた文書はずいぶんたくさん編集された。しかし、あなたが手紙を受け取った状況やタイミング、そしてそれを書いたEOという、それらの互いの縁の流れの中で生まれた言葉の方便を
一般の不特定多数に向けたのは、もともとミスだったかもしれない。
ただ、そこに微かな期待があったのは、
結局、ひっかかっている部分は、みんな同じだろうということだった。
しかし、やはり、一人の人間にものを言うタイミングというものはひどく重要であり、
師家とは結局、説明や説法の巧妙さではなく、
たったひとことの、何気ない言葉を門弟に投げる、そのタイミングの絶妙さに力量があらわれることは言うまでもない。

さて、先日の手紙で十が、「悟りという部品を今の自分に付け足すという、とんでもない幻想」を、かつては自分は持っていたものだ、とあった。言うまでもなく、おわかりの通り、実際には法とは『減算』であることは言うまでもない。
そこで、今回の本題に入ってみようか。

今回の公案は『認識の減算』である。
おのれの中に起きる認識から、どれだけそぎ落として、引くことができるか?。

というのも、実際に、これはインドでの基本的公案だからだ。
捨てて、捨てて、捨てて、最後に残るものが本質である、という問いを方便として彼らは使う。

もちろん、最後に残っているものとは『それが真に最後に残っているものだったら、絶対に認識できるわけがない』という原則があることは忘れないことである。

雪渓老師が『今とは、知り得ない』という所以である。
また、今というのを『只』あるいは見性に置き換えてもよいわけだ。すると
『只』は知り得ないことになり、『悟りも知り得ない』ということになるのは明白だ。

「いま、ここだ」、などというサニヤシンたちは、それこそ雪渓老師のところでやり直したほうがいいと思うね。『今、ここ』などは知ることは出来ない、ということが分かるのであるから。

まず言えることは、『理解』とは、そもそも幻想であるということだ。
それは、よくてせいぜい「思い込み」と命名されるのみである。
単に、現象を確定して枠に収めて整理するという、その思考上の単なる作業が
一般に理解と呼ばれているものの実体である。
それは、情報の区画整理であり、応用しやすいように、分類しただけである。

ところが、直接認知というものには、理解している暇などない。
整理している暇もない。そして、留まるものでもない。
全治20日間のやけどをしたとしても、その痛みは20日の間そこに留まっている訳ではない。継続しているものは、安定しているという幻想を人は持つ。
だが、いうまでもなく、たとえ痛みが20日続いても、痛みそのものは、
今、今、今、今の中にあり、捕らえることは出来ない。

さて、『認識したら<それ>ではない』というのは、実に優れた公案のひとつだ。
では、認識というのは、なんだろう?

実は認識などどこにも存在しなかったのだ。
記憶ならば存在するが、認識とか、知るということはいかなる場合にもあり得ない。

我々は「分かったか?」「覚えたか?」と親や学校で言われ続けたが、
肉体の生活や社会のルールに必要ないくつかのパターンを、
「単に反復できるようになる」のが学習というものの実体である。

したがって、膨大な訓練された習慣とその加工や変形、そして合成の組み合わせの中に
やれ個性だの創造性だのが混在しているのみである。

ところが、
耳をすませて聞こえる音を綿密に聞いてごらん。
まるで音楽家が自分の曲をチェックでもするぐらいの綿密さで、
ボヤっと聞くのでなく、1秒の音さえも、10秒に思えるほど細密に聞き取ろうとし、
連続音も注意深くその全プロセスに耳をすませるのである。

極度の注意深さの中には、理解は存在しえないのですよ。
おそらく、これがその寺、少林窟道場の入門時の初歩的段階だろうと思われる。

極度に綿密な注意を払ったら、思考など存在できず、
理解もなく、何かが分かるもあったものではなく、
「それだけ」、「このもの」が「ただそうである」というところに嫌でもぶちこまれてしまう。

さて、最大の問題は、
むしろ座中の工夫にある。
実は工夫とは、動中の工夫と座禅中の工夫の中間にもうひとつある。
それは見る、聞く、感じるという工夫だ。
さきほどの「ただそのまま」というのは、この中間の知覚感覚による工夫だ。
バグワンんとこみたいに踊ったり、あるいは僧侶が禅寺の廊下を掃除するのは、動中の工夫。
そして、問題は、では本当の座中の工夫とは何かなのである。
座って、何かに耳をすませるというのは、動と座の中間の工夫であって、
私に言わせれば、まだ座禅ではない。
本当の座中の公案の工夫とは、
そこで、<認識を減算し続けること>なのである。

さて、たとえば、音か何かが聞こえる。そういう認識とか知覚をどんどんと
捨ててゆく。ただしそれは警戒してわざと聞かないようにするのではなく、
聞こえても、<一切かまわないこと>である。さて、思考のイメージが浮かんでも、一切を<流しっぱなしにしておく>。
そうすると、最後に残るのは、皮膚感覚による自分の存在の感覚だ。

しかし、それも認識されたものとして、捨てて行く。
すると意識存在だけが残るが、
それもまだ『認識された』ものだとして、切り捨てる。
こうすれば分かるように、
ようするに、認識というのは、『焦点』つまりフォーカスが一瞬でも何かに絞りこまれた状態だ。通常は、そこへ記憶が雪だるま式に加わって、思考になる。
カラスの声を聞いたら、一休のことを考えたなどというのがそれだ。
バカと言われて怒るのもそれだ。バカとはバカという発声に過ぎない。
だが、音が記憶を励起するように教育されたために、そうなるわけだ。
さて、聴覚であれ、視覚であれ、皮膚感覚であれ、
意識のフォーカスが一瞬だけ絞られて、音や光や映像が『認識』されたと思い込む。
では、もしもフォーカスを完全に解放してしまったら、どうなるのか?。
それが死人禅の方便の特徴である。
だから、死人禅は、目の焦点がボケた状態とか、
頭頂留意で思考が、減衰して、あいまいになったり、外界の物を見ないようにして歩けだの、瞬きや視線を遅くしろなどという。

これらの手法は、悟りなどを「捕らえようとするエゴの悪癖」の緩和のために、
最も意志というものが露骨にあらわれやすい『視線や目付き』を
<強制的に、無欲にならざるを得ないようにもってゆく>のである。
結果的に、死人禅の座禅者たちは、まじめなしっかりした座禅姿ではなく、
まるっきり、「のうたりん」のような座禅者になる。

そこでこそ、「やる」とか、「なる」という幻想と迷いと苦が止んで、
隙間が現れる。その隙間をポンとなにかの縁が打つとき、
『このもの』がくっきりと『ただこのもの』としてある。
間違ってもそれは『悟りというもの』がそこにあるのではなく、
『そのものがそこにある』のである。
それが、あたりまえであり、楽であり、なおかつ「ただそうであることが楽しい」ので、
多くの大悟者は『箸がころげても、微笑する』わけである。

「悟りとはなんだ」、と問われて、かつてEOはミカンを投げた。『そら、それだ』と。
しかしそのミカンは悟りを象徴したり、意味を暗示する何かの比喩ではない。
ミカンそのものが悟りだと言っている。
ミカンによって何かを説明するのではなく、
ミカンが悟りだと言っている。
ミカンを受け取った者も、それそのものの状態が悟りそのものだと言っている。
そうなったら、悟りでないものをどこで見付ければいいのか、
ということになってしまう。それに対する回答は、次の通りである。

悟りなど絶対に<なる>ものではない。
幸福になどなれるわけがない。
幸福は<在る>ものであって、なるものではない。
悟りは、<ある>ものであって、知るものではない。
もしも、なったり、やったり、知ったりできるものがあるとしたら、
それは、苦と迷いのみである。
苦や迷いなら、作れるし、なれるし、やることが出来る。
だが、悟り、幸福、これらは、
認識、やること、なること、知ること、<これらを徹底的に引き続けた結果として>
嫌でも、『そのまま』であることしか出来ない、停止となる。
まさに、実存から我々は1ミリも動くことができなくなる。
まったく、自我にとってはお手上げである。
知ることには距離が必要なのだから、このように距離が崩壊したら知ることも出来ない。

こうして、結局、ただ我々は
『余計なことをやめれば』よかっただけである。
ただし、社会や教育とは、
<その余計なものの集積としての文明である>ことが問題なのだ。

その余計なものにこそ、人類は価値をおいて来たからだ。
蓄積、記憶、応用、制御、認識、学習、再現、合成、加工、安定、・・・。

しかし禅やTAOやEOとは、
『これ』を除いては一切が余計だという。
そして最後には、
『これ』と指さしている者も余計だと言う。

探すことをやめ、指さすことをやめ、なることとやることをやめ、
自分が分からなくなるという「そんな不安すらも捨てて」こそ、
仏が仏に向かって笑う瞬間がやってくる。
                 崩山 九拝

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『銀河狂言ノート』

十へ
1995 1/27
EOの『銀河狂言ノート』の記録をプリントアウトしてみた。

EO『私が最も苦悩し続けていたとき、その苦しみの最大の原因のひとつは、
個々の生物の意志などを全く無視しながら、
強引に強制的に我々に生きる事を強制しつづけるその宇宙というものに対する『敗北感』だったよ。
あれほどの完全な敗北感を私は味わったことはないし、
それは、もう2度とないだろう。
自我にとってあれ以上の敗北感はあり得ない。
なぜならば、自分の個体存在の根底を完全に無価値と烙印を押されたようなものだからだ。
あのときは、たとえ天使でさえも、いや、神でさえも私を勇気づけられなかっただろう。
いや、むしろ神だったら私はそいつへの嫌悪のあまり卒倒していたことだろう。
なにせ、宇宙というものの内幕は全部知っていたからね。
だが、我々の生死そのものも操られ、
そして我々の生活の苦痛と快楽のすべてが全く完全なシステム管理のもとで発生し、
私自身と宇宙の全存在が、
まぎれもなくモルモット以下の生き物だったことを知ったとき、そして実感したとき、
私は『知る』ということが人を満足させたり幸福にするというそれまでの幻想を失った。

こんなことは知らないほうがよかったという気持ちがその時若干脳裏にあったものの、
それは自分が望んだことだったので、ある意味ではその決着に満足もしていた。
だが、知的には満足されたが、あまりにもその回答が完全だったために、
私には、存在していることのゲームそのものが成立しなくなったのだ。
すなわち生きがいもなければ、謎もないし、探求するものも、楽しむものも失った。
無意味な存続という決定的な事実を知ったまま、
ただ、理由をあれこれつけて、あるいは感覚の快楽を作り出して生きて行かねばならないのだった。
私は試しに、なんとか正常な人間としての快楽や楽しみを復帰しようとしてみたものだよ。
何度も、何度も。
ところがだ。よく聞くがいい。
私はそうやって、何度も、宇宙のことなど忘れて普通の楽しみ、平凡な快楽、平凡な人間の当たり前の生活になじもうとするたびに、
自分がなんのためにそんなことをしているのかを「くっきりと思い出してしまう」のだ。
宇宙の実態を忘れようとして、人として、生き物として、あたりまえの何かを始めても、
そのたびに、その瞬間に、私は
自分が一体『何を』忘れようとしているかを<はっきりと思い出してしまう>のだ。

すなわち、自分が宇宙存在そのものの無意味という事実を忘れようとしてやっていること、
そして、無を恐れているだけのたわいもない生き物であることをくっきりと想起してしまうのだ。
廃墟のブッダたちの読者には、なぜそんな哲学的問題で自殺まで考えたのか理解できない者が多いようだ。
その彼らの実感能力の欠如の決定的な原因は
彼らの探求に、全生命、全人格、すなわち心理的な『自我の全財産』がかかっていないからなのだ。
『ひきつりながら読む精神世界』で語られたEOの身の上話を見るがいい。
彼の探求には、すべてがかかっていた。それはメシを食うことよりも最優先されていた。
そもそもなぜ食うのか、という問題が、食うこと以前の重要課題だったのだ。
実際、彼は肉体がどうして食物を要求するのかという、ただそれだけのことを確認するという目的で断食をしたことすらあった。
彼の最大の関心は、小学校のころからずっとある問題に集中していた。
そして、その最大の関心は、食欲よりも、性欲よりも、社会的出世よりも、なによりも彼の最優先の課題だったのだ。いうなれば、彼はまぎれもなく、マッドサイエンティストの一人だった。3度のメシより哲学が好きだったのだ。正確には、好きだったと言うよりも生き延びるのに「切実な問題だった」というのが正しい。それは単なる知的趣味ではなかったからだ。
彼にとっては、生命の根源の仕組みや意味や、明確かつ正当なる目的が何もないならば、明日にも死んでやるという思いが常にあった。
そしてまた彼の最大の娯楽、あるいは生きる意義を奮起できる燃料もそこにだけあった。
それ以外のチンプな神学や世間に出回っている神秘学や和気あいあいと馬鹿げたチャネリング、そして瞑想などには、まったく関心がなかった。彼の最大で、唯一の関心は、『生命の根本問題・・存在はなぜあるのか』だったからだ。
そもそも、<そこがまずちゃんと定義されてなかったら>、一般的な瞑想探求やら魂の進化なんぞという理念すらも、そして他の惑星の住人の存在意味や、他の次元の存在意味、そして結局は宇宙の存在そのものが明確にされていなければ、何をどうやって、どう生きて、どう進化したところで、なにもかもが不確定でその根底の意味を失うからだ。』

だから、EOは実際、この問題解決のためならば、1万回でも生まれ変わってやると思っていた。やや唐突に飛躍した話だが、実際に、彼はそうやって、いままで旅をしてきた。
とうぜん『万物の根本疑問』というものは、どこの宇宙でも嫌われるものである。
だから、彼はある星系の議会でこの哲学課題を持ち出して、2000惑星にもおよぶ星の住民を全員ノイローゼに陥れた前科があった。
それは第6次元のプロキオン星系の記録にあるRGー99という事件で、その後、
いわゆる知的生物には『宇宙の発生の根本疑問に関するデータ検索機能』をプログラムしてはならないという規制の因子の発端の事件だったのだ。

なぜならば、自己存在の意義を問えば、必然的に、自己を支える存在全体を問わねばなるまい。
そうなれば、問いの循環は決着がつくまで拡大し、ある地点で停止する。
それは存在という概念のアウトラインだ。
それを超えたら、もはや存在が無意味になる領域、すなわち無の領域である。
このバグ発生のセキュリティシステムとして、宇宙では、その最外殻に通常は『番犬』とよばれる人工的システムを作ってある。

それを貫通してゆけるのは魂のレベルでの完全死だけであるから、
通常の1次元から8次元の知的生物は絶対にその一線を超えたりはしない。
それはわざわざ決定的な再起不能の自滅を選ぶようなものだからだ。
ところが、それを故意にやろうとするある集団が存在した。
この集団は、なんと現在の宇宙以前から存在し、また、その前の宇宙にも存在し、
すなわち無限時間にまたがって存在し続ける種族である。
その話は非常に複雑なので、これまでとして、さて、
EOは、とにかく普通の7つの次元の宇宙システムには戻れず、また消えることも困難なまま、無意味を確信したままで生き続けるという絶望的輪廻の「わっか」の中にいた。

そして、すでに述べたように、いかなる行為や思考や快楽や充実感を自分の内面に生産しようとしても、それをやろうとした瞬間に、『なぜそれをやらされているのか』を確認してしまうがゆえに、無意識に何かをやるということは彼には不可能になった。
寝るときにでさえ、彼は、その眠りが明日の生命という強制労働のための燃料補充の為の行為なのだと思うたびに、夜になって<寝ることにさえも嫌悪>したのだった。
眠ったまま死にたいとすら思ったが、そんなことになって気がついたらまたどうせどこかに生まれて『生きることを強制される』と思うだけで、ぞっとしたものだ。

繁華街を呆然とEOが歩いていたとき、彼は常に無力感と、虚無の中で、狂ったような楽観的な地球人類とその構築物を眺めていたのだが、
彼は町へ出るたびにこんなことを思っていたことは門下には、あまり知られていない。
彼が絶望したのは、無意味生存という宇宙的事実に加えて、
実は『あまりにも世間が正しい』ということだったのだ。
町へ出ると、彼は<どこにも間違いというものを見いだせなかった>のだ。
これが、どういうことだか、わかるだろうか?。

彼はそれまでは、正しいことと間違ったことというものを観念として持っていた。
これは普通の凡人とて同じだ。殺人は悪い、窃盗は悪い、空腹はつらい、頑張って生きるのは正しい、というこれらの善悪観念とて同じことだ。
そして社会改革やら、行政への抗議やら何やらをやらかす人間も常に正しいものと、正すべき間違ったものというものを自分の中に作り上げている。
精神世界や瞑想などと言っても、それもまた
正すべき間違った自己の内面と正しい内面状態などというものを作り上げている。
外部的なものであれ、内面的なものであれ、
なんであれ、『善悪』の分別は人間の原動力のひとつだ。
ところが、・・・・・
『間違いが何ひとつない』という状況下では、改善の余地がなくなってしまうのだ。
変革という課題がなくなってしまう。
したがって、完璧な正しさの実現された世界とは、いうなれば、完全な目的喪失の絶望的世界と同じことなのだ。
そして、宇宙というものを彼に解説した異次元の知性体は、
宇宙が完璧な管理体制にあり、人間の悪徳も救いようのない面も、そしてまた愛も憎しみも、なにひとつ間違いなく、宇宙の存続に貢献しているという舞台裏の事実を見せた。
そうなると、あまりにも万物が、人間が、やれあれは間違っている、これは正しいと「のたまう」のには、<まったく無関係に、宇宙は断固として正しさを貫いており>、人が泣こうがわめこうが、楽しもうが、苦しもうが、破壊しようが、作り出そうが、なにもかもが、完璧に利用価値のあるエネルギーに変換されていたのを見たとき、
EOの中では、自分の意識の間違いを正すという課題が崩壊してしまったのだ。
自分の内面の間違いを正さねばならないという心理的修正への葛藤それ自体が宇宙にとって貢献する葛藤エネルギーだったからだ。
こんなわけで、あるとき友人と繁華街を歩いていたときにEOはポツリと言ったという。
『僕は、この人達がなぜ酔っ払い、なぜはしゃぎ、なぜ生きて、なぜ明日も働くか、そして死ぬとどうなるかも、全部知っている。なぜこの人達がこんなにも軽薄で、なぜ感情的で、なぜ、こんなくだらないものばかり作り出し、矛盾した言動をするのかも知っている。なぜ人類が、こんなふうに生きて死ぬか、わかるかい?。
簡単なことなんだ。それは人類が『こうするためにこそ作られた』からだよ。
つまり、こういうことさ。間違いなんてどこにもない。
生物も人間も完璧に正しく生きているのさ。たったひとつも間違っていない。
まったくこのままでいいのだ。そしてこのままでしかあり得ない。
「これでは何かがいけない」と思い込んでは、何かを始めたとしても、
その改善という行為そのものもまた宇宙に食われるエネルギーになる。
一方、誰かの家族や子供が惨殺されて、じわじわ苦しんで死んだとしても、それもまたエネルギーとして還元される。
僕は、宇宙がまったくなにひとつ間違っていないことを確信しているがゆえに、
僕には、もう未来も、やるべきことも、改善することもない。
なんせ、良心の呵責もなけりゃなにもない。
はっきり言わせてもらえば、この完璧な管理宇宙というものが呪わしくて、
くやしいけど、そのくやしさまでもが、波動素材として吸収されてゆくんだから、
もうどうしようもないよ。
死んで消えたいが、消えることも出来まい。精神的な充実や娯楽を見付けようにも
なぜそんなことまでして楽しむのかを、思い出すたびに、僕は何ひとつ楽しめやしない。
もしもマウスが自分がコロコロと車輪を回して病原菌を注射されて死ぬんだなんて分かったら、とても生きてゆけまい。
だが、僕は実際そういう状態でいきていたわけだ。
僕は、自分がなんだか知っているし、宇宙が『ただの青白い玉』であることも知っている。
そこで何が行われ続けたかも知っている。
そして、そこには高尚な目的など存在しない。とにかく宇宙は手段を選ばず存続を優先する。
人間たちが理屈をいろいろつけても、結局は物理的、あるいは心理的に生き延びようとしているのと全く同じことさ。
さて、こんなことを知っていながらに物事や自分の生命を楽しむことなんか決して出来ないさ。
もしも僕が言っていることが狂人の発言だという者がいて、それを僕の狂気の産物だと証明できる者がいたら、会ってみたいものだ。
だが、誰一人として、私の論理を転倒できなかった。
なにせ、神ですら、僕の回答にたいして
『ご名答・・・正解だよ。だが、これで君は邪魔な因子になったから、
存在世界から永久におさらばだな』と言ったんだ。最初は、僕は喜んださ。
だって、私の望んだとおりに、死んで、おさらば出来ると思ったからね。
ところが、彼らが方針をいきなり「変更」しやがったんだ。
つまり、僕の記憶を破壊して、宇宙に対する疑問とその回答のデータを削除すると言いはじめたんだよ。
これにはくやしかったね。とてつもないサギであり、とてつもなく、生き物としての自尊心を傷付けられたよ。
自分が洗脳されるほど嫌なことはない。
なのに彼らは、僕の脳に何かしはじめたんだ。
エラーを直して、宇宙に関する記憶を消して、凡人の家畜として社会復帰させようとしたんだ。
まったく、馬鹿にするにもほどがあると思ったよ。
僕は、その当時、何回も輪廻の輪の世界を夢で見た。
そして、何度も精神病院にいる夢を見た。

そして、・・・
記憶操作を受けはじめて一日たったとき、僕はあわてて宇宙に関する事実を書き留めたよ。
これは2度と記録できないと思ったからだ。
1時間経過するたびに、自分の記憶がどんどん消えてゆくのが分かったからね。
そして2日目だった。
僕の記憶を削除しようとした連中を違う角度から阻止した別の連合が存在したんだよ。
それは、なんと、あの凍結の幽閉次元のエーリアンたちのボスだった。
この<全宇宙の外側に、まだ何かがあったんだ>。
通常は、ひとつの存在宇宙があり、無がそれを取り囲んでいるのだけど、
どうやら、もっと未知な何かがこの宇宙とは別のところに、
そして無でも有でもない不確定次元の中にあった。
そして、驚くべきことに、
ここに到達したのは僕だけじゃなかった。
その先駆者たちを見たとき、僕は笑ったよ。

そして、宇宙というものが、
そもそも存在などしていないということを僕は完全に了解(りょうげ)した。
それは夢にすらなっていない。
なにも存在していないのだ。
これは、人間に永久に言い続けても、永久に理解されることのない事実のひとつだ。

宇宙は何も、最初から、存在していないのだ。
存在していると「思い込んでいるのですらない」。
そんな思い込みすら存在していないのだ。
9つの次元すらもない。高次元もない。物質もない。
最初から、なにも、まったくないのだ。

それに対して、きっと地球の猿たちも、宇宙の猿たちも言うに違いない。
『何言ってやがんだ。ちゃんと惑星も太陽も、大地も海も7つの次元もあり、またそれらがただの幻覚だったとしても、生命には知覚や情報も存在しているじゃないか?』

それに対する我々ブッダたちの問いは以下の通りである。

『では、ひとつ尋ねるが、・・・・・
何かが存在していることを絶対的なまでに証明してみたまえ。
そして、
そもそもあなたの意識であれ、世界そのものであれ、あるいは幻想としての宇宙であれ、
それらが<存在していることとはどんな状態のことなのか定義を>してみなさい。』

そうすれば、
知性の最初の混乱の発端は、
この宇宙を、そしてまた単なる幻覚的知覚情報を
『存在』と<決め付けたこと>にあると理解するだろう。

宇宙、あるいは万物、あるいは世界、
それは、
存在ではないのだ。そして無でもない。
存在と無という根本的な2元認識の崩壊した果てに、あるいは根源に、
あらゆる万物を超越した
なきものがあり、
ありしものがない、
という完全な融合と離散との一体性。
始まりと終わり、
永遠と一瞬の不可分なる、
『・』がある、

いや、それは、
ありてなきものであり、
ないままにて、あるものである。

ここでは言語の機能は
すべて消失する。

超越的な、絶対的な心の沈黙とは、
それ自体が存在の<爆音>でありつつ、
なんと、その爆音が、<沈黙>と名付けられているほどに、
この宇宙は矛盾に満ちており、

それを本当に知る術は、
これまた知というものを
完全なまでに落とす以外にはありえないのであるから、
宇宙とは、極限の冗談好きであると
まんざら、言えなくもない。

だが、それはまた『実にくだらない冗談だ』と言う、
実にもっともな御意見も古くから、この宇宙で議論されていることは、
いまさら言うまでもないことだ。』

というわけである。
たまには、こういうものを書きたくなる。
最近、ちょっといろんな人が手紙をよこしたり、この家にきたりしたけど、
みんな、いわゆるセラピーとか、瞑想という漠然とした『娯楽』をやってきたりした人が多い。そして、たいていそういう瞑想の世界は、遠くに『悟り』なんていうものがターゲットとしてぶらさがっているものだから、
そういう修行の延長として僕をたずねて来る。(もっと何か確かなものが欲しいと・・・)
さて、いろんなワークとやらがはやっているもんだが、どれひとつとっても、
禅とか仏教ではなく、気持ちいい毎日のための訓練だ。
しかし、まんざら、それは仏教でないとも言い切れないことは言うまでもない。
苦と幸福の問題が、最後まで仏教の根底だからだ。
仏教は、科学的であり、哲学的であり、瞑想的である。
だが、それは絶対に、「正しさ」とか、「絶対真理」というものの探求ではない、ということを
案外、人々が忘れているのを私は最近感じた。

EOの落書き

***********************

悟りなどというものがあるわけではない。
ただ、不満というものが消えるのみである。
ただし不安というものは不満とは違う。
不安とは、情緒的感応を包含しており、
それは楽しむべきものですらある。
ただし不満とは迷いである。
満たされないとしたら、それは求めている故であるからだ。
・・・・・・・・・
道人たちは、時として
禅味というものに、囚われることが多い。
いくら無思考の禅定が続いたところで、それは片足にすぎない。
またいくら、ただのこれが楽しいとしても、それもまた片足にすぎない。
道とは、無のゼロなのか、只の1なのかと
道人が、ひょいと観念の散歩をすることもあろう。
そんな時には、覚えておくとよい「たとえ」がある。
脱落の無は、出息に似たり。
しかし出息に安心を認めると、出息ばかりの工夫に囚われる。
これが、やれ只管打坐だ、脱落だとばかりに禅味に囚われる場合である。
次に、只の事実の味を認めてしまうのは、入息に囚われるのに似たり。
只、事実を吸い込む、そのありのままの味の良さに囚われるのである。
だが、道とは、あたかも自然な息のごとくであり、
出息と入息は交互に繰り返されるものである。
無と有、0と1は絶え間無く繰り返され、
その2足が道をゆく足である。
只には万味があり、逆に
脱落には無味という味がある。
しかし、そのどちらも
混然として認めがたい
幽幻とした法霧に包まれる時、
とうとう『これ』が落ちる瞬間が起きる。
禅は『このもの』を終着駅とする。
TAOは『・』を
終わりなき永遠の滅びとする。
『このもの』があるうちは、
微笑も至福も法悦も歓喜もあるまい。
なぜならば、
佛は、ただの一度として
『これ』だの『このもの』などとは、
言った試しがないからだ。
・・・・・・・・・・
悟りに固執する者の心から、
あるとき悟りという妄想が落ちて
脱落と安心が起きることはよくあることだ。
だが、まだまだ人間という存在は、
たくさんの妄想を持っていることも事実である。
たとえ大疑団や、化城が落ちたとしても、
いまだ、多くの僧・師から落ちぬものは次のようなものである。
自分が道人であるという妄想。
法という妄想。
師弟という妄想。
修行という妄想。
只という妄想。
無という妄想。
禅という妄想。
寺という妄想。
男や女であるという妄想。
人間であるという妄想。
迷いという妄想。
地球という妄想。
世界という妄想。
自然という妄想。
存在という妄想。
自分という妄想。
無我という妄想。
果のない妄想という妄想・・・云々・・。
なぜならば、そもそも、我々の存在そのものがすでに
妄想という粒子をその組成としているからだ。
妄想という粒子をまとう空性というパラドックスが
道の楽しさであるにしても、
我々の最後の故郷が絶対無であることには、
なんら変わりはありはしない。
  1995 3/9 無名庵にて 3月11日・・敬宗大師 御門下に捧ぐ

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  ********************

捨てたかった。

十へ

やはり、苦。

ひっきょう、苦である。

苦であるからこそ捨てたくなる。

苦でなかったら、持っていて、大切にしたり、
大きくしようとするだろう。

だから鍵は『苦』である。

苦だからこそ『捨てる』『落ちる』が起き得る。

苦でなかったら、起きるわけがない。

落ちることに、絶対に自我は抵抗するのだから。

前後破壊をいくらしようとしても、本人が壊されまいとしていたら、
それを強いてやって、只に投げ込む、というのがたぶん
伝統的な禅かもしれない。

僕には、そういうことをやってくれる人もいなかったし、
自分でやる気もしなかった。
観念的な大疑団だったが、無意味がまぎれもない論理的事実だったので、
そこには苦があった。
自暴自棄があった。
生が嫌だった。

捨てたかった。
何もほしくなかった。
なにもいらなかった。
なのに、まだ生きているという事実が苦しかった。
そして、明日もそうだということが苦だった。

上野の、ここ無名庵に手紙やコンタクトを取る人は希だが、
それでも数人いる。
それらの人と十には、根本的な絶対的な違いがある。
十は、あまり自分を意識したり、とりたてて過去を思い出すことをしないと思うが、
何がK氏を含めた他の人達と決定的に違うかと言えば、
真剣さの「背景をなす」苦の問題である。
しかし、それは複雑な苦ではなく、実に単純なただ一点だった。

邪魔な認識者を『捨てたい』とあなたは僕に言った。

他の人は全員『<欲しい>』と言う。
安心、悟り、落ち着き、が『<欲しい>』というのだ。
言わなくても、それを動機に座禅している。

「欲しい」・・これでは禅の決定的なキーワードである『捨てる』という
方便が使えない。

『いらない』『嫌だ』『苦だ』、『捨てたい』・・・
この時、やっとEOというキャラクターが起動出来る。

捨てたい、と言っている人間に対しては、私は『待ってました』とすぐ言える。

本に、こんなことを書いたっけ。

『ここへ何をしにきましたか?』
「はい、死に場所を求めて」
『よっしゃ、さぁー、座れ』

あるいは、、、
『慧可は、何も<欲しい>なんて言わなかった。
不安でたまらないのをなんとかしてくれ』と悲鳴をあげたからこそ二祖になった。

・・・・・・・・・・・
『捨てたくなる時期の到来、限界点・・』
それが、ここんところ十の言葉を借りて『時節がある』と僕が言うことの本質だ。

『捨てたいなら』死人禅の、闇も留意も論理的公案も、
そして僕自体の存在が刺激になるかもしれない。

しかし、『何かが欲しいなら』、来訪者は場所を間違えたということである。

***********

うん、うまく、まとまってしまったなぁ。

『欲しいなら他へ行ってくれ、
捨てたいなら、座ってみよう。死人禅やってみよう。』ということだ。

これがうちの山門の文字だな。

・・・・・・・・・・・

オッと、言い忘れた。

前後破壊という言葉に、いちゃもんをつけるのを忘れた。

前後破壊は、おそらく基本的に方丈のやり口だろう。
ところが、じゃー、前後破壊したら、『今』に重心が移る。今が<守る場所>になる。

ここで、雪渓老師がさらに破壊してくれる。
それは原始仏教の中の釈迦の次の言葉と同じだ。

『過去でもなく、未来でもなく、<今でもない>』

今もない。
「今」なんていう認識があったら、距離がある。

じゃー、何に重心があるのか?。

何が、ここで今、生きているものなのか。

座禅で身ぐるみ剥がされた自分は何なのだ?。

実のところ、それは、わからない。

そして、わからなくていい。

だって、

なぜ捨てたくて、捨てた私が、
いまさら、そんな理解を持たなくてはならないのだ。

手ぶらで馬鹿で、禅からも相手にされないこのEOというのが、
単に私がそうでしかあり得ない、生き物そのままであり、
生きているというのさえ、そもそも不確かなものだ。

なのに、なぜ、ときおり、あんなふうに友に手紙を出しては、
方便やら、「ひっきょう何が鍵なんだろ」とか、
そんなことを私は分からねばならないのだろう?。

本当の方便、
本当の鍵、
本当の真剣さ、
そう、
本当の真剣さは『言われたから真剣でなくちゃ』なんていう意志では長く続かない。

真剣さそのものを嫌でも持続させるものがある。

それが本人の<苦>だ。

仏教は苦から生まれる。
禅は捨てることを説く。
TAOは忘却を説く。
EOは、、、、・・・・


1995 6/6 EOより十へ

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  ******************

頭頂留意と只管打坐

十へ

頭頂留意と只管打坐には密接な関係がある。

結局「最後は只管打坐だ」、という言い方は、もう禅で言われ尽くしたから、
いまさら私が言う必要もないと思う。

要点は、只管打坐というものが、頭頂留意で加速(いや加速というのは変だ・・・
実際には停止の促進)をすることについて。

で、その只管打坐を起こさせる根本原因が、
やはり、サハスラーラチャクラにある。

ならば、『只管打坐』とは、言葉の最も厳密な意味において、何か?。

それは『心理的にも、肉体的にも、何もしないことに徹する』ということである。
身体的には誰でもじっとしていられよう。
ところが、心理面はグチャングチャンになる。
多少、心境が進んだと称する人達も、そうふっきれたものではない。

もう一度言うと、鍵は『心の無為』にある。
しかし、心の無為とは、「無心ではない」ことに注意だ。
無心というのは禅には必要ない。言葉の微妙な問題だが、
雪渓老師も「雑念に、なりつぶれていなさい」というように、無心は必要ない。
心の動きに対する2次的な思考をさけるためには、無心ではなく、
雑念を流れさせたまま、意識したままで、
それらに対する「無為」のようなものが必要になる。

さて、こういうことは、禅の世界はどうだか知らないが、
繰り返しバグワンやクリシュナムルティーや、その他チベット仏教でも言われ続けたが、
この思考観察というもの、「思考をそのままにするんだ、流れさせたままにするんだ」、
という事に完全にノイローゼになってしまった人が大半だった。
かく言う私も、高校生の時から社会に出てしばらくまで、そうであった。
たまに、授業中に50分も、この工夫を精密にやっていて、
それを午前中の授業全部にやったもんだから、午後にはヘトヘトになっていた。
脳が、まるで硬直したような緊張だった。
一句一句の教師の言葉に、自分がどういう思考や印象を引き起こすかを、
ほとんど1秒単位で観察し続けた。
いうまでもなく、こんなことは半日と続かないものだ。
しかし、最初の神秘体験がその日の午後に起きた。

よく覚えていないのだが、そんなことをしてて、体調を崩したのか、
急に授業がなくなったのか、あるいは土曜日だったのか、忘れたが、
確か、その日は、いつもより早めに帰宅についた。当時は墓地の中を10分歩いて通学していた。
その時、春で桜が満開だった。
桜が満開で、細い参道が桜のトンネルになっていてね・・・、
思わず、何かがカチッと動いた。
単に、桜が奇麗だとか、そういうのでない、もっと別のもの。
ありのままとか、覚醒とか、そういうのでもない。
変なものが目に見えるわけじゃないんだけど、、、、
その景色全体に、いつもと違う何かの『不思議な要素』が加わっている。
特別に肉眼で何かが見えるのではないが、気配全体、世界そのものが違うというか。
それも、特定の一部ではなく、目にする全部がである。
決定的に、非日常的な『何か』が起きていた。

そして、そのピークは4時間ほど続いたが、
何が起きていたか、家についてから、落ち着いてから、次第に理解した。

『時間がまったくない』。時間なんて存在しなかったようだった。
明日なんてものもない。もしも時間とは何かと誰かにその時に私が質問されたら、
生まれた時から、そんなものを知らない者のように、答えられなかったと思う。
そして、さらに、どうしてそうなのか、というのが入り込むスキがなく、
その無時間の感覚がその日の夜まで、かなり続いた。
当時、そういう極端な修行とか、ヨガとかやっていたので、
このような、工夫が神経的に限界にきて、ふと、脱力した時に、
たまに、変な体験があった。そして、いつもそれは、極端な工夫をしていた時だった。

だから、私は、そういう工夫をやめた。
『こんな、たったちょっとの一瞥の為に、あんなに何時間も気を張っているんじゃ、
神経がボロボロになって、たまんない。ひどい一生になってしまう』と思った。
しかし、そう思いながら、それから何年も似たような事をやりつづけた。
強引な、覚醒ワークというやつだ。そのせいで、慢性的なノイローゼだった。
どこにいても、生命の実感があるとき、物が明確に見える時と虚無感が交互にやってきた。
しかし多くの場合、目覚めているのは10%。90%は「つらい工夫」だけだった。

さらに、自分が一体、本当に一日の中で『存在している』といえる状態は
どれぐらいだろう。本当に気絶していなかったのはどれくらいだろう、と
毎日振り返ってみると、、実は、一日に人間はたった延べにしても3分程度しか
完全に意識的ではない、という結論になった。
歩いていても、しょっちゅう気絶して、人間は全員、毎日白昼夢の中に生きているんだ
と確信した。つまり、完全な意識化というワークにかなり、私は、のめり込んだ。
そして、それが、そんなふうに意志を酷使する工夫では不可能だと分かった。
しかし、当時は、他の方法なんてなかったし、知らなかったし、どこのグルも
「もっと、しっかり、目覚めていなさい」という『もっと修行しろ』のノリだった。
今にして思えば、まったく着眼が180度ずれている。
実は、見ようとなど、まったくしない無為が必要だったのに。

さて、極端なことをやった後に、期せずして訪れる静寂がある。
只管打坐がもしも出来ない、起きないという場合、
私の見た限り、原因はたったひとつしかない。

座中に本人は『他にやることがある』のだ。
だから、只になんかなるわけない。
何かすることがある。あるいは何かしなければいけないという強迫観念。
これ故に、心理的停止と思考への無頓着が起きない。
『あと10秒で十が死ぬという時』、修行の根底そのものの意味がなくなってしまう。
私の公案とは、常に、本人から、やることをなくしてしまう事に着眼がある。
その、やることの中には「理解という行為」もむろん含まれる。

本当に、もう、何もやることがなくなればいいのだ。尽き果てるということ。
無理な工夫の場合は、やることがなくなるのではなく、
やりたくても、もう出来ないまで疲れてしまうのだ。
そして空白。しかし、またすぐに雑念だ。

どうしてこうなってしまうか、というと、
身心脱落というのは、確かに闇の瞑想に酷似しているし、同一かもしれない。
ゼロを重心として扱うという点で結果も同じだろう。
しかし、そこから『戻った』ときに、普通は肉体や頭(眉間)に戻ってしまう。
2進法的な次元の領域にスライドして戻ってしまう。
つまり1の部分が少ないのだ。

普通の只管打坐は0と2を往復してしまう可能性がある。
脱落したり、分別したりの繰り返しを何年もやってしまう。
そして、この1の部分に頭頂留意が抜群の効果を発揮した。

闇の脱落から戻った時に、着陸点が普通は、次第に2の分別世界に戻るのだが、
手前に1がそこに着地点の駅としてあるので、実習者は呆然と、1に停止してしまう。
ここは、もう脱落ではない。
それは純粋存在性のようなものだ。『ただ在る』ということ。
何を見るか、やるか、どうやるかの問題じゃないし、そういうものが、
自然に入り込めない。そして、その結果、あるいは同時とも言えるが、
そこに『只』がある。

禅はゼロを知っている。そしてそこから、2の修羅場に戻る一瞬の間合いにだけ
1を通過している。そこで小悟なんていうものが起きる。それは一瞬だ。
そして、残念ながら、すぐに記憶に回収されてしまう。

この1の部分は、
無=0 と 活動=2 の中間領域としてクローズアップする。
坐中と動中の工夫の中間地点みたいなものだ。

したがって、脱落はしても、見性しないという僧侶をちょっと見たことあるが、
確か、臨済の人だったが、完全に坐禅中毒をしていた。
「ほっといてくれ、私は坐禅しているのが一番好きなんだ。」とむきになっていた。
完全に、坐禅と生活が区別されてしまっていた。

さて、この頭頂留意によって形成される1の部分は
ちょうど、僕らが朝、目が覚めても、まだ完全に起きていないような中間領域だ。
眠りの場合は、肉体がまだ起きない、という点で、眠気のだるさがある。
留意の場合は、『思考』が目をさまさないまま放置される。
身体的には眠気もだるさもない。頭だけ、思考だけが、空白になっている。

なぜ、脱落の坐禅をいくらしても、時間と共に分別心が戻ってしまうのか。
なぜ、いくら精密な工夫をしても、決定的に恒久的なものがないのか。
その答えは、
この無と有の間に『宙づりにされる領域』である頭頂または頭上点の体系が禅になかったためである。
ただし、古来から、
半眼の効果や姿勢の作り方のはずみで、自然に留意という事も起きていたようだが。

ところが、先天的性質なのか、坐禅で静まると、意識が意図せずに頭頂に集まることがある人がいる。
雪渓老師の目を見るかぎり、私には、それが匂う。
必ず、彼らはどこかキレてしまっている目付きがある。
そして、分別が切れてしまっていると、嫌でも定位置が頭頂へ上昇する。
そして思考量のモニターになる視線が、あまり動かなくなる。

おもしろいもので、公案も、実はこれなのだ。
追い詰められて、思考の平面が八方ふさがると、生理的変化としても
頭頂に『気』が上がってしまう場合がよくある。
死人禅の2つの公案、
『存在感と存在感の間、なんぞや』、と
『0.1秒で悟れ』、も同じことだ。

絶対に出来ないことを、しかも『今やれ』と押し付けること。
絶対に、判断したり回答できないことを押し付けることで、
無心になってしまう。しかし無心だけでは、一瞬のことだ。
そこで何かが飛躍するわけじゃない。ただ、師家に『まいった』、でおしまいだ。

しかし公案の瞬間に悟ったという昔の逸話のほとんどは、
実は意識が、問いで追い詰められて、『垂直しか』いけなくて、上がってしまって、
そのまま、しばらく上がってしまったままになってしまって、はっと了解した・・
ということだろう。

そして、そのまま、しばらく『上がったままになってしまった』という
この一番おいしい部分を、頭頂留意の技法は拝借してしまったわけだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

唐突ですが、言葉が消えたので、今日はここまで。
            1995 6/8 EO

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