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EOからの手紙12・坐禅はこうしてはならないのだ! {大悟の瞬間}

その時、彼は全く何もしていなかった。
そして、その日以来、何もしていない。
その時、やるような何かは、そこにはなかった。
そうではなく、おそらく、生まれて始めて、
彼は全く何もしていなかっただけであろう。
それほどまでに、何もしていないという瞬間は、
それまで、ただの一度もなかったと言えよう。

その瞬間、何もしていなかった。が、、
何かが『起きていた』。
まったく、彼からは何もしていないのに、それは起き続けた。
それは決して「出来ない」ことだったのだ。
それは、ただ『起きる』ことがあるのみであり、
人がそこへ向かって行くことの絶対に出来ないものだった。
それは、向かうという事をやめたときにだけ起きることだった。

だから、大悟のきっかけ、その瞬間、その後、
そこに、もしも決定的な、普遍的な要因があるとしたら、
それは、何もしていないということだ。
しかし、何もしないように、「努めて」無為であることは、
それそのものの中に既に期待がある。既に動機がある。
だから、そのような待機をもってしての無為では駄目だ。

座禅とは、何もしないことだ。
どんな事もしてはならない。
何ひとつ、どんな事もしてはならない。
座禅とは、心の中でも、
意識的な目覚めだのという、そんな操作も何もしないこと『そのもの』なのだから。

さて、彼はその時、理解した。
これでは、・・・
これでは・・・・
もしも、これが悟りだとしたら・・・
これでは、、
修行者がその一生を座禅に費やしても、
絶対に大悟は起きないのではないか。・・と。

全世界中の修行そのものが、そもそも全部間違っている。
禅ですら、間違っている。なにもかも、全部的を外すことは確実だ。
それらは絶対に、確実に失敗する。そして
失敗し続けたまま、あと5000年しても何も変わらない。
世界中に禅寺が、コンビニのように並んでも、それでも駄目だ。

大悟のためには、絶対に、何かをしてはならないのだ。
そう言うと、世俗も、導師も、よく彼にこう言う
「それでは、修行の意味もなく、改革の意味もなく、進歩もなにもなく、
一向に、迷いのままではありませんか?」

EOは言った
『あんたが、そんな事さえ言わなければ・・・・それはとっくに起きていたのだ。』

確かに世俗は無意識だ。座禅もしない。そして争っている。
しかし、本当の事を見れば、彼らは「何もしていないわけではない」。
彼らは争うことをしており、比較したり、軽蔑したり、儲けたり、騙したり、
「そういう修行をしている」とも言える。
一方修行者は、単に別の修行をしているに過ぎない。
只そのままだの、只の呼吸、ただ歩く、ただ生きる。
「これ」は理屈の余地のない、ただ「これだ」などと。
それはまだ、何かをやらかそうとしているではないか。
だから、世俗は世俗の修行をしており、
修行者は寺の修行をしているにすぎない。
だが、・・・
覚えておくがいい。全世界中の導師もその弟子も
EOという青年の最後の一言を覚えておくがいい。
『徹底的に、何もするな。大悟はその何もしないことそのものの中にしかない。』

必要な修行など何もない。
だから、世俗は世俗での生き方という修行をやめ、
修行者は、禅やら仏教やらの修行をやめればいい。

何かをやる中には、いつも、自己中心的な野心がある。自己中心でなくても人間中心、地球中心の勝手な価値観がある。
何かを「やる」ときには、何かを「やり遂げよう」とする。
つかもうとする野心がある。
無心さえも目指そうとする。
知ろうとし、把握しようとし、そして悟りの副産物の感覚なんぞを下手に一瞥すると
それをまた維持して持続させようとする。
大悟とは、そんな「あなたや人類の勝手に利用されるようなものではない」のだ。

徹底的に、なにもしないで、座るか寝ろ。
ただ座るという目標すらも駄目だ。
ただ座るという目標は、ただ座ることと、そうでなく混乱したまま座ることの比較を
あなたの中に生み出してしまう。
その結果、あなたはこれではいけない、あの時は良かったなどと比較を開始してしまう。
徹底的に何もしない。意識でもなにもしない。注意もしない。ありのままでいようともしないことだ。なんにも、絶対にしないことだ。動かずに、そこで死ぬ。
びくとも心や意識や注意を『自分からは』動かさないことだ。

「はたして、これは自分の意識の動きなのか、自然の意識の動きなのか?」などと迷ったりしてはならない。もしも迷ったら、そのまま迷わせておけ。そのうち消えるから。
なんであれ、あなたがジタバタするのが、もっとも始末が悪い。
あなたが、もしも何かでジタバタするとしたら、それは次の事を意味する。
「そのときは、あなたは、必ず何かを理想的な目標にしている」はずだ。
その理想とするあなたと、現状のあなたに距離があるから、あなたはなんとか「しよう」としてしまう。そういう修行にはキリがない。ただの徒労だ。

「しよう」とするあなたを殺してしまうのが、私のやりかただ。
一切の作為的な座禅も、駄目だ。どんな方便も無駄だ。

何もしてはならない。座るときは、座禅すら駄目だ。
これから何かを自分がやるんだ、という構えを
ほんの少しでも持ったら座ってはならない
ただ、『ひと休み』するんだ、という気軽な気持ちで座りなさい。
けっして姿勢をシャンとしてはならない。
では、、ためしに、姿勢をシャンとしてごらん。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
では、それをやめて、中止して、ゆるんでごらんなさい。
そら!!。そのゆるんだ姿勢、
それこそ本当に必要な座法だ。
それが無為自然の座法だ。
あなたが、なにか「やらかそう」という心が抜けた、
そのだらしない座り方こそ、私があなたに必要だと言うものだ。

なぜならば、その『ゆるみ』の中には、
「何かの為に座ってやろう」というあなたがいないからだ。
それは、ただの『緩み』だ。
そして、本当に必要なのは、
深く、深く、どこまでも、馬鹿で無知で無明になることだ。
なにも悟らないまま、何もしないで、なにも分からず、つかまず、
まったく、ゆるんで、死んだように、くつろぐことだ。

その為には、何事かの成果をつかもうとする一切の微妙な緊張が障害になる。
禅寺が大悟者を生み出さずにほとんど形式化して全滅したのは、このせいである。
『ただ』が目標になってしまったからだ。
万事、万象、すべてが本来より平常で『ただひたすら』というのは、
それは大悟意識の「結果の現れ」にすぎない

だが、その根本原因は、あくまでも無為だ。無そのものだ。
全面的な無為だ。無明、無知だ。すなわちこれは死と同義だ。

なぜならば、そこにはもう努力をしたり瞑想の工夫をする者は
無意味になり、修行も無意味になり、修行者たちは、その人生の目標もご破算だ。

だから、私はあなたたちを殺すといったのだ。
あなたの肉体など、指一本触れる必要もなく、あなたは私に殺される。
あなたの肉体は無傷だ。だが、私は断言し続ける。
禅寺のすべての導師に反目しても、断言し続ける。

一切の修行、座禅すら、それすらもが障害だ。
この私の言葉を受け取るか、それとも寺や伝統にしがみつくかは、あなたの勝手だ。
しかし、あなたの修行やら、
あなたや人類の目標やら、達成理想やら、悟りだの、なんだのと、
そんなものが一掃されなかったら、
なんで大悟など起きるというのだ??。

もしも悟りの中で『ああ、これだ』と言ったとしたら、
もう、その時点で、悟りではないのだ。
認識する側とされる側に分離がないのが悟りであり、
そこには悟りだのという認識は起きない。
いわんや、悟りが大事なテーマで、悟りが特別な意識だなどという心は一切ない。
だから、
もしも座禅者たちが、今後、もしも座るならば、
それは本当に深く、求めずに、ただ『休む』ことだと心得なさい。
座禅が楽で、座ることが、ニコニコするほど楽しいぐらいにならねば駄目だ。
それは、楽であるべきであり、そこには、なんらの会得も必要ない。
何かを会得などしないことだ。
なぜならば、
あなたの苦しみは、なにもかも、いつでも、
あなたが何かを「分かった瞬間」から始まるからだ。
あなたが分かったとき、知ったとき、把握したとき、
「これだ」と手に入れたと思ったときから、あなたは抜けられない不幸の中に突入する。

分かるあなたがいるということは、
かならず、分からないあなたというものを生み出してしまう。
だから、なにも分からないままでよい。
一切、分からないでいい。
わかろうが、わかるまいが、あなたは、ただそこに『いる』のだから。
それで充分だ。
座禅とは、そのあなたの『いること』で充分だ。
余計なことをつけ足してはならない。
呼吸への注意も駄目、今の瞬間を離さないという気迫も注意も駄目だ。

そういうことをやるな、と私に言われれば、
あなたの中に起きることは、こういうことだ。
「これじゃ、意味がない。ただのボケだ」

では、そのただの無垢なボケにいられないのは、なぜなのかね??。
すべて、それはあなたが、目的達成欲で落ち着かないせいだ。
何もせず、工夫もなしに楽に座ることにあなたが退屈するとしたら、
あなたは、ちっとも『意識が座っていない』ということだ。

悟りとは、
あなたがしがみつくものでも、
あなたが、達成する境地でもなく、
あなたが日々座禅して練るものでもない。
そんなものは、全部、あなたが『やらかす』ことばかりだ。
悟りの最大の美しさは、
『自然になってゆくこと。なってしまうこと。』だ。
それは、存在や無からの、あなたへの贈り物だ。
それは、あなたの創作物じゃない。
あなたの注意の努力の結晶じゃない。
あなたが、何も求めず、何もしようとせず、
一切の、禅の目標も、そして世俗の目標も、一切を無視して、
無為の中に、落ち着くことだ。
それは心理的な次元に限れば、実質的には、あなたの全面的な死だ。
さんざん、あなたたちは、どこぞかの禅寺や瞑想センターで、またどこかの寺院で、
さんざん、あなたは修行課題を与えられ、その成果や、その目的を説教された。

そういうあなたが私に出会うと、私は
『それこそが、その全部が、あなたの大悟を妨げている』と言う。

「それでは世俗に落ちてしまう」と、多くの者が私に言う。
私は限りなく、毎度、何度も言ってきたはずだ。
「世俗とは、充分に、すでに、達成欲の固まりだ。
僧侶は、これまた、達成欲の塊だ。
だから、本当の悟りは、
世間にも、寺にもない。どっちも駄目だ。」

『いっそう、世俗よりも落ちなさい』とEOは言う。
世俗以下になりなさい。
私の住む場所は、近所に浮浪者や乞食が多くいる。
私は、彼らが好きだ。無欲だからだ。乞食ぶりっこの雲水などがボケっと突っ立っているそばを本物の乞食が通り過ぎる。私の目には僧侶なぞ馬鹿みたいに見える。
そして、私は盲人も好きだ。どんな座禅者よりも彼らは静かだ。
私は、とにかく、『最低の人達』が好きだ。
なぜならば、最低の底辺には、仏性以外に、行き場がないからだ。
最低の直前は最低の苦悩、最低の苦労、最低の人生だろう。しかし、ただの最低に至るとき、突然にそれは、最高の幸福に包まれる。そこにはどんな緊張も努力も目標もない。
目に映る、あらゆる生命が、光明そのものに包まれる。
だから、達成する心の落ちた人達だけが、
本当に、なんの努力もなく、
今の瞬間を我家としている。
それ以外の者は、僧侶も師家も、全員、今にしがみつこうとする、貪欲な
ただの俗だ。
多くの場合は、俗よりも始末が悪いと言える。
なぜならば、俗を越えようとする、ごたいそうな仏法やらを
「これのみだ」とばかりに、振りかざしているからだ。
そんな彼らの寺に救いを求めて入門したが、
決定的な何かが欠落したまま、数年を放浪し、
そういう人達が、ときおり、私と出会う。

生粋の本物の禅寺でも駄目な人達が、私の庵を訪れる。
EOは言う
『やりすぎさ。なにもかも、やりすぎている。だから、やらないことを覚えなさい』
一見すると、彼は、まるで怠けよ、とばかりに言っている。
だが、、、修行者たちよ、、
本当に、一生懸命に怠け続けるということは、それそのものが、
あなたの自尊心を殺すのだと覚えておくことだ。
怠けないで努力をするあなたなら、そこには、「ご立派な」あなたがいる。
そんな、ご立派なあんたがいるから、大悟が起きないのだよ。
大悟は起こすものではない。
それは、全く期せずして起きるだけだ。
だから、そのためには、
全く期せずして、の心境をあなたが用意するだけでいい。
絶対に待ち構えないこと

しかし、そんな方法があるのだろうか?。
なぜならば、我々は世間でも達成したり、希望を持つことを教え込まれた。
さらには寺でさえも、「つかめ」「わかったか」と、どやされてきた。
だが、それを全部落とさなかったら、無欲の真空の停止点は実現されない。
禅の坊主の中には、まず求めることがなければ駄目だ。無欲は後で自然になる。などとのたまう者が大半だ。そんなことは失敗し続ける。かならず失敗する。
だから、心底、何も待ち望まない静寂の中に座って
ただ、楽に座り、待たず、期待せず、楽に緩んで、くつろぐことが出来るのは、
たったひとつの場合だけだ。
それは、ほとんどあなたが、死んでいるようなことだ。
恐怖や痛みや危険や病の中での死ではなく、
静寂と無為の中でのあなたの死んだような、楽な座禅が必要だ。
このまったく無意味な座禅こそが、
まったく無意味な悟りを可能にする。
もしも、悟りに意味や意義があったらば、
かならずそれは、また苦悩や混乱をあなたに生み、世界に生み出す。
まったく、なんでもないことが悟りの無垢な美しさだ。
そこには仏法などという汚らわしい言葉は不要だ。

まるで死体のように、座ること。だがそれは病的な死体ではない。
その中で、『やる』という事を根本的に落とすために
たったひとつだけ『やる』ことを私はあなたに指示している。
それが茶碗を脳天に乗せることだ。
その結果に構わずにとにかく、乗せることだ。
そして、その結果にかまわずに、とにかく、脳天に留意することだ。

本当に心身が座禅の中で死ねる場所はそこしかない。
それ以外のどんな肉体部分も、けっしてあなたを死んだように深くくつろがせることは出来ない。その最大の原因は、そこ以外の肉体は、目も耳も、眉間も、手足もすべて、なにもかも、生の次元、すなわち生きるために『落ち着かずに葛藤する』ように出来ているからだ。そのプログラムだけは変更不可能だ。遺伝子を操作しても不可能だ。
もしも、悟りというプログラムが遺伝学的に作り出せるものになり、それを操作して我々の肉体にフィードバックしたら、我々の細胞は全部死滅する。
インドのバグワンが言っていたが、大悟したが、あまりにもエネルギーが爆発的すぎて肉体や脳が死んだ者は数知れないと言う。つまり死んだり、生きていても白痴になる。
それは、とうぜんのことだ。というのも大悟の最大の要因は活動の『停止』なのだ。
それは、肉体に反映してはならないものだ。だから、EOの手法やインドのヨガでは、肉体の最外周の接点にその留意点を留めておく。それよりも下降させるとまず脳が破壊され、次々に、細胞が破壊される。だから、禅の坊主どもが、皆、けっこうな長生きをしているところを見ると、結局彼らの自我や禅そのものへのこだわりは、捨て切れず、一種の『死にぞこない』だと私には思えるね。そう、彼らは、半端な死にぞこないだ。

1993  12/4  EO





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