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狗子仏性

狗子仏性の話を深堀りする前準備として、祖録の確認と最近のブログ記事などの概観。

「狗子無仏性話」に関する考察 - 妙心寺
この論文がとても参考になった。

近年の研究では、狗子無仏性話から無の一字のみを抽出して工夫するという方法論の嚆矢が五祖法演であったと指摘され、それが大慧に受け継がれて看話禅として確立し、無門に到って広まったと定義されている。
「狗子無仏性話」に関する考察 - 妙心寺

「無字の公案」として見る時、最も重要なのは、五祖法演禅師。

五祖法演(一〇一七?~一一○四)
上堂挙す、「僧、趙州に問う、〈狗子に還た仏性有りや〉。州云く、〈無し〉。僧云く、〈一切衆生皆な仏性有り。 狗子什麼としてか却って無き〉。州云く、〈伊に業識性在る有るが為なり〉」と。師云く、「大衆、爾ら諸人、尋常作麼生か会す。老僧、尋常只だ無字を挙して便ち休するのみ。爾、若し這の一箇の字を透得せば、天下の人、爾を奈何ともせず。爾ら諸人、作麼生か透らん。還た透得徹底すること有りや。有らば則ち出で来たって道い看よ。我も也た爾が有りと道うを要せず。也た爾が無しと道うも要せず。也た爾が不有不無と道うも要せず。爾、作麼生か道わん。珍重」と。(『五祖法演語録』巻下・「黄梅東山演和尚語録」)
五祖法演
師、室中常に挙す、「趙州、狗子に還た仏性有りや。州云く、無」と。僧、請問し、師、為に之に頌す。「趙州の露刃剣、寒霜の光焔焔たり。更に如何と問わんと擬すれば、身を分けて両段と作す」と。

原文は、

上堂擧。僧問趙州。狗子還有佛性也無。州云無。僧云。一切衆生皆有佛性。狗子爲什麼却無。州云。爲伊有業識在。師云。大衆爾諸人。尋常作麼生會。老僧尋常只擧無字便休。爾若透得這一箇字。天下人不柰爾何。爾諸人作麼生透。還有透得徹底麼。有則出來道看。我也不要爾道有。也不要爾道無。也不要爾道不有不無。爾作麼生道。珍重
法演禪師語録卷下
師室中。常擧趙州狗子還有佛性也無
州云無。僧請問。師爲頌之
趙州露刃劍。寒霜光焔焔。更擬問如何。分身 画像
作兩段
法演禪師語録卷下

そもそも、話の発端になったのは、趙州禅師。

趙州従諗(七七八 ~八九七)
問う、「狗子に還た仏性有りや」。師云く、「無し」。学云く、「上は諸仏に至り下は螘子に至るまで、皆な仏性有り。狗子に什麼としてか無き」。師云く、「伊に業識性在る有るが為なり」。
『趙州録』

趙州に狗子仏性を問うた僧の前に興善惟寛に問うた僧がいたのかも知れない。興善惟寛は、趙州の叔父に当たる人。

興善惟寛(七五五~八一七)
問う、「狗子に還た仏性有りや否や」。師云く、「有り」。僧云く、「和尚、還た有りや否や」。師云く、「我は無し」。 僧云く、一切衆生は皆な仏性有り。和尚は何に因ってか独り無き」。師云く、「我は一切衆生に非ず」。僧云く、「既に衆生に非ざれば、是れ仏なりや否や」。師云く、「是れ仏にあらず」。僧云く、「究竟是れ何物ぞ」。師云く、「亦た是れ物にもあらず」。僧云く、「見る可く、思う可きや否や」。師云く、「之を思うも及ばず、之を議するも得ず。故に不可思議と云う」。
(『景徳伝灯録』巻七)
「問、狗子還有仏性否。師云、有。僧云、和尚還有否。師云、我無。僧云、一切衆生皆有仏性。和尚因何独無。師云、我非一切衆生。僧云、 既非衆生、是仏否。師云、不是仏。僧云、究竟是何物。師云、亦不是物。僧云、可見可思否。師云、思之不及、議之不得。故云不可思議」。

驚いたのは、この黄檗禅師。
黄檗遷化の時、趙州72歳。ほぼ同時代を生きた2人であり、黄檗禅師の方が年上の可能性が高いように思います。

黄檗希運(生年不詳 - 大中4年(850年))
若是箇丈夫漢。看箇公案。僧問趙州。狗子還有佛性也無。州云無。但去二六時中看箇無字。晝參夜參行住坐臥。著衣吃飯處。阿屎放尿處。心心相顧。猛著精彩。守箇無字。日久月深打成一片。忽然心花頓發。悟佛祖之機。便不被天下老和尚舌頭瞞。便會開大口。達摩西來無風起浪。世尊拈花一場敗缺。到這裏説甚麼閻羅老子千聖尚不柰爾何。不信道。直有遮般奇特。爲甚如此。事怕有心人頌曰。塵勞迴脱事非常。緊把繩頭做一場。不是一翻寒徹骨。爭得梅花撲鼻香
黄檗斷際禪師宛陵録 ( 裴休)

これは、『宛陵録』の巻末の附録に付け足されたもの。明蔵本にのみ収録されているらしい。後代の偽作であることは確実。
しかし、余りにも高度に洗練され、完成されている。
そして、『禅関策進』の巻頭に掲載されている。
これは、おそらくは、大慧に嗣いだ道謙禅師の示衆ではないか、と推測する。
道謙禅師の語録というものが見当たらないのだが、
一絲文守禅師(いっし ぶんしゅ、慶長13年(1608年)- 正保3年3月19日(1646年5月4日))は、次のように道謙禅師の語を引用されている。

示衆。開善謙禪師曰。時光易過。且緊緊做工夫。別無工夫。但放下便是。只將心識上所有底一時放下。此是眞正徑截工夫。若別有工夫。盡是癡狂外邊走。山僧尋常道。行住坐臥決定不是。見聞覺知決定不是。思量分別決定不是。語言問答決定不是試絶却此四箇路頭看。若不絶決定不悟。此四箇路頭若絶。僧問趙州。狗子還有佛性也無。趙州云。無。如何是佛。雲門道。乾屎橛。管取呵呵大笑。兄弟若欲得徑捷悟去。只依開善指示自辨肯心。別無他術。若一毫許拌捨此四個路頭不得。非但決定不悟。抑亦決定發癡狂。汝等他時莫道不言。記取記取
『佛頂國師語録』

この道謙禅師の語については、欓隠老師が綿密な注解をされている。

道謙禅師、また或る時曰く、
「時光過ぎ易し、且(まさ)に緊緊に工夫を做(な)せ、別に工夫なし」 。
(時光易過且緊緊做工夫別無工夫)。
〈工夫なきを真の工夫と云う。無いと云うものがあると邪魔になる。ここまで体達するは容易でない。兎に角、まる呑みで虻も蜂もとれぬ者許りじゃ
実参実究の外はない〉
「但(ただ)放下すれば便ち是、只心識上の所有底を将(も)って一時に放下せよ」(但放下便是只将心識上所有底一時放下)。
〈放下をも放下せよ、大難々々〉
「此は是れ真正(しんしょう)勁截(けいせつ)の工夫、若(も)し別に工夫有らば、尽(ことごと)く是れ痴狂の外辺に走るなり」 。
(此是真正勁截工夫若別有工夫尽是痴狂外辺走)。
〈満身をそのものにぶち込むのじゃから、外に向って求めようがない。最早や放下するものもない〉
「山僧尋常に道(い)う、行住坐臥決定(けつじょう)して不是」 。
(山僧尋常道行住坐臥決定不是)。
〈この返り点に注意せよ、往々間違がある〉
(見聞覚知決定不是
「見聞覚知決定して不是。思量分別決定して不是。語言問答決定して不是。試みに此の四箇の路頭を絶却して看よ」 。
(思量分別決定不是語言問答決定不是試絶却此四箇路頭看)。
〈此の返り点、古来大いにあやまっておる事に注意せよ〉
「若し絶せずんば決定して不悟。 此の四箇の路頭、 若し絶すれば」
(若不絶決定不悟此四箇路頭若絶)。
〈是れから大事じゃ。参究の要点じゃ〉
「僧、 趙州に問う狗子に還って仏性有りや也(また)無(いな)や、 趙州曰く、 無」 。
(僧問趙州狗子還有仏性也無趙州曰無)。
〈無でもよいが、無に限った事はない。千七百則どれでもよい事を知らねばならぬ〉
「如何が是れ仏。雲門道(い)う、乾屎橛(かんしけつ)。管取して呵々大笑せん」 。
(如何是仏雲門道乾屎橛管取呵々大笑)。
〈中々この笑いが出ぬじゃ。感情では透れぬぞ。後で存するが若(ごと)く亡するが若くで夢の様になる。転た悟れば転た捨てよじゃ〉
或人は此の訓点を下の如くつけている。
「行住坐臥決定(けつじょう)して是れ見聞覚知にあらず。決定して是れ思量分別にあらず。決定して語言問答にあらず。決定して是れ試絶にあらず。この四箇の路頭を却けて看よ」と。
行住坐臥は不是でないと思うておる。夢中の有無は悉く夢なる事を知らぬ。夢中に行住坐臥しておる事を知らぬぞ憂き。
此処を龐(ほう)居士が死ぬる時に、
「但だ願わくば諸の所有(う)を空ぜよ、慎んで諸の所無を実とする勿れ、好住の世間皆影響の如し《影の如く響きの如し》」 。
(但願空諸所有慎勿実諸所無好住世間皆如影響)。
と云うたはここじゃ。
或点の如くせば是れ丈け余る事になる。万劫勦絶大笑の機あるべからず。白文の訓点には大いに注意せねばならぬぞ。
此の謙禅師も悟らぬ前には随分泣いた事がある。彼を悟らしめたのは竹原庵主宗元の忠告じゃ。大慧に嗣いだが、我を成すものは友なる哉じゃ。
「謙(禅師)初め京師に之(ゆ)き圜悟に謁す、省発する所なし。後、妙喜に随い于泉南に庵す。喜、 径山を領す。謙もまた侍して行く。未だ幾(いくばく)ならずして、喜、長沙に往(ゆ)きて紫巌居士に張魏公の書を通ぜしむ。謙、自ら惟(おも)いて曰く、我参禅二十年、迥(けい)として入処なし、更に此の行を作せば、決定して荒廃す。行くこと無からんと意欲す」
(謙初之京師謁圜悟無所省発、後随妙喜庵于泉南、喜領径山、謙亦侍行、未幾、喜令往長沙通紫巌居士張魏公書、謙自惟曰、我参禅二十年、迥無入処、更作此行、決定荒廃、意欲無行)。
〈光陰矢の如し、誰も同感じゃ〉
「友人竹原庵主宗元なる者、 乃ち責めて曰く、 不可なり。 路に在って参禅し得ざらんや。吾、汝と倶に往かん」 。
(友人竹原庵主宗元者乃責曰不可在路参禅不得吾与汝倶往)
〈我を成すものは友なる哉〉。
「謙、已(や)むを得ず往く。路に在って泣いて元に謂(い)いて曰く、我
一生参禅、殊(こと)に得力の処なし。今又途路に奔走す、如何んが相応し去ることを得んや」 。
(謙不得已而往在路泣謂元曰我一生参禅殊無得力処今又途路奔走如何得相応去)。
〈苦心惨憺肺腑より出ず、此の志ありて事始めて成る〉
「元、これに告げて曰く、但諸方参得底、悟得底」 。
(元告之曰但将諸方参得底悟得底)。
〈悟と云う迷いじゃ。皆一時の感情じゃ。古人の例を引合いに出して之なるらんと擬量して、既に蹉過して魔道に陥ちて居るを知らぬ。法をやすく見るばちじゃ〉
「圜悟妙喜、汝がために説得する底を将(も)って、すべて理会することを要せざれ。途中替わるべき底の事、我尽く儞に替り得ん。只だ五件の事あり。儞に替り得ず、儞自家祇(ただ)当れ」 。
(圜悟妙喜与汝説得底都不要理会途中可替底事我尽替得儞只有五件事替儞不得儞自家祇当)。
〈痛処に針錐を下す〉
「謙曰く、甚(なん)の五件の事ぞ、願わくはその説を聞かん。元曰く、著衣喫飯、屙屎(あし)送尿、箇の死屍(しし)を拖(ひ)いて路上に行くと。謙、言下に於いて大悟す」 。
(謙曰甚五件事願聞其説元曰著衣喫飯屙屎送尿拖箇死屍路上行謙於言下大悟)。
〈代る物は代られたから妄想の起り様がない。 其は後天性の物じゃから代られる筈の物じゃ。五件は代られる妄想がそうて居らぬ。日々不用意の当体じゃ。反省せざるを得ない事になった。多年の苦心功を奏したのじゃ。誰もこう易く行くと思うな〉
「手の舞い足の蹈むを覚えず曰く、兄に非ずんば某甲如何んが此の田地を得んやと」(不覚手舞足蹈曰非兄某甲如何得此田地)。
〈多年の重担一時に脱却す〉
元乃ち曰く、汝這回(しゃかい)方(まさ)に紫巌の書を通ずべし。吾は当に回(か)えるべし」(元乃曰汝這回方可通紫巌書吾当回矣)。
〈もう安心したから一人で使に行けるだろう、俺は用がすんだから帰るぞと、誰かその切なるに泣かざらんや〉
謙禅師は入処が随分遅かったと見える。㘞地一下については㘞地一下を得たものでなければ知られぬ。一大秘密事がある。今、謙禅師が何故に遅かりしか、それについて時節因縁の至り得ざりし理由が㘞地一下を得た人にして始めて明瞭である。
之は云うべからざる事に属す、強いて云わぬのではないけれども、云うて解らぬから云わぬのじゃ。自発的に時を待つより外にない。故に明上座は密あるらん告げ給え、と云うだけ、まだ微細の流注があったのじゃ。六祖が密は
儞(なんじ)が辺にありと云うたので始めて真の㘞地一下が起ったのじゃ。謙は此の時、時節到来したのじゃ。寂然として照著すとはここじゃ。此の云われぬ所に禅の妙味があるのじゃ。是を冷暖自知と云うのじゃ。ここらで山上猶山有ることが解るだろう。

『禅交響楽』


以下、ブログ記事。

狗子仏性(趙州無字)ー禅的哲学
もう一つ公案に向かう場合には、禅には実存的な視点しかないないということをわきまえている必要があります。問題とされているのは、常にここと今しかなく、問われているのは自己についてであるということです。禅には己自究明以外の問題はないと考えるべきであります。したがって、ここで問われているのは、表面的には犬の仏性でありますが、本当に問われているのは自分の仏性についてであります。犬を外から眺めていてもなにも分かりません。自分がその犬になりきって公案に向かい合わなくてはならないのであります。

正にその通りだと思う。

禅語「趙州狗子」: 臨済・黄檗 禅の公式サイト - 臨黄ネット
禅の問題は常に自己の探究にある。従って、「狗子に還って仏性有りや也た無しや」という質問は、「犬のごとき煩悩だらけの無自覚な私ごとき人間にも仏性がござりますか、いかがですか」という切実な問題であらねばならぬ。
  州云く、無
趙州はそこで「無」と答えられた。この「無」が問題の時限爆弾である。千年後の今日なお、万人の前に横たわる手のつけようのない怪物である。

「犬のごとき」って何?
犬が「煩悩だらけ」だとでも?

法話 「無字」の公案― --平成19年3月--【曹洞宗 正木山西光寺】
ある料理の味を知らない他人にいくら説明してもその味を理解させることは不可能です。
それは本人が食べてみないことにはほんとうには分からないからです。
それと同じで「無」の「味」も体験してこそ分かるのです。

さすが、ポイントを押さえておられる。

無門関/第1則 - asahi net
繰り返しますが、私たちは本来不可分であるリアリティーを、言語によって境界線を引いているのです。そして、益々深化していくその両極端の一端にのみ、価値を見出そうとしているのです。

重要な視点。

「無字の公案」(月刊コラム【No.104】2012年2月)
禅は実参実究である。そこで、最後に小衲の拙い工夫体験の一端をご紹介することにする。
建長寺で湊素堂老師に初めて参禅した日のことである。参禅を済ませて出口で拜をすると、老師は実に穏やかで謙虚な声でこう言われた、「私もあなたと同じ道を歩んでこの禅門に入った者です。もう一度生まれてきても、もう一度雲水修行をやりたいと思っております」と。そのお言葉を聞いた途端、野球のバットで殴られたような衝撃を受けた。背水の陣で臨んだ転錫の身の小衲は、間断なく公案工夫をしようと試みた。

この老師は、現在の臨済宗の中で修行を極められた方。
無字の公案は、これ以上のことはないのだが、これが公案の限界か。

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