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ロボマインドへのファンレター

ロボマインド・田方篤志様

初めまして。浅田幽雪と申します。
曹洞宗の修行僧です。
動画を何本か拝見していて、『ドラえもんの心のつくり方・1』も拝読致しました。
動画を全部拝見しているわけではないのですが、今回、

232.【その手があったか!】精密機械のネジを外して心を分解する方法

を拝見して、これを念頭において、お便りしてみたくなりました。
何かご意見を申し上げたい、と思っているわけではなく、自分自身の考えを表現して、まとめてみたいと思ったのです。

仏教は、心の探究です。
釈尊以後、異常なほどの精緻さで心の構造を追究しているようです。
五蘊・十二処・十八界とか唯識とか。
残念ながら、私は学者ではないので、仏教教理については入門書程度のことしか知りません。
修行の上で教理は必要ないので、あまり教わることもありませんでしたし、学ぼうともしなかったのです。
(実際は、本を読んでもよく分からない、というか、ピンと来るものがないのです。)
私は坐禅の修行をしているのですが、師匠は、少林窟道場の井上希道です。
https://www.shorinkutu.com/
以下、私の考えていることであり、師匠の教えからは逸脱・離反しています。

仏教は心を探究しているわけですが、その目的は、苦の解脱です。
般若心経にある「度一切苦厄」が、釈尊出家の目的であり、結果です。
その目的達成のために釈尊は修行中に多くのことを試みられたようですが、最終的に菩提樹の下に坐ったわけです。
そして、「照見五蘊皆空」によって、「度一切苦厄」が達成されたのです。
したがって、「空」が仏教の核心です。

その「空」の理解・体得のために色々な方面からアプローチされているわけですが、
臨済宗は、公案修行による「見性」「悟り」によって、一気に体得しようとしているように理解しています。
曹洞宗では「只管打坐」を標榜しているのですが、何を修行しているのか、目的も結果も曖昧になっているのが現状だと思います。
坐禅を行じて、日日を心静かに過ごすことが「仏」だ、ということを「信仰」しているように見えます。
少林窟道場は、臨済宗と曹洞宗が混合していて、「悟り」を目的とした修行をしています。
実際の修行は、その目的達成のための具体的な方法論の集合なのですが、少林窟道場で強調されるのは、「只」です。
修行のベースになっているのは「只、一息をする」ということです。
それを全ての行動に敷衍させて、一切を「只する」のです。

その過程において、問題になるのが、「雑念」です。
坐禅するとすぐに分かることですが、頭の中には様々な想念が「勝手に」生じています。
「呼吸だけに成り切ろう」としても、何故か、様々な思い・考え等が生じるのです。
驚くべきことに、自分の頭の中は、自分のコントロール下に無いことが判明するわけです。
この事態を打開するために、呼吸に意識を集中させるというような努力をするわけですけど、
通常、そのような努力は簡単に打ち砕かれてしまいます。
それは、乗っている列車の壁を押して列車を止めようとするようなものだからです。

そこで、「本気」が必要になるのです。
大信根・大疑団・大憤志の大切さが説かれます。
やることは単純明快で、「只、一息に成り切る」というだけです。
少林窟道場では、「雑念に気付いたら、雑念を切って、呼吸に返る」という努力を継続させます。
すると、これも人間の頭の構造に由来するのだと思いますけど、雑念というものが出なくなるのです。
そうなると、時間・空間・因果関係というような「考え」から離脱してしまうので、
自分の中で、ある了解・得心に到達するのです。
それを少林窟道場では、「今に気づく」というような表現をしています。

ここからオカシな領域に入ってしまいます。
只やることを徹底して、成り切り切ったら、「悟り」が得られる、ということになっているのです。
「㘞地一下」「見性」「大悟」というものがあり、そこまで行かなければならない、という教えなのです。
そのために「菩提心」を鼓舞して修行を継続しなければならない、というわけです。
先人が、そのように教示しているので、疑いようがなかったのです。

禅と言えば、『碧巌録』『無門関』というような宋代中国禅のテキストが教本のようになっていて、
そこに書いてあることが「禅」だと誰も疑わないのだと思います。
日本の臨済宗は、宋代中国禅をそのまま移植・継承したものです。
道元禅師は、見性批判として宋代中国禅を批判している所もあるのですが、
おそらく3代目以降には道元禅師の真意が分からなくなって、臨済宗との交流の中で宋代中国禅に染まってしまっているのだと思います。
「見性成仏」というスローガンが掲げられ、「悟る」ことが目的とされてしまいます。

年初の動画でジル・ボルト・テイラー女史のお話がありました。
左脳の機能が止まった時の「体験」というものが、「悟った」と主張する人たちの言っていることとそっくりであることに驚きました。
おそらく坐禅とかの修行は左脳の働きを抑制するものであり、それを極限まで押し進めると、機能障害を起こして、左脳が故障した状態になるのではないか、と思われました。
それは臨死体験とも同様で、左脳機能不全に陥った時に脳内で展開される現象なのだと思われます。

そのように見ると、「見性」「悟り」というものは、非常にアヤシイものに思われます。
仏教は、そのようなものを求めることではないのではないか、と思うのです。
そもそも釈尊は、「苦」を解決することを求めたのでした。
「度一切苦厄」が目的であり、結果だったのです。
それが、「見性成仏」によって、すり替えられ、「見性」することが目的にされてしまったのです。
「照見五蘊皆空」は、一切が「空」なることを「照見」するということであり、「見性」という「体験」を意味しません。
この「空」が問題であり、この「空」をどうするのかが問題なのです。

もたもた書いている内に、次の動画が配信されました。

233.【最終回答】幸せとは何か。魂の次元から定義します。
https://youtu.be/-dZzT_-k_T4

正にここが問題です。
良寛さんに次の歌があるそうです。

  如何なるが 苦しきものと 問ふならば 人をへだつる 心と答へよ

飯田欓隠老師は、おそらくこの歌を改変したと思われる次の歌をしばしば使われています。

  如何なるか苦しきものと問ふあらば物をへだつる心とこたへよ

ポイントは「へだつる」です。
「世界認識システム」が最初に自己と世界を分離した、とのことですが、ここに「苦」の根源があるわけです。

物と接した時、「物そのもの」との間に隔てが生じてしまっている、ということに気づくことが修行上の重大ポイントなのです。
私の考えでは、脳の構造として、物そのものの上に言語レイヤーが存在すると思っています。
リンゴならば、「リンゴ」という言語・記号が、物そのものにオーバーラップしていて、
その言語・記号には、これまでの人生で蓄積して来た一切の知識・記憶・感情等がリンクしているわけです。
しかし、その膨大なリンク集は、今、目の前にあるこの物そのものとは、全く関係が無いのです。
そもそも、次元が違う。
レイヤーが違うのです。
ここをはっきりと体得することが修行の出発点になります。

ここがはっきりしないと、いつまでも言語レイヤー上での空回りになってしまうのです。
そして、「苦」というものも、この言語レイヤーの混乱に他ならないと思います。
リンゴという物そのものの上に「リンゴ」という言語レイヤーが重なり、
そして、物そのものとは無関係である言語レイヤー上で勝手な思考が走るのです。

この言語レイヤーは、田方さんの言われる「仮想世界」・第2レイヤーそのものだと思っています。
この「仮想世界」が「空」の正体だと思います。
釈尊は、「五蘊皆空」と「照見」したのですが、この「五蘊」とは、「色受想行識」のことです。
「色即是空」「空即是色」であり、「受・想・行・識」も同じであると述べられています。
一切の「空」なることが、徹底的に記述されています。
一般的に「色」は物質的存在、「受想行識」は精神作用と理解されているようです。
一般的に「空」は、「実体の無いこと」と捉えられていて、因縁によって、どのようにでも変化して行くものと理解されていると思います。
それ故、「諸行無常」であり、それ故、「諸法無我」と結論されるのです。

ところが、この「空」が本当に得心されるのは簡単ではなくて、ここに修行を要する理由があるのだと思います。
なぜなら、「考え」の世界ではないからです。
何を考えてみても、それは考えの世界であり、言語レイヤー・第2レイヤーの働きです。
乗っている列車の壁を押しても、列車を止めることは出来ないのです。

道元禅師の『普勧坐禅儀』に

「心意識(しんいしき)の運転(うんでん)を停(や)め、念想観の測量(しきりょう)を止(や)めて、作仏を(さぶっと)図(はか)ることなかれ。」

『普勧坐禅儀』

とあります。
それを「只管打坐」と言いますけど、そのような「只在る」努力によって、言語レイヤーの混乱から離脱することが可能になるのです。
それは左脳の活動を抑制することに他ならず、それを極限まで押し進めると左脳の機能停止を来すのだと思います。
しかし、そこでの「体験」は、単に脳の異常現象に過ぎないのだと思います。
それを「悟った」と思い込むのは、おそらくは、勘違いです。
当人としては、素晴らしいものだと思うのでしょうけど、「悟り」「見性」「大悟」というようなものを「認めて」、それを得なければならないと指導するのは、大間違いだと思います。
修行の方向を完全に狂わせてしまうからです。

大事なのは、「仮想世界」を「仮想世界」だと見破って、「仮想世界」の外へ出ることです。
その突破口は、常に既に、今ここに、開かれて、在るわけです。
                               合掌
  令和4年2月18日

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