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EOからの手紙8

幽雪さんへ

かまわず、続けて下さい。
どんどん続けて下さい。
いかなる論議(論争ではなく)も、すべて道になります。
世の中には、自我を通そうという理屈を言う人達はたくさんいる。
つまらない理屈を言う人もたくさんいる。
相手を屈服させて楽しむために理屈を言う人もいる。
だが、あなたの手紙はそういう理屈とは違う。
だから、ただひたすら私に言うといいです。
この機会に、私に対しては、存分にいかなる無礼も気にせず、私の言葉や手紙と将棋をさすようなつもりで、投げてきて下さい。
しかし、私は何かの論理を通す気はまったくない。
あなたからの理屈、雲水生活の情景描写、言葉使い、筆跡にこめられた感情、
そのすべてを通じて
私があなたから学ぶことが、実にたくさんある。
・・・・・・・・・・・
通常の会話や手紙はいつもそこに余計な礼節があります。
だが、そういうものは、長期的に見て、いずれ食い違いは暴露してくる。
そういうものは、最初が良くて、あとあと変にこじれる結果になる。それぐらいならば、
最初から吐き出させるのが私のやりかたです。
偽善的なものもなく、ただお互いに手の内は全部出してしまうようにする。
まず、どうでもいいことですが、EOという呼び捨てでかまいません。
その理由は、まず私は何者かでありたくないし、また事実なにものでもない。
もうひとつは、いわゆる真言といわれる音の信号の組み合わせでエオという響きを作ったために、これを呼び捨てて使うことで私のIDにつながりやすいのです。
「さん」づけで呼ぶと、あるいは書くと、余計な振動が加算されてしまうので、誰に対しても私は呼び捨てるように言っています。
これは呼ばれる私の側ではなく、呼ぶのは、つまり発音するのは呼ぶ方の人ですから、
呼ぶ人に与える影響を考慮してのことです。
という、まずは、禅には関係ない、つまらん話でした。

まず、ゆうべ、肉体から離れて、あなたの無意識の中へ入ってみた。
これまた全然禅には関係ない話ですが、
結局、私はこうして離れた読者や門下と毎晩、出会っている。
だから、質問の手紙がこなくても、勝手に私から返事を出すし、
人に実際に会う必要がほとんどない。
質問を抱えている人達は、何も質問しなくても、ある日、あるタイミングでこちらからのコメントが届くようになっている。
さて、まず、あなたを観察してみて、
周りに、これは寺の他の僧侶だと思うが、まわりがかなり変だ。
変というのは、僧侶というよりも、私には一種の病人に見えた。
はっきり言えば、精神病に近い。
大声でわめいていたものもいるし、呆然と部屋の前につったっている者もいたし、やたらとおしゃべりなおせっかいもいた。
これらは、実際の寺にいる肉体の状態ではなく、その者たちの本心の世界です。
つまり、まったくここでは、嘘がつけない。かといって、プライベートな詳細なデータが得られるわけではない。ただ、おおざっぱに、この世界で私が見る人間たちは、
とにかく、その本性、本音を現す。無意識の世界とも言うのかな。
だから、私は、こういう、本性を隠せない世界で人を見て来たので、
大人とか子供とか、僧侶、師家、学歴、地位、こういうものに全く無関心だ。
この奇妙な霊的な世界では、たとえ7才の子供でも、悟道にいる者には私は一礼するし、
肉体が起きている日常生活で、いかにえらそうにしている者でも、本性が獣よりも悪いひとたちがたくさんいるのです。
なんと言ったらいいか分かりませんが、とにかく本性の世界です(仏性の本性ではなく)
つまり、人は眠ると、感情や意志をコントロールできないので、ふらりふらりと、溜まった情念や意志を毎晩吐き出すために、別の次元に生きているようなのです。
私は、この真夜中の本性の世界で、
昼間は丁寧な言葉で、あいそよくしている人達が、無意識の本性をあらわにすると、
暴力にあふれていたり、あるいは昼間は綺麗事ばっかりペラペラ言っている者たちが、この次元世界では、手当り次第強姦に夢中になっていたりするのを見て来た。
だから、そういう世界で人々の無意識の本質を見て、そして昼間の彼らを見て、
なるほどどうして彼らがいろいろな嘘をつくのか、など、彼らの本音とその行動パターンの関係について、学べた。
さて、私が今回、意識旅行で入り込んだのは、もっと局部的で、どうやら、それはあなたの心の次元、脳の内部そのもののようだ。
これから書くことは、象徴的なものですよ。前世だのではなく、
現在のあなたの記憶にあるものが象徴として私の解釈に現れたものです。

まず見えたのは、中世のヨーロッパの城。
それは、なんども、なんども、見える。
だが、たぶん、ここは、現在のドイツだと思う。
修道院が見えるが、
そこは、いわゆる修行のためというよりも、まるで病院のようだった。
さて、そこの地下室にひとりの女性が閉じ込められている。
あなたの姉・、妹??、それとも恋人か?。
年令から見て、とにかく、それはあなたの母親ではない。
これは、あなたの無意識の記憶の世界だ。だから、私は霊能者じゃないから、具体的なカウンセリングなどできないが、少なくとも、
そのたった一人の、ものすごく地下の深遠にいる、ひとりの女性をひっぱり出すべきだと感じて、私はその真っ暗な穴に降下した。
どういうわけだが、その地下の別の部屋には、加山ゆーぞーみたいなツラの「夫妻」がそこにいた。こりゃ、誰かの両親のことか?。この夫妻が、実にペラペラ、つまらん言い訳じみた事をよくしゃべるんだ。いわゆる、つまらない人達なのだった。言っていることは、自分たちの過去についての言い訳ばかりなのだ。
さて、そして、同じ部屋に完全に狂った、呆然とした女性がいて、
さらに、ここには、怪我をした血まみれのような別の人も床に座っている。
一体なんだろう?。
あなたの身内との過去の生活の中で、
両親とのトラブルか、女兄弟かあなたの恋人の病気?、大きな事故や誰かの死?、
何かが、おおきく、ひっかかっている象徴なのだろうか?。
それとも現実とは全然関係ない、それこそ中世ドイツのあなたの前世の模様だろうか?。
何日か、もう一度、あなたの脳にアクセスして、入り込んでみないと、即断できないが、いまのところ、詳しくは分からない。
しかし、かなり、入り組んでいるなぁー。
ヨーロッパといっても広いのに、なぜかそこがドイツだという感覚が私には強い。
それで、思い出したが、雪渓老師の海外遠征に、ドイツが一番多いですよね。
あなたと何か、因縁でもあるのだろうか?。
いや、ありそうだな。縁なんてーものは、実によく、正確にからまっているから。
あなたが雪渓老師のもとにいるのは、おそらく、何かの決着をそこでつけるためだろう。
そしてそのカギはドイツということだ。

さて、私には、今は、何がなんだか、分からない。
あとは、あなたが、このとりとめのない、描写の断片の中に、思い当たるものがあれば、
それについて私に言えばいいわけです。
そんな、わけの分からないものよりも、
さっさと、仏道の話題にしたほうがよければ、それもいい。
・・・・・・・・・
ただ、私はここ4通のあなたの手紙を見ていて、
仏法についての論議もそれはそれでいいとして、
私は何か、別の話を、何かそれとは全然別の話を
あなたとしなければならないような気がする。
法についてもいい。しかし、
何か、別の、、たとえば、あなたのひどくプライベートな話とか、許される範囲で私と話したほうがいいような感覚が私にはある。
というのも、私はあなたの手紙の中に、仏性の話題とは別の声をいつも聞くからだ。
なにか、あなたの手紙の文字は法とはちがう別のことを言おうとしている。
法の話を私と白熱しているようには、なっているが、
その底辺で、まったく別のものが私には見える。
むしろ、そのあたりは、あなたが、「僕は、実は残虐性が」という、
そのあたりの問題、あるいは話題だと感じる。
残虐性など、我々には当たり前の機能だ。私の昔の友人は殺人の方法と意識の問題に興味をもっていた。つまり、惨殺の方法にもパターンがある。
切る、焼く、なぐる、そして死体も埋める、水に投げる、焼く、とではそれぞれに、
犯罪者(私は犯罪者とは呼ばず、単に執行者と呼ぶが)の無意識は違うパターンをもつ。
人の創造にもパターンがあるように、人の破壊にもパターンがある。
どの殺し方を好むかによって、執行者の内面がそこに見える。そして、それは人間性の観察ではなく、むしろ私にとっては、元素に対する人間の意識運動について学べる。
我ながら、なんだか、わけの分からない文だなぁー。

悟道については、もう書くような問題は私には残されていない。
それは、あなたが、あの原稿の中から、いくらでも禅的なものも、禅とは違うものでも、
あなたの自由な選択によって、ポイントになっている言葉を拾えるはずである。

手紙は、プライベートなものだ。いままでの手紙は、私はあなたに書くと同時に、
禅の世界そのものにものを言っている。だから、あなたの手紙は決して公開はしないが、
あなたへあてた、「私の手紙のコピー」は、前回までのすべての分が、雪渓老師と方丈老師あてに郵送されている。
私は、誰かに手紙を書くという状況を常に、他の人へのメッセージにも使う。
だから、私の原稿の原文は、そのほとんどがたった数人への手紙だったのである。
ただ、それが、どうも不特定多数にも、共通のテーマを含んでいたので編集されただけで、3章以後は、本来ほとんど全部、あれは手紙なのです。

ただし、今回、悟道についてや寺や方便、行法についてのあなたとのやりとりは、
そうした編集に組み込むかもしれませんが、
ここ3週間は、非常にプライベートなものが最近、読者との間に増え始めている。
他の人間には関係のない話題、テーマが増えている。
おもしろそうな話はずいぶんと、手紙がやりとりされているが、
結局あまりにも個人的なもので、原稿にならないものが増えている。
私は、できれば、そういう手紙をやりとりしてみたい。
そして、たまには、仏道についての話題もいいでしょう。

今回の手紙のこの最後に、禅の行法で、
私がちょっと気になったことのメモをしておき、これにてとりあえずワープロから手を離します。

メモ

禅の一般的な姿勢は、内面のありかたと食い違う。
すなわち、もっと楽でよい。一般の禅が強要する姿勢は、内面との分裂を起こす。
したがって、少林窟や発心寺が、あまり極端に姿勢にこだわらないのは、正しい。
姿勢は、あくまでも楽でなければ、内面もそのようにならない。
深く静寂に入る時、人はけっして「りん」として座ってはいられない。それは陶酔するかのように、だらけるものだ。だが、意識はだらけてはいない。
だから、むやみに形式的に警策を打ってはならない

次に、毎日同じ時間に、座禅するよりも、自然に座りたいときに座るべきである。
座るか座らないかという時点に、すでに無為自然が関与するべきである。
また、座ったら、いつやめるかも自然であるべきである。
この点は、話を私が聞くかぎり、少林窟がだんとつに適確である。

法話というものは、全員が老師に背中を向けて聞くべきである。
その理由は、面と向かうと、人は目や耳で聞こうとする。
だが、老師の提唱は、背中に戴くべきである。
背中は無心に、声を受ける。後ろというのは、動物的構造から言っても、『無防備』だ。
老師を信頼するならば、受け身で、声を背中に受けるべきである。
通常はこれは失礼ということになるが、これこそ本当の説法の聞き方である。
また、老師と同じ方向を向くことで老師の意識との共鳴が起きることもある。
これは、物理畑のあなたなら、しかもアルゴンレーザーやらH2Oレーザーでなくってなんだっけ?、そういうものを扱っていたのなら、分かるはずだ。
つまり波の干渉です。180度、相対していては、説法がもしもエネルギーの波の一種ならば、それは相殺してしまう。だが、同じ向きに並べば、増幅する。
ということで、私は門下に後ろ向きに座らせる。
私は彼らの背中に話しかける。

次に、茶碗はやりにくいと言いますが、
一人になった時なら出来ると思います。禅堂では無理でも。
茶碗を使ってみろ、とは言いませんが、使わないとまったく、あの件に関しては話にならないのです。座らない者に座禅を説明するのと同じになってしまう。
だから、10分でもいいのです。
まったく、そんな頭のてっぺんなど、気にしたこともなかった人たちも、半月ほどで、みんな留意できていますから。しかも、彼らは動いて、しゃべって、見聞きして、それでも自然に留意し続けている。生活には、なんらの支障もない。

実は雪渓老師の元に、茶碗が2ケ前に送られている。
老師に「ちょっと、試しに、やってみたいのですが」と言って
『だめじゃ』というような、お方でもあるまい。

最後に、禅堂は、完全に、他人を介在させないべきかもしれない。
つまり、私がもしも作るなら、『独房』のような、仕切られた3畳間を何十と寺に作るであろう。広い禅堂も一個ぐらいはいいとしても、
各自の座禅は、一切他人から隔離されて行われるほうがいい。

1993 11/25 EO


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