私の生い立ち。広島県府中市父石町での暮らし。
1969年10月6日。広島県府中市の久保田産婦人科(中須)で私は生まれたらしい。55歳にもなると幼少期の記憶などあまり無い。とにかく素直で、身体を動かすことが好きだったと聞く。ただし、持病に小児喘息があり、時々、親の手を煩わせていたことは記憶にある。生きているということは絶えることのない呼吸によって成立する。だが、呼吸そのものが苦しい、ということは、生きていること自体に強烈な苦痛が伴う。喘息が発症したときは、死んだ方がマシだ、といって、寄り添ってくれている母を困らせていたことを覚えている。
この小児喘息を克服するために始めたのは競泳だ。6歳(小2)から始めたが、結局、22歳まで続けることになる。少なくとも競泳が、私の人生にさまざまな影響をもたらしたことは疑うべくもない。競泳を続けることで、私の小児喘息の発症頻度は低下し、現在にも続く、無尽蔵の気力・体力を形成していくことになる。
広島県府中市は、当時、人口5万人の町だった。今は、(甲奴郡)上下町などを編入(2004年)して形成されている。それでも人口は4万人。釣り具で有名なリョービ、北川グループ(鉄鋼、精機)を擁するので、思ったより人口は減っていない。だが、私が住んでいた当時(1970-80年代)に比べると、半減している印象だろうか。もう一つ、府中市は「家具の町」として知られる。私の父は家具メーカーを経営していた。まつおかアートファーニチャー、という社名で、中須にあった。バブル崩壊後、間もなく廃業したが、当時は婚礼家具が売れた時代。府中家具はブランドであり、間違いなく、私は家具産業によって育てられた。今、ここで初めて公表するが、林業を再興させることが、私の死ぬまでにやりたいことの一つ。現在は陸上養殖×エネルギー事業にフォーカスしているが、いずれ、林業を何らかのカタチで支えるつもりだ。
家族は7名。父、母、祖父、祖母、姉、弟、そして私。高度経済成長期の真っただ中。父は出張続きでほぼ家にいない。母は京都から嫁いできた身。姑からいじめられている姿に、子どもながらに正義感を憶えた。この背景として、父は幼少期に松岡家から、田辺家に養子として迎え入れられた。父は松岡家の13人兄弟の末子。長男とは24歳離れている。田辺の祖父・祖母は自営で桐箱の梱包の仕事を営んでいたが、子どもがいなかった。育てることができず、養子に出されることがあったことは、時代背景を物語る。父は昭和11年(1936年)生まれ。じきに第二次世界大戦開戦(1939)となる、空気感もあったのだろうか。田辺の祖母は腹を痛めて出産したのではないからか、父に対し、無償の愛では無かったのかも知れない。どこか、育ててやったのだから、帰って来いよ、という言葉を父に投げかけていたように思う。同志社大学法学部を出た父は、本当は大企業に就職したかったらしい。だが、府中に戻り、市役所に勤務した。その後、松岡の兄から、家具メーカーを共同で創業するための誘いがあり、それを受けることとなった。私が生まれて間もない頃のことと聞いた。だが父は、創業後、1週間経たないうちに、辞める、と言い出したらしい。理由は、共同経営者の兄(松岡幸明(ゆきあき))との確執だ。だが、母がそれを拒否した。父は、兄と顔を合わせないよう、出張中心の生活に仕向けていく。私の自宅には、子どもを産んだことのない祖母と、京都から父石(ちいし)の田舎に嫁いだ母が残される。祖母は母を評して「都会の人は何も知らないし、薄情」と、しばしば言っていたのは記憶にある。母は「父が頑張って働いてくれているので、留守を守らねば」と言っていた。私は子ども心に、いびつな人間関係を感じるようになる。誰が悪い、という問題ではない。父は養子となり、実の(血のつながった)両親ではない家庭で育てられた。田辺の祖父・祖母は、父をかわいがり、しっかり食べさせ、この時代に、京都の著名市立大学を卒業させるまで育てあげた。母は、父が大学在学中に、父に見初められたが、当時、中学生だったため、父は母が20歳になるのを待ち、京都にに出向き、結婚を申し入れたそうだ。母は、それを受け入れ、父石に嫁いだ。とても愛され、迎えられた縁談であった。ただ、こうした、3者3様のバックグラウンドを持つ者が、生活を共にすると、問題が起こる。人間とは、大人になっても、未熟な生き物であることを、私は小学生ながら、気付くことになる。
父石町について触れる。府中市(当時)は、主に4学区に分かれていた。第1中学校、第2中、はデカい。府中市においては2大双璧ともいえる。第1中は、府中市の語源である備後の国府があった場所に建つ、国府小学校を学区内に構える。第2中の学区内には、当時、神童しか行けないといわれた、(私がそう思い込まされていただけなのかも知れない。)地元最高峰の府中高校がある。
一方、父石町のある第3中(現:明郷学園)は、府中の広い平野部から山間部を通り抜けてたどり着く、狭い平野部にある。生徒数も1・2中の何分の一だ。府中高校へ進学する率も桁違いに少ない。私は、競泳の練習のため、第1中学区内にある、B&G府中海洋センターに週3回、通っていたが、第1中、第2中の競泳仲間から、「田舎もん」「3中のかっぺ」とバカにされていた。当時は、言い返すほど、自分に自信が持てていなかったため、悔しい想いをかみ殺していた。この悔しさを晴らすために、頑張ってきた、ともいえるこれまでの半生。今となっては、私に苦痛を与えた者たちには感謝すべきであろうが、住むエリアや、人口の多寡で地域をディスるのは、相手に対するリスペクトの欠落といえる。決して共感できるものではない。
これらの背景が、私のその後の人生を形成していった、といえる重要な事がらである。こうした状況を脱するためもあって、私は京都洛南高校へ進学するが、井の中の蛙が、大海に出てみると、第1・2中と、第3中の差異など、微差であり、採るに足らないもの、と知った。京都の人はおおらかで、出身地で差別されたことも無かった。また、私は高校の寮生だったため、多くの同級生が家庭に招いてくれた。多くの家庭の有り様を知り、否応なく、自分の家庭環境と比べる。私の家庭の特殊性を知り、私なりに家族観が変化していった。
何事も、無駄なものなどない、と思えるのは、私がこうした1つ1つの体験や学びをチカラに変えられたことである。若い頃の苦労は、おカネを出してでもさせろ、ということである。
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