フラクタルなAnywhereとSomewhere

Anywhereな人々とSomewhereな人々の分裂。これは、英国のジャーナリストであるデイヴィット・グッドハートが2017年に上梓した『The Road to Somewhere: The New Tribes Shaping British Politics』(どこかに続く道――英国政治を形作る新種族)のなかで提唱されている概念である。

はじめてこの言葉に触れたのは『遅いインターネット(NewsPicks Book)』の論考だった。

イギリスのジャーナリストであるデイヴィッド・グッドハートは前者を「Anywhere」な人々、後者を「Somewhere」な人々と名付けた。境界のない世界を生きる人々は「Anywhere」に、つまりどこでも生きることができる。あの日彼らが口を揃えてアメリカがトランプに支配されるならば、ロンドンに、パリに、東京に来ればよいと述べたことがその世界観を象徴している。対して「境界のある世界」にその心を置いてきてしまった人々は、「Somewhere」つまり「どこか」を定めないと生きていけないのだ。(中略)
このヒッピーとヤッピーの野合であるカリフォルニアン・イデオロギーを内面化した現代的なクリエイティブクラス、つまり「Anywhere」な人々は相対的にリベラルで多様性を擁護する傾向がある。「境界のない」世界に適応した人間にとって、「壁」は美学(ヒッピーの遺伝子)的にも経済(ヤッピーの遺伝子)的にも不要なものだからだ。それに反発する、没落した中産階級を中心とする「Somewhere」な人々は保守的で排他的な傾向をもつ。「境界のない」世界に適応できない人間は壁の再生を望むからだ。20世紀の左翼的な知性は、国民国家と資本主義をセットで批判することに集中していたが、もはや両者の支持層は大きく隔たりつつあるのだ。
(宇野常寛『遅いインターネット』P39〜40, 42より引用)

アメリカ社会の分断と一言で捉えられる構造的分裂を時代的な背景も含めて的確に表現していると思った。

一方で、このような社会の分断の問題解決に向けて、さまざまなイニシアチブやアクションが行われているのに、むしろ状況が悪化しているのは何故なのだろう?という疑問を抱いていたのだが、簡潔なキーワードで説明された論考を見かけた。

 最近ちょっと変わった仕事で、とある県の知事さんのプロジェクトに関わりました。「アフターコロナの世界は、今までの東京一極集中の社会から転換していく流れになるだろう。では、県としてはどういうビジョンを示していくべきか?」。それを考えていくプロジェクトで、私もその中に入って20人くらいの国内外のいろいろな識者のお話を聞く機会がありました。
 見えている方向には共通するものがありました。たとえばグリーンリスタートや、デモクラシーの機能不全に対するデジタルトランスフォーメーションをどう入れていくかといった話です。だけどそういう方向性が見えていても、なんだかこの社会がそこに行ける気がしないのです。それはなぜか。
 私はまず市民一人一人の「拗ね」を解消しなければいけないんじゃないかと思うのですよね。「拗ね」というのは自分に向かうと「どうせ俺なんて」という自虐になり、他人に向かうと「○○のくせに」という冷笑になります。今の世界はそういう空気に満ちています。そこから手をつけなければ、どんなに仕組みを変えてたって本質的な変化は生まれないのではないかと思うのです。
 自分と世界との関係性が拗ねてしまうと、始まるものも始まらない。(後略)
(松本紹圭『掃除で始める「遅いインターネット」』より引用)

「拗ね(すね)」とは極めて簡潔なキーワードなのに、心持ちまで含めた状況や文脈すら内包し説明できている気がするのである。

その論考の中では、問題に直接アプローチすることを “世界に素手で触れる“ と表現し、一方でメディアなどで流通するニュースにSNS上で脊椎反射するだけでその問題に参加していると思ってしまっている状況を “世間に触れている“ と表現している。直接“世界“に触れず“世間“に触れている、この違いは間違い探しのようなコトバの違いなのだけれど、気が遠くなるほどの距離感を感じる。

この【Anywhere・Somewhere・拗ね】の現象は、身近な、あるいは自身が所属しているローカルのコミュニティにおいても確認できるのではないかと思う。

例えば、1つの企業の内部においてもAnywhereな社員とSomewhereな社員が存在し、その両者が目標設定やマネジメントと同レベルにバズワード化している「変革」とか「DX」という言葉に対して抱く文脈やコンセプト、連想させるイメージまで分断といってもいいようなギャップはないだろうか。そのギャップの背景に「拗ね」が横たわっていないだろうか。

最近色々な企業の人と会話をしていて、以上のようなことを感じたのだが、これはあくまで感覚的なものであって仮説レベルの話なので、もう少し自分なりのこの問題を意識的に多面的に観察してみたいと思う。

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