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先達に学ぶ。「座右の銘」

自分が「座右の銘」として、初めて聞いたのは中学の時。

校長先生が「人間は考える葦である」というパスカルの言葉だ。

今になって、この意味が分かるのだけれど、その時は「葦」という
植物すら、頭に思い浮かばなかった記憶がある。

現在、色んな業界の「人間啓発」の本が多数出ているけれど、
自分は活字中毒者とは言え、そういった類の本は手に出さない。

それよりも、
先達の歴史、生き方、その人が残した物。
そこで、その人が語ったとされる「座右の銘」の方が、心に残り、
自分の背中を後押ししてくれていると思う。

さて。

「自分にとっての座右の銘は?」と聞かれれば・・・。
それは無いんだろうと思う。

よく聞く、心を打つ言葉があっても、
それが自分の人生に「一発」だけズドンと打たれた言葉は無い。
しかし、それ以上に色んな言葉が自分を助けてくれたと思う。
つまり、自分の人生に影響を受けた言葉は無いが、日々の生活の
中で出会った言葉が、感情的では無く、その言葉で行動が生まれて
いる事がある。(功をなしているかどうかは別として。)

その中でと考えれば、
「マハトマ・ガンジー」と「マーチン・ルーサー・キング・ジュニア」の
2人が挙げられる。

これは偶然。
その思想を持っているとは言えないので、偶然なんだろうけど、
2人とも人権闘争を非暴力主義という名で活動した人達。

そして2人とも人権闘争の中で、凶弾に倒れた人でもある。

マハトマ・ガンジーの言葉に。
「行動の最中には静寂を、そして休息においては活気を学ばなくてはならない。」
という言葉。

本来ならば、
「私には人に命を捧げる覚悟がある。しかし、人の命を奪う覚悟をさせる大義はどこにもない」
という、世界的も有名な言葉を残しているけれど、先ほど言ったように、
「自身の生活の中で、行動に移してくれる言葉」に共感を打つ。

休息の中にこそ、活気を学ばせる行動が必要だ。
これが自分には出来ていないからこその言葉だと。

休息は本当に休息を与え、その勢いで持って日々の仕事に打ち込む。
しかし、それで常態化した日々が、とても窮屈に感じる時がある。

なので、休日こそ、仕事が終わった後にこそ、活気を与えてくれる
何かを見つける事で、日々の張り合いが出てくるというものだろうなぁ。

今書いているnoteもそう。

自分の頭を「活気づける1つのアイテム」になっている。

続いてがマーチン・ルーサー・キング・ジュニアの言葉。

「もし飛べなければ走ればいい。」
「走れないのなら歩けばいい。」
「歩けないのであれば、這って行けばいい。」
「何があっても前に進み続けなければならない。」

これは有名な言葉で、アメリカ公民権運動の中での、黒人民衆に対しての
言葉ではあるけれど、キング牧師が言いたかった事は、

「前に進み続けること」が出来るのは、人間だけであり、その使命は、
全民衆が持つ「権利」なのだ。という事だろうか。

少しずつでも「歩みを進める」
その事で、昨日とは違う自分がそこにいる。
毎日勝てる訳では無い。
しかし、確実に自分は変わっているんだ。という、勇気ある言葉を
残してくれています。

さてさて。

最近、自分が心掛けている言葉がある。

それは「ケ・セラ・セラ」~なるようになる~です。

自分のような「小さな我見」で、答えを不幸にすることこそが、
自分を不幸にしていると思うんですね。

人間って、物凄く緻密に作られた「もの」じゃないですか。

そこに限界を感じてしまう必要は無いな。と。

なので、仕事から帰ったら( ´_ゝ`)
「ケセラーセラー」と歌いながら、作業服脱いでるコトありますもん。

やはり。

自分を自分で褒めてあげるコト。
他者と比べて一喜一憂しないコト。

自分はそこが苦手なので、そういった所を学びたい。

最近。つい先月くらいからでしょうか。
この気持ちに「嘘はないね?」と自問自答しながら、このケ・セラ・セラの
生活を送っています。

ゆうさん



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