僕の総括。「政治論」
一時期、山本太郎に惚れ込んだ事がある。
弱者を救済するために、熱き言葉で民衆に訴える「熱情」に絆された。
彼の言葉は、まさに今の時代には無い、そして捨てられている熱情そのもの
だった気がした。
今でも、彼の姿勢は変わらない。経済の復興をワンイシューとしながらも、
その目線は、労働者階級、弱者、貧困層に亘って語られている。
しかしだ。
彼の組織が、周辺が拡大していくに連れて、一部の人達が「可怪しい事」を
言い出した。いや、考え始めたというのが合っているか・・・。
「全ては政治の責任」と言う点だ。
これは、山本太郎の言質にも時折見せる言葉。
まずは政治を変えなければ、民衆の幸福は訪れない論だ。
ここに疑問が生まれた。
自身の幸福は、自身の「思い」から発せられるものであって、誰かの
ぶら下がりでは、自身が持つあらゆる幸福という矜持を保てる訳では無い。
幸福とか、不幸とかの認識は個人が持つものであって、人から評価される
ものでは無い。
人から見て「あんた不幸だね。」と言われても、その人が「不幸じゃない」
と考えていれば、不幸ではない。
逆に周囲から「幸福だ」と見られている人が「あぁ・・・自分は不幸だ・・・」と
思っていたら。
そう、その人の主観で全く真逆の展開を示す。要は自分なんだ。
山本太郎は政治を変えてくれる。これならばいい。
そう願い、活動する人がいる事に「最大限の尊重と称賛」をしたい。
しかし。
山本太郎は私を幸福にしてくれる。これは違う。
一政治家が、自身の主観たる幸・不幸の鍵を握れる訳が無い。
組織が大きくなるに連れ、そういった感情を持つ人が、逆にアンチテーゼ化
して、山本太郎を攻撃する場面も見たりした。
これは、その人の勘違いでもあるが、どうやら山本太郎自身の「言葉」は、
その大衆の幸・不幸を決定するような事にまでなってきたのだろうね。
とあるアーティストが言った、
「政治には熱さが無い。もっと民衆を熱くさせる行動が無い」と。
そう、自分もこの意見に賛成だ。
「民衆に寄り添うよりも、滾るような熱さ」を訴える人がいない。
こうなると、もう政治には期待できないのだろうか?
そうではない。政治は元来、民衆の熱き「滾り」から生まれた物だ。
近現代日本では、2回の大きな政治の転換期があった。
「明治維新と大東亜戦争の終焉」だ。
この2つ、形は全く違う。違えども、
「命を賭けて戦った先人の熱き滾り」があると思う。
そこには、一人一人の命が、大きな日本を動かしたのだ。
憂国の士と言う言葉がある。
国を憂い、自らが士となって、国のために命を尽くす。
この憂国の士は、政治家から生まれたものでは無い。民衆の滾りから
生まれたものだ。
独裁と言う言葉は当てはまらないが、今の政治も議院内閣制つまり
議会制民主主義を取っていたとしても、ほぼ独占状態になっている。
命を賭けているとは言えないとしても、組織力や集金力に負けてしまって、
この力が今の政治を動かしている要因だ。
しかし、代表である議員は命よりも、自身の保身しか考えていない。
これは、与党・野党に関わらず、この考えを持っている人が多い。
さて。
今の総選挙投票率は約4割。
有権者全てとはいかなくとも、少しだけ投票率が上がれば、どうなる
だろうか?よく投票行動を促す際に使われる言葉だ。
けど、投票率は上がらない。
どれだけSNSが発達したとは言え、投票率を動かすまでに至っていない。
これは有権者の責任ではない。
よく有権者が政治を嫌い、無関心になり・・・云々言う人がいるが、
今の政治に何を有権者が期待できるのだろうか?
そして。
まだ、有権者の多くは「自分は大丈夫だ」と思っている人が多数なのだ。
もうここに気づかずに「有権者は虚無感に走り・・・」と考えていると、
このまま政治は変わらないままだ。
自分は思う。
「時間(時)を待つしか無い」のだろうと。
怒り、滾る人達が、投票行動を示すという士にならない限りは、このまま
政治は変わらず続く。
実は日本を動かす力は、虚無感からの怒りでは無く、はっきりとした熱情を
持つ、しっかりとした「滾り」なのかもしれない。と考え、総括。
ゆうさん
※この総括は自分自身のもやっている部分を、自分なりに答えを出すもので
あり、一個人や団体を非難・中傷するものではありません。
重ね重ね、自分自身の答えを出す「まとめ」のようなものです。
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