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149

 先週、久しぶりに飲むギネスビールを服にぶちまけてしまった。贔屓にしているYouTubeのチャンネルでもよそ見していたのだろう。
漂うギネスの匂いで、僕の意識は2013年に初めてロンドンに住んだ時のリビングへ戻っていた。兄や姉のように慕っていた同居人達の顔とたまに家の中に入ってくる黒猫、終わりもなく漂う時間と音楽が膨大な記憶達と静かに混ざり合っている。
その家はなぜか全員がギネスビールしか飲まない家で、リサイクルゴミの箱はほとんどギネスの缶で溢れていた。
記憶の中にいる僕は大体へべれけで、多分これからクラブに行くのだと言う。日付が変わり、1人、また1人と兄さんや姉さんが自分の部屋に戻って行く頃、僕は出かける。
バス停の前の、情緒不安定なおっさんが営むコンビニでビールを2本、3本買っては必ず袋に入れてもらう。その夜の彼は上機嫌だった。瓶ビールを10セント硬貨でねじ開けてはビニール袋の中に隠して人気のないバスの端っこで人目を忍びながら飲んでいた。携帯栓抜きはカバンの中に忘れてきてしまったようだ。

 僕はその過ごしたほとんどの夜を55番か149番のバスに乗って出かけた。55はロンドン中心部手前にある特定のクラブへ向かうときに乗り、ロンドンブリッジ行きの149は南部へ向かう最初の乗り継ぎバスだった。僕の好きなクラブはテムズ川のさらに下の辺りに沢山あったので、かなりの夜を149のバスに乗っていたような気がする。終着駅のロンドンブリッジ手前のバス停で降りて、更に南下するバスに乗り換えるのがミソだ。
エリアをほんの少し移動するだけでロンドンの街は顔つきをガラッと変え、それに伴い乗客の質も驚く程変わる。深夜なら尚更だ。僕は大体の場合、ヒヨコが頭の周りを飛んでいるくらい酔っ払っていたけれども、昼とは全く異なる雰囲気に包まれた奇妙な興奮と昂ぶった神経がアルコールと絶妙に混じり合っていたからか身の危険にはとても敏感だった。
車内車外で起こる様々な激しいドラマを、醒めたカメラとヒヨコが周った頭で記録していた。しかし、そのほとんどは急な出来事のため、カメラの設定を間違えて人様に見せれる代物ではなかった。

 想い起こされる記憶の中の大抵の風景は肌寒い夜のことだった。
灼熱サウナのようなダンスフロアを逃げ出し、息を切らせて喫煙所に繋がる扉を開けると、気化した客の汗と混じりあった夜の冷気に真っ先に包まれる。次第に大嫌いな副流煙や地面にぶちまけられた様々なアルコール、大麻の匂いが混ざった独特な香りが鼻に交わる。喋り声が重なり合って横にいる人間が話しかけてきた声もよく聞こえない。僕は英語があまり得意ではないので、この何重にもなって耳に響く意味の掴めない生々しい異国の言語がとても愉快で、何故か心地よかった。
数時間後に踊り疲れて出口をくぐった僕を、今度は何の匂いもしない鋭い冷気が刺してくる。寒暖差に狼狽えて路地を彷徨っていると、家に向かう深夜バスが目の前を通り過ぎて行った。次は何分後にくるのだろう。消耗し切った身体は一瞬でも気を抜くと糸が切れた人形のように崩れ落ちそうだった。
真夜中の街には得体の知れない人間が沢山彷徨っている。僕もそういう人間の中の1人になり切り、バス停に佇む。もう何分経ったのか。眠気はよくわからない気になってしまった。それよりも尿意と冷気で挫けそうだ。そんなことばかり覚えていて、いまも膀胱が少し痛くなる。

 思ったよりも長くなったロンドンでの生活で頭の深くに刻み込まれているイメージは、あの赤いバスとナイトクラブの二つがほとんどを占めていることに気づいた。
理由は単純で、最近写真を整理していると被写体としてそれらが写っていることが圧倒的に多いからだ。パンデミック以来、この二つの被写体と接することが殆ど無くなったので今の今まですっかり忘れていた。
2年前までは毎日昼夜問わず用もなくバスに乗ってはロンドンの人々を観察し、毎週どこかで必ず音の鳴る箱の中に忍び込んでいた。
過去を懐かしみ、感傷的になって自分の気持ちを誰かに訴えたいわけではない。この二つが自分の生活からなくなって確かに寂しい。しかし困っているわけではなく、むしろいまは近づくのを努めて避けている。

 その頃の僕は何を思ってこれらの写真を撮っていたのか。バスで出会った光景、ナイトクラブの喫煙所で出会った大変に個性的な人々、、もう数年経った僕は想い出せない。
と、言いたいところだが、割と鮮明に想い出せる。
ただ、写した人と交わした会話、その人の顔、そんなものを覚えているはずもない。写っている人間はみんな知らない、記憶にもない名も無き人々だ。
あの不思議な香りを放つ喫煙所の湿度や、早朝のバス停で30分以上こないバスを待つ羽目になった指先が凍るような朝5時半。それらの情景に写真はほんの一瞬で僕を引き戻す。上に書いたようなことを苦労なく想い出せた自分に、僕はひどく驚いた。

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