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手放してよかった物や事

この企画は絶対に参加したいと思って、自分の中でずっと温めてきた。熟成にはまだ足りないけれど書いてみる。



物事は執着しない方が楽だし、何事も柔軟に取り入れたり手放したりして自分がやりたいようにするのが、誰にとっても良いことだと思う。
最近の自分が手放して良かった物事をまず拾い出してみる。

1つは社会福祉士の資格取得に使ったテキスト一式と問題集、資料。何となく自宅に溜まってしまった研修とか勉強した資料。1年間ほとんど読み返すことはなかったし、最新の情報はネットでググるとゲットできる。取っておきたかった理由は「それなりにお金を払った」それ以上に「時間をかけた」ことに自分が執着して残しておきたかっただけ。受験ワークブックはコンパクトにできてるので残した。要点だけ知りたいことがいつか出てくるかもしれないし、そんなに場所も取らないし。そうはいっても、執着を全て取り除くことはできないな~って感じる。

1つは友人との関係を整理。関わった人は大事な友達って想いを持っていたけれど、自分の心がついていかなくなったら、その拘りは手放して良いのかと割り切った。「大事な友達」と思ってたけど、今は「少し仲の良い知人」
友達だからこうしてほしい、こうなってほしい、って自分の中に期待もあったんだな~と思う。距離を取ることで客観的に見れるようになったし、自分の気持ちも楽になった。付き合いを止めることはなく付き合い方を変えてみた。ここには折角仲良くなったんだから、友達は多い方が豊かって固執した考え方がある。友情は不変なんて幻想を手放したので清々しく感じる。

noteでは、フォローした方の記事を全て読むこと、読みたいって気持ちも少しだけ手放した。noteを始めた当初はここにすごく拘って、だからフォローも控えめだったし、でもたくさんの記事に触れたり、交流の機会も増えてきて自分のフォロー数も増えていてタイムラインを追いきれなくなってきた。自分の中で、かなりの葛藤を抱えていた。フォローするのは読みたいから、だけど物理的に無理。でも、ある日気づいた。noterは、皆同じ環境にいる。すべてが縁とタイミング。
見逃すこともあるし、興味感じなかったら無理に読まなくても良い。逆は常にある。自分の記事は読むに値しないと感じる方々も多くいるだろう。縁があって関わりが持てるものを大事にして、それ以上欲張らないこと。
ここでの出会いにはきっと意味がある。このタイミングで出会えなかったことがあったとしても、それはそれで良い。全て読まなくちゃって強迫観念から解放されて、だから今でも記事を読むことができている。SNSは出会いであり縁である。ご縁を大事にしたいに変換した。

最近の手放して良かったことをいくつか挙げてみて、並べてみて気づいたこと。自分が手放して一番良かったことは「全て」「完全」「完璧」に、何かをしたい、しなければならないって拘りなんだと。
例えば、液体を詰め替え容器に移すとき、袋入りの味付け調味料を鍋に入れるとき、ハンドクリームや歯磨きを使い終わるとき、どうしても全部を使いきるのは難しい。極力全ては、多分多くの人に共通だと思うけれど、その量や範囲は人によって違う。
几帳面な人はほとんど何も残らないように使い切るかもしれないし、せっかちな人はすぐに新しいものを使い始めるかもしれない。
行動とか思考とか感情とかも同様に端と端は少し切り離して良いのだと思う。蓄えた知識は忘れてしまうものだし、一人の人を丸ごと好きにならなくても良い。自分の想いを全て理解してもらえなくて当然だし、人のことはそれ以上に理解できない。伝えたいとか分かりたいとか、できないことに執着するのは辛い。辛いのは完全・完璧にできるはず、って自分の思い込みがあるから。
そんな自分を自覚して、いつの頃からか楽に生きられるようになっている。それは完全・完璧に何かしたいって執着とそれなのにできていない自分との葛藤を手放したから。手放すとは言っても、完全に自分の手から離れたのではなくて意識の底に仕舞ってあるみたいな感じ。自意識はあって良いものだし、手放すって「捨てる」と同義語ではなくて、新しい価値観を手に入れるってことに近いような気がする。

これからも、何かを手に入れたり、手放したりしながら毎日を過ごしていくのだと思う。この企画を立ち上げて考えるきっかけを下さった倉田さん、どうもありがとうございました。