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蜂の残した針 25話


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 克己は優しい男だ。沙羅はそう信じることにしている。

 この世に真実など必要なのだろうか? 師の性質について考えると、沙羅は世界の真理のあり方にまで思いを馳せてしまうのだ。不毛である。

 沙羅が無心で縁側に立ち、夜風に吹かれていると、もっとも近い部屋のふすまが開いた。

「さっきから、何をしてるんだ? ずっと気配があって気になる」
「私の家でもある。ぼうっとする権利くらいあるだろう、毎月の家賃を払っているのだから」

 うまく無心に入ったところを邪魔されたので、剣のあることを言ってしまった。

 典雅は嫌そうな顔をすると、のしのしという様子で沙羅の隣まで歩いてきた。酒の匂いがする。飲んでいて悪いという時間帯ではないが、あまり素敵な予感がするものではない。二の舞という言葉が思い浮かぶ。

 とても美しい顔をした男だが、並ぶと少し背が低いなと、沙羅は厳しい評価を下している。沙羅は見上げるほどの男が好きだ。そうすると少女のような気持ちになるからだ。

「ひとりで飲んでいるのか? 従者に酌もさせずに」
「陽が沈んでからは、床に呼ぶ以外のことを言いつけたらパワハラになる。君が幹部会議でそう言ったんだろう」
「従者の同意がない場合だ。遥候や蘭香は、あなたに酌をできたら嬉しいだろう」
「本当に嬉しいかどうかをどうやって測るんだ? 測れないから、線を引いてハラスメントを定義するんだろうに」

 言いながら、そらに指で線を引いている。酔っているのだろう。

「あなたの定義の線は縦なのだな」
「君の定義は横線か?」
「今はそうだな、日没より下とイメージしたのかもしれない」

 月は少し欠けていて、典雅もそれを見上げているようだった。

 沙羅は夏の季語であるが──実際は少しややこしいのだが、今はどうでもいいことだ──、典雅という名はいずこかの季節に属するのだろうか。すべてを統括するから、無所属ということになるのだろうか。

「聞いてもいいだろうか? あなたは結婚をしたことがあるのだろう」

 それは公然の秘密に近い。典雅は不自然に早いサイクルで戸籍を乗り換え、いつでも新しい女と会っている。

 色男は首をかしげてみせた。

「どうかな」
「私はずっと無知だったのだが、入籍という言い方はあまり実情に即していないのだな。婚姻届を出すと、新しい籍を作るという形になる」
「そうだね」
「架空の魂がこの世に生まれるようで、少し気持ちが悪い」

 今度は本心から首がかしげられたようだった。

「魂? もともと、ただの紙やデータだろう。だから買って使ってる」
「わからないか」

 作ったことのある者にならばわかるかと、口に出してみただけだ。

 典雅は突然地団駄を踏んだ。

「うわっ、びっくりした……飲みすぎだ」
「違う。此紀が結婚した」
「ああ、そうか、そうらしいな」

 誰かからなんとなく聞いたのだが、忘れていた。よりによって地雷を踏みに行ってしまうのが、自分という女の無神経さだ。沙羅は猛省した。

「すまない……」
「どうして謝るんだ? 私が嫉妬しているとでも? あの、背ばかり高い若造に」
「嫉妬由来ではない地団駄を見たことがないから……」
「苛立ちのあらわれだ。女部おんなへんがつくような感情じゃない」
「そんな、どう考えても男がこしらえた漢字で、その感情を女に押し付けられても」

 この男は比較的先進的で、フェミニスト寄りだと思っていたのだが、これが本音なのだろうか。ややショックである。まあ、酔っている男の言うことを真に受けても仕方あるまいが。

 酌でもしてやろうかと思ったが、沙羅は一点地雷を初手で踏んでしまうような女だ。きっと酌婦ホステスは務まるまい。たとえば東雲は、気の利く女と付き合っているのだろう。沙羅のことを、頭ばかり固い唐変木と思っているに違いない。

「私が女であることはともかく、空気を読むことができなくてすまない。ここにいるのも邪魔なのだな。庭にでも出ることにする」
「そんなに胸が大きいと、生活に支障が出て面倒だろう」

 突然のセクハラに、沙羅は戸惑う。

「特に面倒だと思ったことはないが、ゴルフをする時は少し邪魔かな。他の女性ゴルファーを見ると、タイトなウェアを着ているのだが、私だけ大きなサイズの服を着ていて、それは恥ずかしい。太っているのだなと思う……」
「太った中年女もゴルフをしているだろう。君には若い女ばかりが見えていそうだ」
「ああ、よくそういった指摘も受ける。私は劣等感が強いのかな。つい周りを羨んでしまう。自分だけが悲劇のヒロインだと思っているわけでもないのだが」

 自分が典雅の立場ならば、悲劇のヒロインとしての自認が芽生えてしまうような気がする。そんなことを考える自分を嫌悪する。自分自分、自分のことばかりだ。沙羅はいつも、自分のことだけを考えてしまう。

 ──それは当たり前のことだよ。きみには父親がいなかったんだから。

 克己にそう言われた時、そういうものかと思ったが、東雲が「うわっ」の顔をしていたことを忘れられない。自分たちの中では、東雲がもっとも正常な感性の持ち主だ。沙羅はそう思うから、自分か師か、あるいは両方の感覚がおかしいのだろうと考えている。

 沙羅はつぶやいた。

「絆というのは、どうすれば結べるものなのかな」

 酔った男には、突拍子もないことを言っても構わないだろう。それにもしかすれば、正解の切れ端を教えてもらえるかもしれない。この男は、たくさんの結び目を持っている。

 黒い空を見上げたまま、美しい男は言った。

「婚姻届を出して結べるものじゃないだろう」
「それはわかっていたのだが。結婚というのは、もう少しは楽しいものだと思っていた。絆を結ぶふりくらいはできるのかと」
「老人の財産目当ての女が、そんなことまで望むのは図々しいな」
「克己様と同じことを言うのだな」
「師に悩みを相談してるのか? 変わってるな。特に、克己は適した相手じゃないだろう。あれと心を通じ合わせようとすると、その分がすり減るぞ」
「そう感じるのは私だけではなかったのか」

 東雲はすり減っている様子がないから、沙羅の被害妄想だと思っていた。相性というものだろうか。

 典雅は少しふらつくようにして、太い柱に背中をあずけた。

「酔っているのに地団駄など踏むからだ」
「そうかもしれない。水を一杯くれないか」
「わかった」

 茶を淹れてやろうかと考えついたが、自分が飲酒した時のことを考えれば、今ほしいものは本当に水であろう。

 自分の軸でしか物事を考えられない、己の視野の狭さに、沙羅はつくづく疲れを感じている。




 ハクイという名が、まさか白い威力と書くとは思わなかった。

 何十年も同じ家で暮らしたとて、そんなものである。自分が特に薄情なほうだとも思わない。蘭香は、自分の名前の美しさを、周りに知ってほしいとも思っていなかった。

 いちごを流水で洗うその手を、女のようだと思う。白くしなやかな指だ。爪は少し長いが、爪切りではなくやすりで整えているらしい。

「あのマニキュアは、どなたかへのプレゼントだったのですか?」

 蘭香が問うと、白威は顔を上げた。
 白皙の美青年と言って言えなくはないが、どうにも印象の薄い容姿である。悪いところは何もないのだが、良いところも目立たない。

 眼鏡は似合っている。それを外した顔をもう思い出せないのに、まあ素敵な眼鏡、と蘭香はいつも薄く思っているような気がする。こうなるともはや眼鏡が本体だ。

 蘭香の胸中でさんざんな言いようをされている男は、蛇口をひねって水を止め、憂いを含んだような表情になった。

「その節はありがとうございました。自分で使っています、たまに。お礼の品をご用意しようと思ったのですが、斎観が、大げさなことはするなと」
「ええ、料金も頂戴しておりますし、お礼をされるほどのことではございませんわ」

 マニキュアの一本もなぜ自分で買わなかったのか、それが気になるだけだ。繊細そうな男であるから、化粧品を買うのが恥ずかしかったのかもしれない。

 この男が同性愛者であることは、蘭香もうっすら承知している。あきらかに女性的な空気を放っているからだ。
 蘭香の師は、女性的なところはないが男が好きだ。そのあたりを今は言い分ける言葉があるのだろうが、蘭香はよく知らない。

 心に合わせて肉体を変えるほどの体力がないことも、この姿を見ればわかる。山の掟も、男に生まれついた者が女の身体を作ることは推奨しない。子を成す率が下がるためだ。
 違憲っぽいと思いはするが、それだけだ。蘭香はそうしたテーマにあまり興味を持たない。自分に関係ないからだ。子を作るかどうかは、もっと年を取ってから考えるつもりだった。

 キッチンタイマーはあと8分ほどで鳴る。パン生地を発酵させているのだ。ふくらんだ生地をスケッパーで切り分ける感触と、焼けるあいだの匂いが好きで、蘭香はよくパンを焼く。

 白威は調理台にプラスティックのまな板を広げると、洗った苺を刻み始めた。ほんの五、六個であるから、そのまま食べるのかと思っていたが、刻んだものを小さな鍋に入れて、火にかけている。

「何か作られるのですか?」
「ヨーグルトのムースを作ってあるので、苺のゼリーを薄く作って、層にします」

 発想が凝っている。蘭香ならば、ヨーグルトの何かを食うにしても、砂糖をまぶしてレンジにかけて、ストロベリーソースと言い張って添える程度だ。

 丁寧な暮らしをの当たりにして、蘭香は感心する。白威はよく台所ここを使っているようだが、その時間帯は深夜や明け方が多い。周りを気にしてのことだろう。

 今は日付けが変わったところで、蘭香は突然思い立ったからパンを焼きにきた。手のひらに苺を載せた白威が来て、引き返そうとしていたから、わたくしのことはお気になさらずと声をかけたのだ。少量の果物を調理しはじめるとは思っていなかった。
 とはいえ残る蘭香の作業は、生地を切ってオーブンを使うだけであるから、さほどスペースは干渉すまい。

 白威は手際よくケトルで湯を沸かし、粉ゼラチンを溶かして苺に混ぜ、鮮やかな赤い液をバットに流した。蘭香が見逃した間に甘味料なども入れたのだろう。

「もうできたのですか。器用でいらっしゃるのね」
「貧しいので、工夫するしかないだけです」

 変わった謙遜だ。蘭香は「まあ、そんな」としか言えない。神無の従者の待遇など知らなかった。情夫は実業家と言える姉を持つから、金に困ってはいないようだ。
 その弟弟子は、バットを冷蔵庫に入れながら言った。

「師に季節の果物を食べさせたいのですが、買うと高いので、家庭菜園で作っています。そうすると甘さが足りず、こうして手を加えないと食べたがらないので、工程に無駄が多くなってしまっています。貧乏暇なしですね」

 ガーデニングについては聞いたことがあるが、まさか生活苦に由来するとは思っていなかった。蘭香はまた「まあ」と言うしかない。
 いくらか元をたどれば、蘭香の祖父の甲斐性に行きつく気もする。しかし祖父と蘭香は別個の存在であるし、白鷺と白威もそうであるから、ここで謝るのはお門違いであろう。

 話の方向を変えるために、菓子の話をすることにした。

「斎観さんもお菓子を作られますけれど、赤とか白とかではない気がいたしますわね。茶色っぽいものが多いような」
「ふふ」

 師ほどではないが美しく、そして師よりは若い青年に微笑まれると、嬉しいものだわと蘭香は少し心をときめかせた。

 苺の甘酸っぱい匂いの中に、ほのかなシトラスミントの香りを感じる。整髪料か、フレグランスだろうか。清潔感という言葉を擬人化したような青年だ。
 神無の慰み者なのに、血肉の気配があまり無い。もう片方とはかなり違う。

 せっかく話を変えたのに、好奇心と、もっと話してみたいという気持ちが勝り、蘭香は聞いてしまった。

不躾ぶしつけでごめんなさいね? 白威さんは、神無様のところのお務めがつらくはないのですか。お給金もあまり高くないのでしたら」
「よく聞かれますが──」

 さらさらとした前髪を耳にかけながら、青年は目を伏せた。

「愛するのをやめるのは難しいことです。水を冷たいと思うのをやめられないように、あの方を愛しているという気持ちも無くすことはできません。望まれていなくとも」
「非常によくわかりますわ」

 典雅を美しいと思うことをやめられない。だから望まれていなくとも愛してしまう。どこの師弟も同じなのだろうか。

 白威は少し迷うように間を置いてから、そっと言った。

「斎観は愛されたいのだそうです。蘭香さんは、あれのことを──何というか」
「愛? そんなことを言っているのですか。キッショいですわね」

 目の前の青年が語った愛は、清涼で儚く感じられたのに、あの愛人がそんなことを言ったのだと思うと脂っこい。愛されたい? 寝言は寝て言ってほしいものだ。色舞に見限られたから寂しいというだけの、意地汚い未練を、よりによって愛とは。

「わたくし、あのおじさんを押し付けられようとしているのですか?」
「蘭香さん側のお気持ちというのを知らなかったもので。ご迷惑なら引き取ります」
「まあ、迷惑とまでは言いませんけれど、愛を求められたら困りますわね。あの方を愛する女っているのかしら? この世は等価交換だということをご存じないのかしら。お嬢様はかなり辛抱したほうですわよ」

 神無だけを愛していることはいい。しかし、その愛を信じられないことで不安になって、若い女にすがろうとする姿は、みじめの一言である。

「愛されたいのどうのと言う前に、ご自分の愛に自信を持ったらいかがとお伝えくださいな」
「つねづね言ってあります」

 この青年は体得していると、話していてよくわかる。自分が神無ならば、こちらのほうを可愛がるだろう。疑心暗鬼になってうろうろする犬よりも、自分を真っすぐ見つめる犬のほうがはるかに愛しやすい。

 自分と遥候は似た者同士であるが、斎観と白威は対照的であるように思われる。くどさと爽やかさ、油絵と水彩画、獣の臭いとミントの匂い。神無のハーレムは広範志向なのだろう。

 白威は使った道具を洗っている。その音がとても静かで、蘭香は思う。もし結婚というものをするならば、このような嫁をもらいたい。

「あなた、おモテになるのでしょうね。男からも女からも」
「そうですね。便利なのでしょうから」
「そんな露悪的なことをおっしゃいます?」
「そういうつもりでは──自分でよくわかっているだけです。味が薄ければ、あとでどんな味にも変えられるので、誰からでも選ばれるというだけでしょう」
「そういうこともあるでしょうけれど、あなたの淡さを素敵だと思う者も多いでしょう? 癒し系というやつですわ。わたくしにはとてもなれません」

 蘭香の作る菓子は不味いし、後始末もガチャガチャと音を立てながらやる。そのことを直すつもりもない。繊細な気遣いなど、師にだけ見せておけば充分だと思っている。

「苺を育てていらっしゃるのですね。見てみたいわ」
「畑をご覧になりますか? 今は暗いので、昼にでも。いつでもご案内します」
「今摘んでいらしたのでしょう? 今見たいわ」

 蘭香は年寄りっ子の三文安さんもんやすで、わがまま娘である。
 白威は作業台に蘭香が放り出しているキッチンタイマーを見た。

「何かの時間を測っていらっしゃるのでは」
「低時間発酵のパンですから、長く発酵させておく分には構いませんわ」

 タイマーを切っておいた。白威は「果たしてそうだろうか」という顔をしたが、蘭香がエプロンを外すと、何も言わずに玄関まで一緒に歩いてくれた。

 蘭香がエナメルのバレエシューズを履こうとすると、注意された。

「道のないところを上がりますので、歩きやすい靴がいいですよ」
「これが歩きやすい靴なのですけれど」
「そんなに可愛らしい靴が汚れたら、もったいないと思ったのですが」

 まあ、可愛らしいですって。別に褒められたわけではないのだが、水色のその靴を、蘭香はくすぐったい思いで履いた。

 スニーカーを履いた白威は、外に出るとスマートフォンのライトで足元を照らしてくれた。ゆっくりと歩き出す。

「けっこう遠いのですか?」
「10分もかかりませんが、少し入り組んでいます。畑には動物が集まるから、あまり近くに作るなと叱られたもので──失礼しました」
「何がです? ああ、わたくしの祖父が小言を言ったのですか。口うるさいジジイなもので、すみません」
「いいえ、正しいご意見です。私たちが短慮でした」

 短慮。あまり口語には登場しない言葉だ。文学青年なのだろうか? 蘭香は先ほどから、なぜかうきうきとした気分になっている。

 夜気は冷たく澄んでいて、土と草の匂いがする。並んでみると白威は、線の細い印象のわりに、身長はそれほど低くなかった。痩せているが肩の形はしっかりしていて、暗い森の中で頼りがいを感じる。

 都会的なのよねと、田舎の山奥で、しかも畑に向かいながら、相反する感想を蘭香は抱いている。この青年がまとう空気は、濁りがなく軽やかなのだ。そこは白鷺と似ている。顔や性格はさほど似ていない親子なのに、不思議なものだ。

「ねえ、苺のほかにも何か作っていらっしゃるのでしょう。斎観さんはなんだか、恐ろしいじゃがいもを育てていると言っていました」
「恐ろしいじゃがいも?」
「人殺しみたいな名前の」

 白威は咳払いをした。笑ったらしい。

「デストロイヤーですね。売っているのを見ないので作ってみたいと言って、育てているようですが、うまくいくかどうか。私はナスを育てていて、太っていくのを楽しみにしています。揚げびたしにすれば誰かが食べますし、それに使うミョウガも育てています」
「まあ、おいしそう」
「斎観も作りませんか? そういうものを」
「なにかこまごまと作ってらっしゃるようですけれど、あまり食べさせてくれませんのよ。手料理を振る舞うなんて、野暮ったいとでも思ってらっしゃるんじゃありません? わたくし、あの方のそういうところがね」

 作った料理を食べさせたがるようなところがあれば、蘭香とて、弱ったあの男にもっと優しく接したかもしれない。心からそう思う。

「白威さんは、神無様の花嫁なのでしょう」

 自然と出てきた言葉だ。清らかな生贄の印象である。

 嫁という呼び名は、醤油くさく、奴隷階級の意味で使われることも多い。
 そして花嫁という言葉には、奴隷となる女に、最初で最後の美しい花冠を与えてやろうという、冷ややかなエモさを感じる。だから蘭香はウェディングドレスを着た女を見るのが好きだ。沙羅の結婚式にも招いてもらいたいものである。

「斎観にもそんなことを言われます」
「言いますわよね、あの方」
「蘭香さんは典雅様の花嫁なのですか」
「わたくし? わたくしなどは女中ですわ。花嫁にしていただけたら素敵だとは思いますけれど、小姑と介護がセットですから、あまり条件のいい結婚ではありませんわね。あら、失礼」

 白威の結婚にもまた、同じセットが付属していることに気が付いたのだ。

「ごめんあそばせ。最近、神無様のお加減はいかがなのですか」
「ええ、まあ」

 この話題は拒否なのねと思いながら、次の話題を探した。

「お務めはシフト制なのでしょう? お休みの日は何をなさっているのですか」
「土を触ったり、料理をしたり、このところ裁縫もします。蘭香さんは何か、ご趣味はおありですか」
「レベルの低いお菓子を焼くくらいですわ。街へ出たりもしますけれど、それほどお金もありませんし、ひとりでぶらぶらしても退屈ですし。斎観さんはお買い物とかがあまり好きではないでしょう? わたくしがお洋服や化粧品を見ていると、あからさまにため息をつくから嫌なのですわ。顔があれでなければモテないのでしょうに、その顔を自分で嫌ってらっしゃるし、面倒くさい男」
「全文に同意です」
「もうマニキュアは必要ないのですか?」
「いろいろ欲しいとは思うのですが、通販で失敗してしまって……」
「写真と実物の色味は違いますものね。お店に買いにいらしたらよろしいのに。値段の安いものもたくさんありますわ」

 もう少しで、一緒に買いに行きましょうよという言葉に繋げられる気がする。

「白威さんはベージュ系がお好きなのですか?」
「いいえ、その件は少し事情がありまして──新しい色も、私ではなく、神無様に似合うものを探したいのです」
「あら、そういうこと」

 少しがっかりしたが、気を取り直す。

「神無様でしたら、赤や紺がお似合いではありません? お好きな色というのはあるのですか」
「キラキラ光るものがお気に召しているようです。粒の大きな、なんと言うのでしょうか」
「グリッターが入っているようなものかしら? 意外とギャルですわね」

 白威はまた笑ったようだった。蘭香を先導してくれているから、見えるのは背中だけだ。
 大男である斎観は背中の位置が高い。それを良いと思ったこともあるが、実のところ蘭香は、それほど背の高くない男が好きなのかもしれない。

 自分と白威が並んで買い物をする姿は、なかなか似合っていると思うのだが、白威はどんな女とでもそうなるのかもしれない。それが薄味で便利ということなのだろう。

 そう考えると、蘭香はなぜかちょっとむかむかとした。

「白威さん!」
「大丈夫ですか? このあたりは木の根がありますので、気を付けて」
「暗くて怖いわ! まだ着かないのですか」

 白威は振り返ると、聞き分けのない子供を見るように目を細めた。笑っている。

「困ったお嬢さんだ」
「まあ!」

 昭和の少女漫画のようなことを言われて、蘭香は小さく叫んだ。

「惚れてまいますわ!」
「すみません。私は神無様の花嫁なので、浮気はできかねます」
「もう片方はし放題なのですから、あなたもなさってくださいな。わたくし、まあまあ尽くしますわよ。きっと楽しいですわ。いっしょに果物を摘んで、いっしょにお料理をして、いっしょにお買い物に行きましょうよ。神無様にギャルのマニキュアを買って、あなたは何がお好きなの? あなたの行きたいお店に行って、わたくし、あなたに似合うものを選んでさしあげますわ」

 突然、奇妙なことを言っているだろうか? しかし、白威は女に甘えられることに慣れているだろうと思った。斎観よりもずっとだ。

「花嫁なんて、白いドレスで退屈でしょう。わたくしともっと素敵な服を買いにいきましょうよ」

 今度は自分が王子のようなことを言っている。不思議だ、そしてなんて楽しいのだろうと、蘭香は酔ったような気分になっていた。

「蘭香さんはどんな店がお好きなんですか。そういう靴は、どこで買われるんですか」

 呆れてあしらわれるかと思いきや、話を振ってくれたので、蘭香はとても嬉しくなる。

「この靴は安物ですわ。でも、ガラスの靴のようで可愛いと思いましたの。王子様も魔法使いも現れない身ですからね、自分で買うしかありませんから」
「とてもお似合いです。蘭香さんはたまに髪を上げていらっしゃるでしょう。涼しげで、水色や白がよく映えていて、可愛らしいなと思っていました」
「まあ! そんなことを言われたら、明日から毎日シニョンを結ってしまいますわ」

 斎観は一度として、これほど具体的なところを褒めてくれたことがない。顔が可愛いだの、意外と胸が大きくてエロいだの、しょうもないことしか言わなかったのだ。あまりにも大きな差である。

「土曜日はお休みなのでしょう? イオンにまいりましょうよ。わたくしが車を出しますから、お買い物をして、帰りにお茶でも飲みませんか」
「いいですね。一階の喫茶の店に入ってみたいと思っていたんです」

 本当に、なんという違いだろうか。斎観は外食が嫌いで、連れ立ってイオンに行っても、いつも一刻も早く帰りたいと主張した。

「必ず行きましょうね。お金のことは心配なさらないでください。わたくし、豚の貯金箱を割りますから」
「豚は可愛がってあげてください。シフト制で働いていますから、運転してくださる女性にお茶をご馳走するくらいのことはできます」
「まあ……」

 この胸がきゅんとする気持ちは何だろうか。恋よりは庇護欲に近い気がした。季節の果物をふんだんに使ったケーキを、いくつでも食べさせてやりたい。

 蘭香は可愛らしいカレンダーアプリを使っている。土曜日に、苺のマークをつけようと思った。とっておきの服を出そう。水色のシフォンブラウスに白いスカートを履いて、髪はシニョンに結うのだ。

 爪はどんな色に塗ろうかしらと、幸福な気分で月を見上げる。



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