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蝶のように舞えない 10話


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 万羽は部屋のふすまを開け放ち、揺り椅子に腰かけていた。眠っているらしい。

 差し込む陽の明かりで、耳飾りがきらきらと光っていた。明るいブルーの美しい石だ。飴玉のように大粒だが、きっと高価なものなのだろう。

 白いワンピースはシンプルなようだが、カッティングが凝っていて洒落ている。海外の着せ替え人形のような体型によく似合っていた。

「今日は機嫌がいいらしい」

 独り言のつもりだったが、万羽はゆっくりと目を開いた。顔を動かさず、寝起き特有のかすんだような目で沙羅を見る。

「どうしてそう思うの?」
「今日は装いが明るいから。このところ、黒い服を着ていただろう」
「喪が明けたことにしたのよ」

 万羽は微笑んだ。化粧も変わっている、と気付く。淡いピンク色を上手く使って、垢抜けた顔になっている。もとから美しい女だが、今日はまばゆいほどだ。

「晴れてよかったわね。昨日の雨で雲がなくなったんだわ。すごく降ったもの」
「そういう仕組みなのか?」
「そうなんでしょ? 地球の水の量は変わらないんだもの。地面の水が増えたら、空の水は減るはずでしょ」
「そうなのか。私は学がないから、何もわからないのだな」

 そこでようやく、万羽は身体を持ち上げた。きちんと背筋を伸ばして沙羅を見る。

「あんたにそんな卑屈なものの言い方は似合わないわよ」
「ふふ。今日はずいぶんお姉さんだな」
「そりゃそうよ。あたし、あんたの何倍生きてると思ってるの。もう誰よりもお姉さんなのよ」

 髪を切ってから万羽は老けたと思ったが、あれは暗い色の服のせいであったらしい。すっかり大人びた綺麗な女が出現し、沙羅は戸惑う。昨夜までとは別の女のようだ。

「喪が――明けたのか」

 万羽の足元に座り、先ほど聞いた言葉をオウム返しに問う。
 春のような色の化粧をした女は、そうなのと優しい声で言った。

「あたしが何色の服を着てたって、死んだ側には関係ないじゃない? だから、あたしの気が済んだらおしまい」
「気が済んだのか?」
「あたしって昔から夢を見るのよ。死んだ相手が夢に出てきて、起きたらすっきりしてるの。夢枕に立つなんて言うけど、たぶん脳の仕組みなのよね。いつまでも悲しまないようにっていう」

 そうかと相槌を打ちながら、沙羅は釈然とせずにいる。理屈はわかるが、それほどきっかりと気分を切り替えられるものだろうか。機械の操縦ではあるまいし。

 万羽は「ねえ」と柔らかい声で言った。

「新しい化粧品を買いたいの。秋っぽいやつ。これから街に行ってもいいでしょう」
「これから? 悪いが、明日にしてくれないか。夕方から約束がある」
「あたしひとりで行けるわよ」
「――そういうわけにはいかない。お前も、私もだが、今は免許証を預けているのだから。もう少し落ち着いたら、返してもらえるように会議で言ってみるから」
「そんなの、どうせ豪礼がごねてダメになるんでしょ。あたしたちのこと思い通りにしたいんだもの。あれってホントにDVよ。子供だけじゃ気が済まないでさ、ばっかみたい」
「確かに馬鹿みたいだが、あまり大きな声で言うな」

 皇ギの耳にでも入れば面倒なことになるのだ。話を変えたほうがいいだろう。

「素敵な耳飾りだ。空色の宝石だな」
「ブラジルのトルマリンなんだってぇ。かわいいかと思ったんだけど、なんか和泉の目玉みたいよね」
「そうか? 先生の目はそこまで明るくないだろう。アクセサリーの擬人化のような女だとは思うが」
「あんたはあんまり飾らないのね。お葬式のときにはグレーパールのネックレスしてたけど」
「欲しいとは思っても、店屋に行くと気後れしてしまう。似合うような服も持っていないし」

 そういえば、季節によって化粧を変えようと思ったこともない。服を買うときも、つい同じようなものばかり選んでしまう。

 万羽は喪服――そうだということに沙羅は気付かなかったが――もいいものを着ていた。外国製の、変わった位置に縫い目のある、上品に曲線が出る服だ。庭に少し出るようなときも、リボン飾りのついた美しい靴を履いていた。

 流行の最先端というわけではないのだろうが、上質な可愛らしいものを身に着けている。経済力と、華やいだ精神とがなければ成されないことだ。

 沙羅にはどちらも欠けている。貯金がないわけではないが、宝石を気軽に買えるほどではなかった。

「お前はいい女だな。可愛いし、可愛げがある」
「そお? それっていいこと?」
「もちろん。どちらも大事なことだ。赤ん坊などそれ一本で生き延びている」
「うふふ、赤ちゃんは可愛いものね」

 万羽は笑ったが、少し困ったように首をかしげて、それからうつむいた。髪がさらりと流れて、顔を隠す。

「皇ギだって……赤ちゃんの頃は可愛かったのよ。子供の頃だってお利口だったの。今よりずっと小さくてね」

 それはそうだろう。あの女狐のような女でも、子供の頃は小さかったのであろうし、赤子の頃は愛らしかったはずだ。今でも顔は美しい。

 万羽はふーっと長く息を吐いた。

「あたしが悪いと思う? あたしのせいで、可愛かった皇ギが……あんなふうになっちゃったんだと思う?」
「お前のせい? どういうことだ。あの女はああいう気性というだけだろう。誰かによってどうにかなる女ではないと思うが」

 明るい色の服を着ても、まだ気分の不安定さは残っているらしい。

 父親と友が立て続けと言ってよい期間に亡くなり、万羽はひどく乱心した。卑劣にも、それを指して心神喪失とし、彼女の権利や自由を没収したのは、まさしく皇ギである。

 快復すれば戻してやると言ってはいたが、それが果たされるのかどうか。万羽が高齢であるのは事実だ。

「……色舞のことをみなの前で罵ったのはまずかったな」

 万羽は黙って青い耳飾りに触れた。

「私の言えたことではないが、お前ももう少しうまく立ち回りができないものかな。典雅に嫌われては、できることもできなくなるぞ。お前はもう自分で自分を守るしかないのだから」
「わかってるけど……」
「なんとかして、もう少し――権力が偏らないようにしたいとは思うが。私にはそのやり方もわからない」

 よしんば財政の腐敗を暴いたとして、せいぜい皇ギを補佐から外せるかどうかだろう。それでも、あの女が関与している悪が多すぎるため、かなりましになるとは思うが。

 豪礼とて一族の破綻を目指しているわけではあるまい。王冠を与えておけば満足するはずだ。

 厄介なのはむしろ、刹那の中途半端な君臨だ。豪礼の傀儡でいる分にはさほど情勢は変わらぬが、別の操り手がつくとまずい。いや、というよりも――

 沙羅がもっとも気を揉んでいるのは、あの長老が突如正気など取り戻しはしないか、ということだ。豆腐の角で頭を打って、かつて大蔵省であったことなど思い出されては、幹部会の断裂は避けられない。

 そうなれば、自分の両手で綱引きをされることは目に見えている。真っ二つに裂けるのは嫌だ。

「どうして……刹那を生かしているのだろうか」

 それが沙羅にはわからない。後顧の憂いの塊のような存在であろうに。

 万羽は顔を上げた。悲しげな表情を浮かべている。

「そんなこと言っちゃだめよ。それに、そういうこと言い出したら、最後に誰も残らなくなるわよ」
「私の人望がなくなるという意味か?」
「それだけじゃなくて、焼け野原になるじゃない。刹那がいなくなったら和泉が邪魔になるし、和泉が邪魔になったら魔女裁判みたいなことが始まるじゃない? そしたらもう泥沼でしょ」
「それは……本当にそうだな」

 自分は本当に何もわかっていないと思った途端、息苦しくなった。

 あの広い家具屋に行きたい。遊園地にも。この屋敷の空気は吸いたくない。

 万羽が心配そうな顔をするから、沙羅は胸を掻きむしることもできない。




 聴診器を通さずとも、長老の呼吸の濁りは聴き取れる。
 慢性化して長い。この肺でよくこれだけ持っているとも言える。

「このところ変わりはありますか?」

 和泉の問いに、可憐な長老派は浴衣の前を直しながら、「別に」と答えた。

「良くなることはないのだろう」
「経年劣化ですからね。薬はまだ残っているでしょう」
「なんかあ、巾着に入れていたのだが、巾着ごとなくしてえ」
「またですか」

 鎮痛薬を出せば出しただけ飲んでしまうのだ。麻薬中毒者であるから、やめろと言ったところで聞かない。孫娘は呆れて管理を投げ出している。

「あまりそういうことをされると、痛むたびに僕が注射するしかなくなりますよ」
「やだあ~」
「そうでしょう。しっかりしてください。政敵も多いんですから」
「今それ関係あるか?」
「支持者に見損なわれると、鞍替えされますよと言っているんです。信用は貯金と同じですからね。使えば減りますよ」
「うん」

 神妙な顔をしているが、どこまでわかっているのやら、である。このやり取りも一度や二度ではない。

 いまさら更生するものとは和泉も思っていない。加減を考えろという意味なのだ。

「俺の政敵はどうだ。筋骨隆々か?」
「なぜ体格の話を? 筋肉はあまりないようですが、頑強ではあるでしょう。身体能力で勝ち目はないので、挑まないでくださいね」
「呪いは通じるタイプのような気がするんだよな」
「不幸の手紙で不快になるタイプという意味なら、そうかもしれませんが」
「それは誰でも不快だろ。不幸の手紙を受け取ったあとに不幸があったら、手紙のせいだと思うタイプだ。そのタイプは幽霊も信じるから、夜中にでかい音とか出したら、ワンチャン心臓発作とか誘発できるかもしれん」

 世界一どうしようもないことを考えている。平和でけっこうなことではあった。

 この長老の心肺では、もはや運動もセックスも望めない。益体もない話をすることも大事だろう。

「幽霊を信じるタイプは呪われるんですか?」
「イコールではないが。手紙が来たから不幸になったというのと、死者が怨念を残したから幽霊になったのとは、まあ似たようなもんだからな」
「事態と原因を勝手に結ぶ、その線を見出すかということですか」
「それはもっとも表層的な解釈だな。幽霊は事態とも違うだろう。――お前にはわからんだろう。呪いも通じんし、幽霊も見えんタイプだ。弥風がそうだった。死んだ者と二度と会えないというのも哀れなことだな」
「幽霊をそう解釈しますか? 幽霊は――悪霊でしょう。会いたいものではないと思いますが」
「お前にも祖霊信仰が全然わからんわけではないだろう。死ねば穢れというのは野蛮な考えだ」
「人口密集地には霊も密集しているんですか? 合戦跡地なんかはぎゅうぎゅう?」
「なんかそういうもんではないのだ」

 別に論破したかったわけではない。むしろ、もう少し談義を聞いてやろうと思ったのだが。

 長老は耽美な顔に似合わぬしぐさで頭をばりばりと掻いた。

「幽霊とか呪いとか、馬鹿馬鹿しいぞ。そんなもん存在しない。敗者の言い訳だ」
「急にキツネでも憑いたんですか?」
「耽美でカッコイイかと思って、そういうふりをしたこともある。克己は責任逃れのために、毒薬を神秘の粉とか呼んでいるが」
「スピリチュアルの悪の側面ですね。大きな音で心臓発作を故意に引き起こしても、幽霊のせいにしようという」
「それで帳尻が合うなら、合理だという考え方もある。悪人はおらず、悪霊を祓って、めでたしめでたし」

 それは、悪人と悪行を滑走させる合理性である。
 謀殺を天誅と解釈するようになれば、神罰の下し放題だ。より強い殺傷兵器を持つ者が神の座に近付く。もはやジャングルのゴリラと同等の世界観である。

 政治とは結局、そういうものなのだと思うこともある。軍事力を背負っての睨み合い。倫理も貨幣も爆弾で焼ける。宇宙人から見れば、猿の惑星であろう。

 この長老は、それを嘆く側であったはずだが。

「沙羅さんがあなたを心配していましたよ」
「言葉というのはミラクルなものだ。早く死なねーかなという気持ちも、長く生きてくれという思いも、どちらも心配ということになる」
「ミラクルて。語彙力が死んでいますよ」
「なんか虚しいなあ。妙に長く生きて、若いもんに疎まれて。やな老後だなあ」
「自虐は周りを巻き込みますよ。あなたに元気でいてほしいという、僕や蘭香さんのことを無視しないでください」
「うーん。ごめん」

 自分の物の言い方もひどいものだと、和泉は反省する。愛しているからそんなことを言わないで、とだけ言えないものか。いや、愛しているから弱音を吐くなというのも、飛躍と暴力か。

 カウンセリングの基本は肯定なのだ。何かと反証で考えてしまう自分は、カウンセラーには向いていない。西帝の兄や色舞の、診察室を出て行ったときの顔を思い出す。とても爽快とは言えないものだった。

 消去法で残ったものしか信じられないという、自分の性を思う。

「宣水はどうしているんだ」
「え? さあ。死んだら連絡が来るでしょうから、生きていると思いますが」
「此紀が死んだことくらいは誰か報せたのか? 知っていて一度も帰って来ないなら、薄情なことだな」
「父の薄情は今に始まったことでもないでしょう。あれはもう病気なんですよ。そう思えば腹も立ちません」
「万羽だって心細くて甘えたいだろうに」

 和泉から見れば、万羽も和泉の父も、そう年は変わらない。しかし長老の中では、万羽はか弱い女であり、父は冷酷な男であるらしい。
 あの潤んだ黒い瞳が、いつまでも幼いと思わせるのだろうか。口を開けばそれなりに老獪な女だ。それとも、あの毒舌も男に対しては発揮されないのか。

「あなたから見ても万羽さんは心配ですか」
「お前のことも心配だ。蘭香や沙羅はまあ大丈夫だろう」
「目が節穴だ」

 和泉が見る限り、もっとも限界に近いのは沙羅である。言動に奇妙なものが見られ、顔色も悪い。あきらかにストレス過多だ。
 彼女の父親はとうに亡くなっており、兄弟もいない。師との関係は良好だと聞くが、あの師では心の安らぎにはなるまい。兄弟子も話になりそうにない。

 彼女はひとりだ。平穏なときにひとりなのと、苦境にひとりなのとは違う。どれほど精神性が自立していようと、周りの助けが必要なことはある。

 和泉は女を慰める方法を知らない。色舞の軽蔑のまなざしを思い出す。

「ずっと年の若い女性を慰めるには、どうしたらいいんでしょうか」
「そんなもん抱き寄せてブチューだ」
「そうか! わかりました」

 色舞の嫌悪感を今こそ理解した。あのとき、自分はこれとたいして変わらぬことを言ってしまった気がする。

「勉強になりました。ときには聞いてみるものですね、周りに」
「そうだろう」

 長老は胸を張った。


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