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蝶のように舞えない 9話



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 平然としている姉に代わって、自分が頭を抱えたいほどの損失額である。

「お菓子食べる?」

 狭野の衝撃を無視して、のんきにハンドバッグを開けている。キャラメルの小箱が出てきた。コンビニで売っているような駄菓子だ。

 姉は細かい菓子を常備している。煙草を吸うくせに、口の中に苦味が残るのが嫌なのだそうだ。

「そんなもん食わない。それより、もう信用取引はやめてくれ。そんなに損をしてるんなら」
「損をしたくてしたわけじゃないわよ」
「誰だってそうだろ。私財ならともかく、使い込んで溶かしたんだろう。FXもこの前ハイレバレッジかけて負けてただろうが。バレたらどうするんだ」
「バレやしないわよ」

 包み紙を剥いてキャラメルを食っている。顔立ちが険しいゆえに、こうした仕草が妙に愛らしく見える。得をしている女だ。

「帳簿を見るのなんて、蘭香か色舞くらいよ。小娘が何を言ったって、どうってことはないわ」
「小娘なのは見かけだけだろ。典雅様のお嬢さんのほうは、もう初老くらいの年なんじゃないのか」
「それなら小娘でしょ」

 腕を組み、大きな胸を寄せて持ち上げるのは、洋装するようになってからの姉の癖だ。主として誰かを小馬鹿にするときに行っている。
 乳房の質量がどうこうというよりは、体格に優れ、生物として強いのだということを誇示しているのだろう。日本建築のこの屋敷の中で、板張りのエリアでのみとはいえ、靴を履いているのは姉だけだ。もともと長身の女だが、ヒールで底上げされ、頭の位置は男にも劣らない。

 かといって、男の姿で暮らしたいとは思わないらしい。それは自分の望みでもある。もちろん姉に明かしたことなどないが。

 女に顎で使われることは我慢できても、男となれば無理だ。

 姉だから許すことができる。父には耐えられない。

「あんたは心配性ね」

 狭野が黙り込んだことを、姉なりに気にしたらしい。

「勝ったときに補填するから大丈夫よ」

 もっとも大丈夫ではない者の言うことである。

 姉は見かけが凛としているため、なんとなく理知的な雰囲気を漂わせているが、少なくとも金策についてはポンコツだ。なまじ英語ができるために、新しい分野で損失を出している。

「――そんなことより、聞いたわよ。あの金髪の女に」

 真後ろに倒れそうになった。

 持ち直す。

 どうせ何か――別の――つまらない話だろう。それがテンプレートというものだ。

「寝たんですって? あの女と」

 姉はテンプレートな女ではないのだった。

「なんで? 俺にはプライバシーっていうもんがないの?」
「懐柔されたんじゃないでしょうね?」

 ふうっと、紫煙でそうするように、甘い香りの吐息を吹きかけてきた。

「あの女は食わせ者よ。性格を感じさせないくらい整ってるから、男はコロッと騙されるのかしら? どんなに綺麗な女だって、腹には生々しい目論見を抱えてるものよ」
「よく知ってるよ。でも、あの先生はそういうのでもないだろ。もう少し目論んだほうがいいくらいだ」
「それがああいう女の手なのよ。ちょっと足りなくて危なっかしいふりをして、油断させて引き込むの。わかるでしょ? あの女が足りないわけないじゃない」
「……それはそうだな」

 姉の言う通りという気がしてくる。キツネにつままれたような気分でいたが、陰謀に引っ掛けられたのかもしれない。

「あの女はあんたに取り入る気なのよ。お父さんとは仲が悪くても、あんたを抱き込めばどうにかなると思ってるんでしょ。長老派ができることなんて、もうそれくらいしかないじゃない」
「そうだな……」
「そうよ。長老派の女なんて信用できやしないわ。あんたは素直なところがあるから心配なのよ」

 長い腕を伸ばして狭野の頬に触れてくる。黒い手袋の、薄い絹の感触。一瞬で離れた。

「あたし以外の女なんて信じちゃ駄目よ。いい? あんたはあたしとお父さんの言うことだけ聞いてたらいいの。余計なことを考えないで」
「ああ……。……いや! 危ねっ!」

 我に返る。
 また洗脳されるところだった。

「操縦するな!」

 極悪な姉はてへぺろの顔をした。

「あんたは最近、賢くなっちゃってつまんないわね」
「誰と比べてるんだ? 西帝のことも操縦するなよ」
「操縦されてるほうが楽で幸せじゃない? あたし、幸福の最終形態って、脳に電極みたいなの刺して快楽信号を流すことだと思ってるのよ」
「よくそれ言ってるが、悪の操縦者に苦痛の信号をずっと流されたらどうするんだ」
「そのときはあんたが助けてよ」

 危なっかしいふりをして男を操ろうとするのは、自分ではないか。

 肉体を強そうに見せたと思えば、内面の隙を隠そうとはしない。煙草を吸って菓子を食う。洗脳を仕掛けててへぺろ。
 緩急のある女だ。自分の心にブレーキをかけようという発想がない。

 暴走特急の頭を撫でる。

「何よ!」

 こうすると怒るのだ。馬鹿にされていると感じるらしい。

 手をはたき落された。

「べっ殺すわよ!」
「べっ殺さないでくれ。姉貴は運動とかしないのか」
「どういう意味? あたしが太ったっていうの?」
「そんなわけないだろ」

 性格がどれだけ凶悪であろうが、容姿は美しい。完璧だと思ったこともある。

 ――肌の色は黄色いが。

 どうやら、この世で一番綺麗な女というわけでもないらしい。お妃様の風格はあるが。

「世界で二番目止まりだな」
「あんたまさか、あの女とあたしを比べてるんじゃないでしょうね。べっ殺したわ」
「已然? せっかく綺麗に生まれたんだから、性格も少しは良くしたらどうなんだ」
「あたしは性格の悪さで美しさが増すタイプなのよ。黒蝶真珠だわ。性格のいい女なんて、わかりやすくてつまらないでしょ。たいした快楽信号出さないわよ」
「……そうでもねえよ」

 ふうんと言って、顔を覗き込んでくる。「あたしが顔を覗き込んでいるのよ」と主張する仕草。
 いわゆる男顔の美人であるが、その系統の女が必ず持つ、透き通るような肌とはっきりとした瞳が、姉の場合は特に絶妙な色気を出している。か弱さを隠し持っているのではないかという、男の幻想のような気配だ。

 実際のところ、姉の内側にそんなものはない。それを知っているのに、なぜ騎士の役割を演じてしまうのだろうか。

 ――子分か。

 自分は誰かに従属していたい性分なのかもしれない。結局、脳に電極を刺され、それが快楽であろうが苦痛であろうが、信号で操縦されていれば楽なのだ。

「損失は俺がなんとかする」
「いいのよ。あたしが――」
「俺がなんとかするから」

 「そう」と、姉は花が咲くように微笑んだ。

 その花は、彼岸花や、夾竹桃であろうが。




「メチャ横領してるわね。完全に」

 左手に赤い酒の入ったグラスを持ち、右手で帳簿をめくりながら、父はそう言って甘い匂いのため息を吐いた。

「色つけんなよ。バレたら沙羅さんの立場がまずくなる」
「つけないわよ。いやー、内部ってこんなことになってんの。ひっどいわね。何百万とかなら、帳簿つけてるやつの決裁権のうちだろうけどさあ、今年だけで4ケタ行ってそうなカンジよ」
「マジで?」
「だって駐車場の整備とか、玄関と風呂の改装って。整備も改装もしてないでしょ」
「なんか風呂場は綺麗になってなかったか?」
「あんなもん脱衣所にフローリングマット敷いただけでしょ。せいぜい3万とかそんなとこよ。絶対に300万はかかってない。ってか、床板剥がして新しくしたとしても、絶対にそんなにかからない」
「そりゃひでえな」

 それほど大胆な横領を行っていて、誰も気付かなかったのか。
 もしくは、気付いていても止められなかったのか。この帳簿を触る権利を持つ者は、長老と次期長老、そして彼らの補佐役だけだ。
 豪礼に、たとえば蘭香が歯向かうさまを思い浮かべる。怒れるヒグマと、目がうるうるとしたチワワ。

「こういうのって幹部会で報告あるんじゃねえの? 風呂の改装にしても、改装するからいくら使うとか、事前に話すもんだろ」
「ないない、そういうの全然ない。せいぜい事後報告よ。ま、それなら横領するわよね」
「何千万も横領されて平気なほど幹部会って資金蓄えてんのか?」
「まあ今すぐどうこうってワケじゃないでしょうけど、5年後はヤバいんじゃない?」
「5年って、今すぐの範囲だろ」

 父は帳簿を閉じて、のんきな顔で首をかしげた。

「幹部会の財政が破綻したからって、アンタに関係ある? 山の権利書までは持って行かれないわよ。ここにはずっと住めるんだから、今とたいして暮らしは変わんないと思うけど」
「そういうもんか? なんかインフラとかよ」
「もちろんそういうのを維持するのにはお金が必要だけどさ。幹部会がわやになったら、新しい自治体制を作りやすいんじゃん? 横領でパンクした長老の言うことなんか、もう誰も聞きやしないわよ。暴力だって、適切に使わなけりゃ権力の補助にはならないんだから。過去にゴリラが君臨できたのは、大臣がちゃんとしてたからよ」
「新しい体制になったとしたって、誰が指揮を執るんだよ」
「指揮って必要?」

 東雲よりずっと長い時間をこの山で暮らしながら、父の発想は一匹狼だ。精神が集団に属していない。
 それを立派だと思うこともあるが、沙羅のような者にすべてを押し付けて、無責任を謳歌しているとも言える。複雑な気分だった。

「それより、これめっちゃおいしいわよ。飲んだらいいのに」

 赤い酒の入った瓶を小脇に抱えている。自分で漬けた果実酒なのだそうだ。

「赤いもんには毒が入ってるからいらねえ」
「入れてないわよ」
「そりゃお前は入れてねえだろうよ。台所から持ってきたじゃねえか。誰でも出入りできる場所に、そんなもん無防備に置くなよ」
「アタシを毒殺して、誰になんの得があんのよ」

 それは、冷静に考えればその通りなのだが。

 どうも先日の蘭香の話が気にかかっている。

「お前が恨みを買うタイプじゃなくても、愉快犯とかいるだろうよ」
「愉快犯を警戒したらなんもできないでしょ。適量の酒は精力つくわよ、たぶん」
「俺の精力を心配してくんなくていいわ」
「だって最近弱いじゃん」
「なんで知ってんだ! 気持ち悪りいな」

 おそらく師からあれこれと聞いているのだ。昔からそうだろうと思うことはあり、心底やめてほしいのだが、そう乞うのも大人げない気がする。

 父はきょろりとした三白眼で東雲を見た。

「アンタは育ちがいいのよね」
「お前が言うことじゃねえだろ」
「残念だけど褒めてないのよ。なんか、誘導尋問とかに全部引っかかるっていうかあ。顔のわりに根が真面目なのよね。克己にいいようにされてない?」
「それ沙羅さんにも言われるなあ。俺ってそんなに間抜けに見えるのか?」
「見る目がないのよ。和泉もたいして性格のいい女じゃないわよ」
「うそーん」

 金髪の女医の性格の美しさを信じていたわけではない。
 どのように思い返しても、あの女をいいと感じているということは、西帝にしか語ったことがない。悪く言うと、西帝を多少軽く見ているからこそ、彼に対してだけは口が滑ったのだ。
 父と西帝に接点があるとは思えない。

「車に盗聴器つけてんのか?」
「何言ってんの? まさかアタシの車でカーセックスしたの? 汚ねえなあ」
「するにしてもお前の車は選ばねえよ。つか、カーセックスの話すると吐き気を催すんだよ俺は。いや、なんで先生のこと知ってんの?」
「知ってるってほどじゃないけど、見てりゃわかるわよ。あれは性格が優しいとかじゃなくて、倫理観が欠如してるって言うのよ」
「先生の性格の話じゃねえよ」

 追及が面倒になってしまった。この真相は闇に葬られるのだろう。

「っつうか、先生って倫理観が欠如してんの? どういうとこが?」
「メチャ尻が軽いじゃん」
「マジで? それは耳寄り情報だよ」

 自分が身を乗り出していることに気付く。育ちがいいだの真面目だのというより、軽薄で物事を深く考えないだけなのではないか。

 父は唇を尖らせた。

「やめときなさいって。外国人抱けるソープとかあるんでしょ? そういうのにしときなさいよ」
「外国人はソープにはまずいねえんだよ。法律でそうなってるらしい。だからデリヘルだな」
「ほーん。それはソープと何が違うの?」
「なんで俺がお前にそれを教えなきゃならねえんだ。働くのか? お前はちんちくりんだから高級店は無理だぞ」
「やっぱ高級とかそうじゃないとかあるのね。そういうのっていくら稼げんの?」
「俺の女は日給6万とか言ってたかな。あんま好待遇じゃねえらしい。まあまあ美人だけど腹が出てんだよな」
「まあまあ美人なのに好待遇じゃないの?」
「顔より体型が重要らしいぞ。ほれ、顔はいじれても身体は難しいだろ。服で誤魔化しもきかねえ仕事だし」

 ふんふんと頷きながら父は赤い酒を飲んでいる。
 女ではあるが、色気もそっけもないタイプだ。風俗店で働いたところで売れまい。

 山の財政が破綻したら、ひょっとして自活を強要されることがあるのではないか? 東雲はそのことを億劫に思う。自分には就労経験などない。

 父は昔から、こまごまとした仕事をしているようだ。しかし日給は6万より高くはあるまい。

 愛人のヒモになる道が手早いが、それが楽かというと、そうは思えぬ。あの情緒不安定な女からまとまった金を引っ張るのは、かなり骨が折れるはずだ。

 これまで経済的なことについては師を頼っていた。だが師も高齢だ。慣例上、師の遺産が従者に継がれることは少ない。遺言書を作っていれば別であるが。

「そういや、沙羅さんって手当てとかもらってんのか?」
「知らんわい」
「その帳簿にそういうのが書いてねえのかよ」
「執行役員には手当てが出てるけど、誰が役員なのか、どう割り振ってるのかはぜんぜん書いてないわ。これも横領のための名目でしょ」
「執行役員って、幹部のことじゃねえの?」
「昔はそうだったけど、今は違うわよ。長く生きてることと政治がわかることは別だし。なんにせよ、今は全部が不透明だけどね」
「お前が長老になったら、俺を役員にして手当てを出せるみてえな話か」
「まさしくそうよ。超よくあるズル。ズルっていうか、まあ、常識の範囲でやってりゃ権利のうちなんでしょうけど」

 父は汚職にも財政破綻にも興味がないらしい。もちろん権力にも。

 沙羅はどうなのだろうか。この帳簿を誰かに見せてほしいと言った、あの切羽詰まった声の真意を考える。

 その誰かというのは、少なくとも父ではなかったようだ。

 ――典雅様か?

 禁治産者を飛ばせば、それが順当であろう。

「なんでこんな帳簿をつけてんだ? どうせ紙に残すなら、もっとクリーンなように改竄すりゃいいだろうに」
「身内用なんでしょ。ていうか、改竄してコレなんだと思うけどね。たぶん使い込んでるっていうよりも、事業かなんかやってるんじゃない? あとで補填するつもりがあるから、テキトーな名目で、額だけは正確にしてるんだと思う」
「5年で破綻するんだろ?」
「補填されなければね。意外となんとかなるかもしんないし」

 適当な女だ。意見を求める相手を間違えた。

 帳簿は早く返さねばならない。

 どうしたものかと、東雲は考えをめぐらせる。


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