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蝶のように舞えない 0話



 幼い頃、父はよくギターを弾いてくれた。

 譜面があったのだろうか、即興だったのだろうか。子供でもなんとなく聴き覚えのあるような曲を、しゃれた楽器で鳴らす父の姿は、眠気のような甘い喜びと、そして感傷をもたらした。

 父はたいそう美しい男であったから、山ほどの女から心を寄せられていた。
 そんな男が楽器まで演奏するのだから、もはや容赦がないと言うべきだ。鬼に機関銃である。

 罪作りと言うのだよと、兄がこっそり教えてくれた。蜜をまき散らすだけまき散らして、虫が寄ってきても知らん顔。
 いらんことしいの冷血男やと、伯母は関西弁で評していた。蝶であった女たちが、虫に変わって地を這う姿を、冷ややかに見限るだけの男だと。

 伯母の言う通り、父は女に冷たい男であった。どんな美しい女にもすぐに飽き、そうなれば残酷なものだ。気持ちの失せた女に、父が会うことは二度とない。連絡を無視し、拒絶し、すぐに忘れ去ってしまう。
 父はおそらく、女という生き物がもともと好きではないのだろう。虫が嫌いで、蝶ならまし、という程度に思っているのではないか。
 美しい蝶ならば指にとまらせてみるが、虫に変じた途端に捨てる。
 父の指にとまった蝶は、必ず虫になるのだから、捨てるために呼び寄せるのだ。ひどい男だと思う。

 ――蝶々って虫やけどね。
 ――言わんとすることはわかるわ。羽根を恋の炎で焼かれて、青虫やったことを思い出してまうんやろう。

 伯母が言うほど詩的に考えていたわけではない。恋の炎はJ-POPっぽすぎると思う。そう言った。

 ――やかましわ。

 デコピン。
 子供を甘やかす父にかわって、兄や自分を叱ったのは伯母であった。

「色舞」

 兄に呼ばれて、うっすらとした白昼夢のような追憶から覚める。

 不思議なもので、突然、木々が風で揺れる音、木漏れ日の明るさ、土や草のにおいを感じた。
 私はずっとそこに立っていたのに、過去の回想にふけっているあいだは、身体の五官の機能ごと、ここから離れていたようだ。現実から逃避していたのかもしれない。

 広い庭を歩いてくる兄は、どこか獣道でも突っ切ったのだろうか。黒い革靴が土で汚れている。
 それほど背が高いというわけでもないが、足が長いのだろう。今日のようにスーツなどを着ると、すらりとして恰好がいい。兄の外見は父に似ている。

「普段から洋装なさったらよろしいのに」
「いかんいかん。はあ歩きはばってえ」

 このあたりの古い方言が、顔に似合わないとしみじみ思う。テレビに出ていてもおかしくないような美青年であるのに、あるいはそのせいで、ジョークのような雰囲気になってしまう。
 なるほどとも思う。普段のように和装であれば、これほどは奇妙に感じない。
 それにしても、昔はもっと、癖のない言葉を話していたと思うのだが。

「おめえ、はあこんなとこさ立って、あじしてる。墓におらねえ気はしたが」
「兄さんや父さんを待っていたんです。お墓には行きたくないの」
「ばちあたりめ。伯母さんとのお別れだに」
「そこに伯母さんの魂はないもの」
「むかし流行ったJ-POPでねえか」
「『千の風になって』のことですか? あの歌はもともとアメリカの詩ですよ。恥ずかしい」

 ふんと鼻を鳴らして、兄は空を仰ぎ見るようにした。

「実際、魂なんてもんはねえべさ。生前の面子か、生きてるもんの慰めのためん葬儀だ。だけんおめえも来たほうがよかんべえに」
「もうお骨は埋めたのですか?」
「まだ父様が掘ってる。俺は便所さ行くとこだ」

 兄は嘘が下手だ。手洗いならば、この庭は通り道ではない。
 私のことを呼びに来たのだろう。
 ため息が漏れた。

「でも、まだ――揉めているのでしょう」
「揉めてるだの言うほどのもんでねえ。万羽様がゴネてるだけだ。みんな、父様がもらうもんだと認めてる」
「片方ずつ分けたらよろしいのに」
「対のもんさ分けるのは、縁起が悪いべ。だいたい、万羽様が出しゃばるのは図々しいってもんだべ。誰のせいで伯母さんさ、あじして早くおっ死んだと思ってんだ」
「万羽様のせいではないでしょう。あの方も悲しいのよ」
「行動が伴ってねえ」

 日頃は穏やかで無口な兄が、怒りの言葉をはっきりと口にする。
 兄もまた悲しいのだろう。よく見れば、目の縁が赤くなっていた。

「愛を怒りで表現するのは悲しいわ」
「J-POPでねえか」
「どちらかというとロックでは? 兄さんが怒っているように、万羽様も悲しくて、黙っていられないのでしょう。優しくしてさしあげて」
「悲しみ方が大人げねえっつってんだ。いい年さして、ガキみてえにダダこねて。化粧も濃すぎる」
「化粧はよろしいでしょうよ」
「何かにつけて過剰なんだ。抑制さ足りねえ。大人げねえ」

 息苦しい。兄の発する怒りが、あたりに充満して、空気が薄くなったような気がする。
 そして、兄はそういうことを言っているのだろう。万羽という女は、強く燃焼して、周りの酸素を消費していると。

 兄の憤りはよくわかる。
 けれど私には、彼女の悲しみも理解できるのだ。

 彼女はすべてを失ってしまった。親も兄弟も、師も、そして友も。
 喪主の座も、彼女には与えられなかった。彼女は親と同時に、権力をも失ったからだ。正確には、そのほとんどを。

「おめえも行ってやれ。墓に」
「――私はここで」
「父様のそばさ居てやれ。俺ではおいねえ。おめえでなければ」

 そこで私は、また目が覚めたような気がした。

 父も、早くに後ろ盾を亡くした男だった。伯母――父にとっての姉――に支えられて、ようやく私たちを育てていたことを知っている。

 伯母はいなくなってしまった。

 私が支えることはできるのだろうか。

 背中、肩甲骨のあたりを、すうっと触れられた気がして、振り返る。
 そこには誰もいない。羽根が生えているわけもない。あんたの羽根は綺麗よと、笑ってくれた伯母ももういない。

 心細さと、悲しみが噴き出すようにあふれて、私は兄に返事をすることができない。


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