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蝶のように舞えない 14話


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 東雲が去ったのち、といっても夜が明けて昼になるまでのインターバルを挟んだが、次の客は皇ギだった。

 沙羅が身体を起こそうとすると、黒い手を伸ばして止めた。

「寝ていなさいよ。また血が出たら汚いわ」
「そうだな」

 この女を憎いと思ったことはない。たまに、倒錯的な気分を抱くことさえある。ストックホルム症候群というものだろうか。

 あるいは、自分はこの女を憐れんでいるのだろうか。その手は黒く、足元も。心もきっと黒のさなかにあるのだろう。この女の世界に、光というものはあるのだろうか。

「血が止まったら、裏庭を掃除しておいて。雨が降ったから汚いのよ」
「わかった」
「おかしな女ね、あんたも」

 布団のそばに座って、毛布の上から、沙羅の下腹部のあたりをそっと押さえた。

「何をされても抵抗しないし、そのわりに歯向かおうとするし、何がしたいの。ここをずたずたにされて、考えることが帳簿の流出?」

 そこは破壊と治癒を繰り返され、もはや元の形ではあるまい。
 しかしそのために、具合が良くなっているのだそうだ。ならばいいと沙羅は思っている。もともと、女としては不具のような肉体だ。傷がつくことは構わない。傷ついていると思われるのは嫌だった。

「帳簿を誰に見せたの?」
「誰にも見せていない」

 何度も何度も、皇ギは同じことを問う。沙羅が同じことを言い張るのを楽しんでいるのだろう。

 帳簿を兄弟子に預けたことを、自分は殺されても言わないだろうと沙羅は思う。言えば、彼が同じ目に遭わされるかもしれないからだ。それは耐えられない。

 沙羅の肉体などもうどうなっても構わない。しかし、親切にしてくれた兄弟子がこんなことをされるのは駄目だ。あの男は痛みに弱い。刺青を入れる時も半べそをかいたと言っていた。

「どうしてそこまで東雲を庇うの?」

 知っていて問うてくるのだ。推理や推測というほどの話でもあるまい。沙羅には、ほかに頼るあてなどない。師のことは多少疑っているのかもしれないが、腰を上げる男ではないと思っているのだろう。

「愛しているの? 東雲のことを」
「愛……?」

 おかしな言葉だ。少し、汚らわしいと思った。だから言い返す。汚らわしいことを。

「私が愛していたのはお前の父親だ。かつてはそうだった。今も、そうなのかもしれない」
「そう?」
「お前はなぜ私を憎む? そこがわからない。今回は懲罰でも、いつもは私刑だろう。憂さ晴らしか?」
「そう思うの? あたしがかつて、自分がされたことを、若い女にして心を慰めていると」
「いや? そんな風に考えたことはない。お前はそんなに湿っぽい女ではなかろう」

 皇ギの暴行は、高い場所から振り下ろすようなエネルギーによって成される。沙羅はそう感じていた。

 サディストではあるまい。子供がむずがるようなトラウマでもない。君臨には暴力が必要であると信じているのかもしれないと、沙羅はそれを仮説としている。

 皇ギは続けて毛布の上から、沙羅の太もものあたりを指ですっと撫ぜた。線を引いている。切断のラインを測っていた。

「逃げたいと思うことがあるんでしょう」
「――いや」
「克己の庇護があるから、そんなことまではされないと思っているの? 時間は不可逆よ。治癒は回復じゃない。西帝の目はもう見えるようにはならないのよ。克己が怒ろうがどうしようが、その時にはもう遅いの」

 それは、悲しいことだ。師の怒る姿など見たくはない。沙羅は目を瞑る。

「どこにも行かないから……」

 許しを乞う。自分の肉体などどうなってもいいと、そう思ったことを取り消す。沙羅の四肢が欠ければ、悲しむ者がいる。車椅子を乗せることのできる自動車は、今この屋敷にあるのだろうか。家具屋は車椅子でも行けるだろう。遊園地のアトラクションは、難しいものが多いはずだ。

 皇ギは目を細めた。不快げな表情に見える。

「あんたは聖女気取りなの? 狭野もそうだわ。自己犠牲に酔ってるの? 家畜の分際で、殉教者のつもり?」
「許して……」
「誰もあんたを許しはしないわ。自分の世界のために、自らの過ちを償うのよ。I'll give you guys one more chance」
「私と、ほかに誰のことだ?」
「あんたが、あんたたちだと思う、その者のことよ。あたしの慈悲を躊躇と勘違いしないことね」
「わかった。後ろ髪の女神に感謝する」

 That's fine.と聞き取りやすい発音でささやいて、女は沙羅の髪を撫でた。


 

 女は甘い声で、英語の歌を歌っている。

 時がどうとか、安らぎがどうとか、やけに意味ありげな歌詞だ。おそらく子守歌で、子のない女がそんなものを歌っていることが薄気味悪い。

 蘭香がそう言うと、師は困ったように微笑んだ。

「彼女は誰にでも歌ってくれたんだよ。お前が赤ん坊の頃にも聞いたんじゃないかな」
「今は赤ん坊なんておりませんでしょう。当てつけなのでしょうか? 自分が子供扱いされているという」
「そうだとしても、綺麗な声だ。歌詞を調べても出てこないから、もしかしてオリジナルなのか? それか、他の国の歌を自分で英訳したのか」
「万羽様は英語がおできになるので?」
「歌詞の翻訳くらいなら、そう難しいことじゃないだろう。私でもわかる易しい英語だ。きみを悪夢から守るとか、そういう歌だね」
「どうでしょう? そちらに行くと悪夢があるぞ、だからこちらへおいでという、脅迫の歌のようにも思えますけれど」

 師は目を閉じて、歌を聞いている。蘭香の言ったことを照合しているのかもしれない。

 その顔の美しいことに、蘭香は見とれながらも少し苛立つ。まったく、これほど美しい男でなければ、自分の身の振り方も他にあっただろうに。

 いずれ権力を相続する男であろう。その時にどう与すかを、蘭香は考えておかねばならぬ。蘭香には本筋とは別の財産が継がれ、それを運用せねばならない。この師よりはまだ、自分のほうが上手いだろう。

 典雅は美しく、優しい男であるが、資産管理の知識を持たない。おそらく、これほど長生きするとは自身でも思っていなかったのだろう。いつの間にか長老の座も近い。そのことを億劫に思っているようだ。

 かといって権利を放棄するということもまた、考えてはいないらしい。身体の弱い息子を抱え、陰謀に巻かれそうな娘を擁し、見かけよりも苦労の多い男なのだ。蘭香は少し同情している。そうした自分の甘さに、また苛立つ。

「仰げば尊しに、なんとなく曲調が似ておりますわね」
「どういう曲だったかな」

 蘭香は一番を丸ごと歌いあげた。声の美しさでは、万羽に負けないかもしれないと思っているからだ。

 師は二人の女の歌声を楽しむように聞いた。蘭香が歌い終える頃には、万羽の声も止んでいた。

「尊ばれるような恩がない師としては、身につまされる歌だな」
「感謝しております。お慈悲をいただいたことを」
「苦労をかけるね」

 手元のティーカップの茶がなくなりそうだった。コゼーをかぶせて保温しておいたポットから新しい紅茶を注ぐ。香り高い湯気がただよった。

「ありがとう。――時は速くすぎ、光る星は消える。だから行かないとな、微笑んで」
「宮沢賢治ですか?」
「なんだったかな、リズムは覚えているんだが」

 蘭香が見てもあきらかに色の濃い、渋いであろう茶を飲んで、師は文句も言わない。昔ならば言った気もするが、このところ蘭香に甘いのだ。

 利権よね、と苦く思う。どうせ自分は祖父のコネ採用であり、そのために今でも優しく接してもらえるのだ。たまには抱いてももらえる。祖父さまさまであり、そのせいで蘭香の心は晴れたことがない。結局、愛されてはいないのだ。色舞とは違う。

 愛。小娘のようなことを考えている。蘭香は自分の、女らしさのような部分を、ときおり煩わしく思う。なぜ、厚遇されていてラッキーとだけ思えないのだろうか。そのせいで、収支で言えば損をしている気がするのだ。自分の心というものが面倒くさい。

「わたくしも呆けたら歌を歌いますわ。そうすれば、たまには聴きにいらしてくださるでしょう」
「何を歌うんだ?」
「TUBEとか」

 師は笑ってくれた。

「なんで? そんなに好きだったのか」
「夏になったら思い出してくださるでしょう」
「女だな、考えることが」
「川端康成は男ですわ。女ばかりが呪うわけではなし、偏見です」
「男は呪った相手を忘れない。女はどんどん呪うだろう。これも偏見か?」
「忘れないと思ってらっしゃるのが傲慢なのです。忘れた女をこそ、呪っているかもしれませんわよ」

 さして深い意図のあって言ったことでもないが、師は神妙な顔をした。そのふりかもしれないが。

「今夜はいかがですか?」
「ああ――そうだね。日付が変わったらおいで。才祇と出かけるから、遅くなるかもしれないけど」
「かしこまりました。お車を出しましょうか?」
「いや、今日は大丈夫」

 首尾よく抱かれる約束を取り付けることができた。若い頃にはわからなかった、師の隙というものが見えるようになっている。

 これは愛じゃないわね。蘭香は下を向いて苦笑いを隠す。相手の隙を狙うことを、愛とは呼ぶまい。けれど蘭香は師に触れられたいのだ。その瞬間だけ、自分がこの世でもっとも幸福な女だと思う。色舞よりもだ。

 あさましい女だ。しかし、だから愛されないというわけでもなかろう。蘭香が貞淑で思いやり深い女であったとしても、師の寵愛を得られたとは思えない。
 ならばあさましくてもよいから、身体を交わしたい。蘭香は自分を淫乱だとは思わない。もっと、悪いものだ。しかし、それが何だというのだろう。

「わたくし、性悪ですわね?」
「そう標榜するほどじゃないさ。性悪好みからすると期待外れだろう」
「申し訳ありませんが、離れませんわ、あなたから。わたくし恥知らずなんですの。恥なんて、換金したっていくらにもなりませんもの。お嬢様のように慎み深くはなれませんわ」
「露悪的になることはないだろう。きっとお前が思ってるより、私はお前に感謝してるよ。葬儀の時も色々ありがとう。私はどうも湿っぽいのが苦手だから、お前が平然としてくれて助かった」

 従者に対して皮肉を言う男ではない。だから、蘭香は少し息苦しくなる。

「わたくしの心の冷たさを許してくださいます?」
「もちろん。お前も私の冷たさを許してくれただろう。そのことはわかってるつもりだ」
「どうしてわたくし、こうフリーズドライ属性なのでしょうか。お嬢様のようにしっとり香れませんわ」
「普通の女はそうだろう。男なしでは湿らない」
「――お嬢様、大丈夫でしょうか? 女に湿ってらっしゃるかもしれませんわよ」

 追及があるかと思ったが、師は微笑んでいる。つまり知っているのだろう。

「よろしいのですか、方針として」
「色舞に財産が渡るのはもう少し後だ。今のうちに操られておくのもいいさ。経験になる」
「財政の向きではなく、お嬢様の心の問題としてです」
「皇ギは無駄に心を蹂躙する女じゃない。必要な攻撃しか仕掛けないから、色舞は安全だろう。むしろ、手先でいるうちは守ってくれるさ。そういう女だ」

 意外に、政敵となりうる女の性質を正確に見切っている。

 皇ギは凶悪無比な女だが、冷徹だ。暴虐ではない。他者をアリやハエだと思っているから、刺す種でなければ干渉しないのだ。ハエに忠誠心を問う者はない。意味もなくつぶして喜んだりする趣味も持たぬ。

 だから、すべての横道は通用しない。媚びも賄賂も無視される。従うか、従わぬか、それだけを見るのだ。下心の介入する余地がない。

 牙城を崩すには武力で攻めるしかなく、政権は蘭香の知る史上もっともひりついている。いくつも史を見たわけではないのだが。

 近頃、毒物を警戒する者が多いのは、そのためだ。首を狩った者が権力を得る、かつてのジャングルの再来である。おそらく、和泉がまず狩られる。次は祖父だろう。蘭香はもう怯えることに疲れて、どうでもいいわと思っている。せめて師に一度でも多く抱かれておこう。

 皇ギは多少体格に優れるだけの女だが、父親と弟がなにしろ強い。散弾銃では倒れまい。一人ならば囲みようもあるが、三人ではどうにもならない。一人の死体が出た時点で、あとの二人が散弾銃よりも強い力で暴れるのだ。

 原始的な手詰まりである。武力で勝てない。だから、財政を握られている。馬鹿の惑星だと思う。そして、世界中で同じことが起きているのだ。規模の大小が多少異なるだけである。

 皇ギの父に、おそらく万羽だけが武力で対抗できた。だから削られて、今では不気味な歌を歌うばかりだ。沙羅もどんどん顔色が悪くなる。

 馬鹿の惑星だと、蘭香はもう一度思う。和泉もおそらく、殺されるわけではないだろう。一族単位で、息も絶え絶えなのだ。強い血筋の者を減らしはすまい。

 足の腱を削るのだ。いやらしく。立てないようにも、歩けないようにもしない。だが駆けることはできないようにする。血筋を絶やさず、それでいて反逆させないために。

「和泉様のことはお守りにならないのですか」
「私よりも、お前の祖父を選んだ。彼女の意志は変えられない」
「説得なさってください。あんな老爺に殉じたって、なんにもなりませんわ。恥も恩義も忠義立ても、換金したっていくらにもなりはしません。わたくしの言うことなぞ聞きはしないでしょう。あなたの言うことなら届くかもしれません」

 師は、驚いたように蘭香を見た。その顔のまま言った。

「ありがとう。お前が和泉のことを心配してくれるとは思わなかった」
「和泉様のことじゃありませんわ」

 彼女にまで手が及んだとき、あなたが悲しむのがつらいだけ。

 蘭香は、いくらにもならないが、まだ売ってはいない矜持にかけて、それを口には出さなかった。


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