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開幕「新婚初日」




 婚姻届とは、存外簡単に受理されるものだ。

 多少は時間や手間がかかるものと覚悟し、終日スケジュールを空けていたのだが、昼には何もすることがなくなった。

 引っ越してきたばかりのマンションはがらんとしている。注文していたベッドが今朝ようやく搬入されたので、一週間ほどのホテル暮らしは終わった。
 ホームセンターで買ってきた簡素な椅子に腰掛けて、桐生はぼんやりと携帯電話を操作していたが、目の疲れを覚えてやめた。壁を眺める。白く真新しい壁紙だ。新築ではないが、リフォームをしたばかりなのだろう。

 マンションもベッドも椅子も、すべて此紀の財布で購入したものだ。世間的に見れば、自分はヒモであろう。

 ――ほかの家具を買いに行かなければ。

 まさしく暇な時間にすべきことである。
 しかし、一度帰ってきてしまうとなんとなく面倒になる。役所からそのまま街に出ればよかったと、職も予定もない分際で桐生は怠惰な後悔をした。

 それでも半月前ならば、自分の腰ももう少し軽かったと思う。やはり人里というものは、空気が重たく感じられた。体調が悪いというほどではないが、常にどことなくだるさがある。

 高齢の此紀のほうが、それを顕著に感じているようであった。帰宅してすぐに寝室へ籠もってしまった。届いたばかりのベッドに入っているのだろう。

 ――大丈夫だろうか。

 1LDKのマンションというのは手狭なものだ。扉を隔てていても、そこに気配を感じる。自分の気配が、師の休息の邪魔になっていなければよいのだが。

 立ち上がり、寝室の扉へと近付いた。中は静かだ。

 ――それはそれで不安だ。

 なるべく音を立てないように扉を開いた。

 桐生の予想に反して、師は眠ってはいなかった。ベッドの中にはいるが、身体を起こしてタブレットを手にしている。電子書籍を読んでいたらしい。

「どうかしたの?」

 カーテンをまだ買っていないため、電気を消していても部屋の中は明るい。髪を下ろし、薄手の部屋着を羽織っている此紀は、窓からの日差しの中で儚げに見えた。

「お加減はいかがですか」
「ええ、少し身体が重いだけ。あんたはどう?」
「私は大丈夫なのですが」

 さっと目をやって気付く。ノーブラである。
 山にいた頃も就寝するときはそうであったが、今はやけに目立つような気がする。

 というよりも、桐生が熱心に見ていただけかもしれない。此紀は軽く腕を組んで胸を隠した。

「あ、申し訳ありません」
「あんたがジロジロ見てくるのは今に始まったことじゃないけどね。外では気をつけなさい」

 はいと返事をしながら、桐生はベッドの全体像を眺める。一応、購入する際に告げられてはいた。「寝室はひとつだし、ベッドは大きいのを一台でいいでしょう」と。

 ホテルでは別々に部屋を取っていたが、今夜からはこのベッドで一緒に寝ることになる。

「……なあに?」

 考えていることはひとつである。ベッドを買うより以前、このマンションに二人で暮らすことを決めた日から。

 ――やらせてくれるのだろうか?

 かりそめとはいえ、夫婦として暮らすのだ。そして寝床は同じ。桐生でなくとも考えることだろう。

 此紀に仕えて数年、淫奔と名高いその身体に預かったことはない。何度か、機嫌のよいときに少し触らせてもらえた程度である。従者とだけは関係を結ばない主義なのだと聞いた。師事する前に教えてくれよと思ったものだ。

 しかし、さすがに。婚姻までした仲なのだから。

「あのう」
「何を言いたいかはわかるけど。どうしても?」
「できましたら、どうしても」

 此紀はタブレットを真新しいシーツの上に伏せて、首をかたむけた。長い髪がさらりと流れる。

「でも、私、そういうのはね」
「な、なぜでしょうか? 何か至りませんでしょうか」

 必死な声を出してしまった。
 言い方は悪いが――言いはしないのだが――身持ちの堅い女なのであれば、なんとか諦めもつく。しかし、けしてそうではないのだ。なのに見せびらかすだけ見せびらかして、手出しは許さないというのは、殺生な仕打ちというものではないか。

「私じゃなくてもいいでしょ? あんた、女たくさんいるじゃない」
「そんな! それとこれとは別です」
「そう言われるのはまんざらでもないんだけど……」

 そのふうっというため息を吸い込みたい、という変態的な欲求に駆られた。師はどういうわけか、常に芳香を漂わせているのだ。童貞が思い描く夢のような女なのである。
 だから童貞のような気分になってしまうのだろうか。なぜ他の女では代わりにならないのか、自分でもよくわからない。

「せめておっぱい吸わせてください!」

 乞えるときに乞うておかなければ機を逃すこともある。

「……まあ、今度ね」
「やったぜ! いえ、今度というのは、具体的にはいつなのでしょうか」
「焦る男はモテないわよ。あんたならそれでもモテてるのかもしれないけど」

 呆れたようにしながらも、師は両手を差し伸べてきた。
 甘えさせてくれるときのポーズである。桐生は床を蹴ってベッドに乗り、スプリングを利用してその腕の中に飛び込んだ。腕というよりは、胸の中にだ。

 さっそく顔をうずめた。薄いシャツを通して、柔らかく、温かく、たっぷりとした感触が伝わってくる。あまり重量感はなくふわふわとして、どこまでが自分の頬なのかわからなくなる。とろけるようなという形容がぴったりだ。
 石鹸のような果物のような、甘酸っぱい香り。師の全身から漂っているが、胸の谷間からは特に香っているような気がする。

 本当は下乳をすくい上げて揉み、唇で食んだり吸ったりしたいところだが、なにしろ焦る男はモテないのだそうだ。

 せめて深呼吸して、胸いっぱいに香りを吸い込む。ぽよぽよとした弾力を味わうために頬ずりした。

「……よくそこまで師の胸を堪能できるわね」

 これでも遠慮しているのですが、と胸の中でむにゃむにゃと反論する。

「いいけどね」

 長い指が桐生の髪を優しく梳き、耳にかけてくれた。

 いい香りで、あたたかく、鼻先にとくとくという鼓動を感じる。幸福とはこれのことなのではないか。この女がいなくなったら桐生は息もできなくなる気がする。

 他のすべてのことがどうなってもいい。こうして師のそばにいられるのならば。

 なぜか急に目頭が熱くなり、顔を上げられなくなってしまう。

「ごめんね」

 母親というものを持つ生き物は、このように抱擁されて育つのだろうか。自分が女の乳房にことさら強い執着を覚える理由を、考えたことがないわけではない。

 ほんの数年で、師からは多くのことを教わった。行儀作法。理系の学問。女を愛しいと思う気持ち。失えば取り返しのつかぬ者がいるということ。

 師に伝えたいことを、若い桐生はうまく言葉にすることができない。あるいは伝えたいことなど無いのかもしれない。ただそばにいて、こうして抱かれていれば、心が満たされるのだ。

 未来はどうかわからない。しかし、今は。

「私はたぶん遠くないうち、あんたとも寝てしまうんだわ。そういう性質の女だもの。……でも、もうちょっとだけ」

 頭をぎゅっと抱かれた。

「もうちょっとだけ師でいさせてよ。急に何もかも変わったら、さみしいじゃない」

 未来もそう悪くはないはずだ。この女がいる限り。

 抱き返してもいいのかどうか、迷ったが、それはしないことにした。

 師がさみしがるかもしれないからだ。



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