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蝶のように舞えない 1話


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 蘭香が趣味で焼くパンは、香ばしいが水分が抜けていて、どうにも口あたりが悪い。
 ほうじ茶でなんとか飲み下して、息をつく。

「父さん」

 こたつの向かいに入っている父は、雑誌をめくりながら「なんだい」と答える。

「父さんが引き受けたパンでしょう。召しあがってください」
「だって若い娘が焼いたパンなら、食べてやらないと可哀想じゃないか」
「それは結構ですが、ひとくち召しあがったきりじゃありませんか。私の手には余ります。それから、蘭香はたいして若くもありません」

 外面のいい父は、五つも六つもバターロールをもらってきた。色舞はようやく一つ食べたが、これ以上はつらい。

「沙羅の鳥にでもやればいいんじゃないか?」
「そんな場面を見られたら、私がもっと蘭香に嫌われます。ご自分でなさってくださいな」
「才祇は?」
「兄さんはパンが嫌いでしょう」
「そうじゃなくて、才祇は家にいるのか? このところ顔を見てないけど、元気なのか。葬式の時に顔色が悪かっただろう」
「お葬式で元気溌剌なほうがおかしいでしょう。さっきお部屋で、怖いゲームをやっていましたよ。怖がりなのに」
「YouTuberなのか?」
「それは知りませんけど。犬のゾンビに追いかけられて、汚い悲鳴をあげていたので、あまりファンはつかないでしょうね。顔出しは掟に触れますし」

 ふうんと言って、父は首を傾げた。顔が端正なために、どんな仕草も芝居のように見える。YouTuberに向いているのかもしれない。
 なんとなく真似をして、鏡のように首を傾けてみた。耳元でちゃりちゃりと、まだ慣れない音が鳴る。

「この耳飾り、金具が少し鳴るのですね。思っていたよりは軽いのですが」
「よく似合ってる。お前は赤も似合うね。顔色が明るくなっていい」

 自分では、そうは思えなかった。
 赤というよりも、大きな耳飾りが似合わないのだ。女学生風の服装と合っていないのかもしれない。髪型も、少し変えたほうがいいだろう。化粧はどうだろうか。

 そんなことを考えていると、目の奥が重くなってくる。軽く眉間を揉んだ。

「目が悪いのか? 早めに和泉に診せたほうがいい。西帝のようになったら大変だ。今行くか? 行こう」
「いいえ、視力は変わりありませんから座ってください。そういえば父さん、蘭香の眼鏡を笑ったそうですね」
「ああ、つい。可愛らしかったから」
「もう眼鏡はかけないと拗ねていましたよ。それで蘭香が怪我でもしたら、目覚めが悪いでしょう。きちんとフォローしておいてくださいね」

 はいはいと父は聞き流している。明日には忘れているだろう。
 目の奥がまた、ずしりと重くなった。



 青い小鳥は、夢中でパンくずをつついている。

 机の上の鳥かごを眺めながら、東雲は「見事なもんすね」と言った。

「こんな着色したような、真っ青な鳥がいるんすね。自然界に」
「ペットショップで買ったから、自然界と言えるかどうかはわからないが。まあ、野鳥にも青い種はいる。オオルリなどはとても綺麗だ。それこそ瑠璃色で」
「瑠璃って、鳥の色のことだったんですか」
「いや、瑠璃は石だ。ラピスラズリ。その色の鳥ということだ」

 ふうんと言って、東雲は鳥かごに追加のパンくずを降らせた。

「あなたはそういう風流げなことに詳しいっすね。この鳥、名前なんでしたっけ。ルリちゃん?」
「名前はない。種目としてはセキセイインコだ。あまりパンをやりすぎるな。太る」
「女はちょっと太ってるくらいが可愛いですよ」
「お前の評価などどうでもいいし、オスだ」
「あらら。なんかぜんぶ外れるなあ」

 残りのパンを自分の口に放り込んで、東雲は顔をくしゃっと歪めた。

「まずそうだな」
「男として、女が作ったもんの悪口は言わねえことにしてます」
「お前はジェンダー観が古いな。そのすべてが悪いというわけでもないと思うが、適切にアップデートしないと老害になるぞ」
「あなたに言われると思ってなかった台詞ナンバーワンすね。あなたは最近、なんか垢抜けましたよねえ。恋でもしました?」
「昭和のセクハラをするなと言っている。恋はもうしない」
「なんて言わないよ絶対?」

 坊主頭を叩いた。

「その頭になってからこっち、いい音がするな。剃り続けろ。あまり似合ってはいないが」
「それはセクハラじゃないんすか? 告発しないんで、いいですけど」

 この兄弟子が怒る姿というものを、沙羅は見たことがない。
 頭を叩かれても、まずいパンを食わされても、畳に直に座らされても、飄々としている。
 来客用の座布団などというものを置いていないのだ。快適な座を得たいのなら、持参してくるべきである。

 快適な座に興味のないらしい兄弟子は、鳥かごをつついて楽しそうにしている。

「ちいせえなあ。鳥って、飼ってると懐くんですか?」
「懐くような気はする。まだ飼い始めてひと月だから、もう少しすればもっと懐くかもしれない」
「こんな机の真ん中に置いて、臭いのかと思ったけど、そうでもないすね」
「かごを清潔にしてやれば臭わない。セキセイインコは、身体からトーストのような香りがするそうだ。まだわからないが、成長すればそうなるとか」
「え? マジすか。嗅ぎてえ」

 鳥かごに顔を寄せ、匂いを嗅ぐようにしているが、今はどのみちパンの匂いがするだろう。

 そこでふと気付き、携帯電話を取り出した。文字を打ち込んで検索する。

「しまった。パンはインコによくないらしい」
「え。マジすか。死にます?」
「死にはしないだろうが、消化に悪いらしい。鳥といえば、童話などでパンを食っているイメージだから、うっかりしていた」

 かごの中の青い鳥に、心の中で謝罪する。
 この小さな生き物にとって、沙羅が世界のすべてなのだから、もっと気をつけてやらなければならない。

「なんか、すみません。死んだら弁償します」
「死なないし、命を弁償しようとするな。この鳥の代わりはどこにもいない」
「世界に一羽だけの鳥ってか」

 隙あらばJ-POPを挟んでくる兄弟子の頭を、もう一度叩いた。

「あんまりポコポコ叩いてると俺のモンペが来ますよ!」
「そんなものはいないだろう。モン性がない。ピースフルペアレントだ」
「俺のペはピースフルかよ。あなたのペは、ちょっとモンっぽいですよね」
「克己様のことか? そうかなあ」

 言いつつ、自覚がないというわけではない。師は確かに、沙羅に何かがあればすぐに腰を上げる。過保護だ。東雲に対しては、もっと鷹揚に見えた。
 それはひいきというよりも、気遣いだろうと思っている。東雲にはピースフルなペアレントがおり、沙羅にはペアレントもシブリングもいない。

 自分はそうも危なっかしく見えるのかと、沙羅は少し気にしている。若い頃ならばともかく、すでにいい年の女だ。相対的にも絶対的にも、しっかりしているほうだとも思っている。

 そういえばかつては、東雲のペアレントが、沙羅に対してもペアレントであろうと努力してくれた。
 あの厚意に甘えられるかわいげがあったならば、今とは多少違う未来にいたのだろうか。

 しかし、どんな形であっても、誰かに依存することはしたくないと思ったのだ。

 それは正しかったと、このところ改めて感じている。

 小鳥はパンを食べ終えて、目をつむっていた。

「これは寝てるんすか?」
「食後の昼寝だろう。鳥の眠りは浅いから、放っておいてやれ」
「名前をつけないのって、情が移るからとかですか?」
「単に、識別の必要がないからだ。ほかに鳥を飼っていれば呼び分ける必要もあるが、この屋敷でオンリーワンの鳥だから」

 鳥と言えば、この鳥のことだ。庭に来る野鳥と区別するならば、「沙羅の鳥」と呼べばいい。
 深い意味など何もなく、それで用が足りている。

 東雲は鳥を眺めながら「ピーちゃんかあ」と言った。
 ピーちゃんではない。

「鳥は光るものが好きらしいから、お前のピアスなどもつつきたがるかも知れんな」
「怖え。ヒッチコックじゃん」
「耳などはともかく、まぶたのピアスは危ないな。かごから出しているときは部屋に来るなよ」
「俺が来たときはしまってくださいよ」
「ここは私と鳥の部屋だ。お前よりは鳥を優先するに決まっている」

 兄弟子は、まぶたや鼻、唇、喉などにピアシングを施している。
 思えば急所ばかり強調している。鳥を飼うまでは、そのような見方をしたことはなかったが。
 マゾヒストなのだろうか。

「ピアスといえば。此紀のピアスは、色舞には似合っていないな」
「あの揉めてたやつですか。万羽様があんだけバチ切れしてたのに、色舞ちゃんはもう着けてんの? 意外と図太いな」
「すべてが色舞の意志というわけでもないだろう。着けないのもまた、誰かの気に障る」

 あの赤い耳飾りは、簡素――というよりも原始的なデザインで、沙羅ならば装着を遠慮したい。高価な石なのだろうが、台座や装飾が何もない、いかにも、かつてはまじないのために男が着けていた品だ。

 祝いのアクセサリーなのだろうが。
 色舞にとっては、呪いのようにも思えよう。

「典雅はもっと気の利く男だと思っていた。もう少し、女たちの気持ちが収まるように、計らいようがありそうなものだが」
「もともと女に優しい方じゃないでしょう。万羽様の気持ちを収めてやる義理もないでしょうし。昔から仲悪いじゃないすか」
「万羽のことはどうでもいいが、そのせいで色舞がつらそうだ。万羽に睨まれて、胃が痛むと言っていた。可哀想に」
「睨むったって、別にそれだけでしょう。暴力とかふるってくるわけじゃねえだろうし、無視すりゃいいのに」
「地を這うことでしか移動できないのは、不便だと思わないか? 羽で空を飛べばいいのに」

 沙羅が気分を害したことに気付いたらしく、東雲は手刀を切るようにした。

「すみません。謝りますが、何が悪かったんすか」
「何もわかっていないのに謝るな。――悩んでいる者に対して『気にするな』と言うのは、『空を飛べ』と言うのと同じだ。そうできたらいいだろうが、できないから悩んでいるのだろう。そもそも『気にしない』というのは、万能カードではない。不穏は悪意の兆候だ。気に留めずに見過ごしたら、いずれ肥大して、炸裂するかもしれない」
「言ってることはわかりますが、万羽様は炸裂しないでしょう」
「その信頼はどこから来ている? あの女は、それは見かけは可愛らしいが、性質はそうでもない。好意的に付け足すならば、今は特に」

 葬儀の時の、うつむく万羽の横顔を覚えている。介護のために肩のあたりで切った髪。長いまつ毛が震えていた。白い耳たぶには、そう、あれがラピスラズリだ。青く、青すぎて、黒く見える石。身体の痛みに効くという。ならば色舞には、あの耳飾りこそが必要だろう。

 自分にも必要かもしれない。下腹を軽く押さえた。
 東雲が目を細める。

「大丈夫ですか」
「傷は塞がった。お前のペアレントに礼を言っておいてくれ」
「でも、克己様に施術していただいたほうがいいでしょう。あくまでも間に合わせだっつってましたし」
「いまさら言うわけにもいかないだろう。知られたくもない。私の傷を治していたことも、此紀の寿命を縮めた一因になったのかもしれん」

 鳥はいつの間にか、目を開いていた。
 沙羅をじっと見上げている。

 この鳥がかごをすり抜け、万羽に告げ口をする姿を思い浮かべて、沙羅はぐっと息を止めた。
 鳥の目は黒く、鈍く光って、あの耳飾りによく似ている。


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