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蜂の残した針 22話


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「あなたのことを振る男性は、センスがないのですから」

 姉弟子の手にバラ色のマニキュアを塗ってやりながら、まんざら世辞でもなく、時月はゆっくりと話した。

「ぱあっと遊びに行って、忘れてしまいましょう。今年の流行色がよくお似合いです。こんな美女を、誰も放っておきません」
「放っておかれてるもん……」

 少し乳くさい声の女であるから、こうした甘ったれた喋り方をすると愛らしい。

 男心というものは、よくわからない。時月は思う。自分が男ならば、この女をけして放っておかないし、離縁を申し出ることもない。

 男を試して疲れさせて疎まれる、まあ、賢い女ではないが、そのわかりやすさが可愛げというものではないか? 正解の対応は常にひとつなのだ。黙って許してそばにいてやればいい。その程度の我慢がなぜきかないのか、時月は心から不思議に思う。給料も、父親のほうから出ていたと聞く。

 結局、心変わりをしただけだろう。あるいは以前の師にまだ未練があったのか。悪口を言いたいわけでもないが、万羽が執着するほどの男だとは思わない。

 つまり、男ではなく、自分の支払った愛に執着しているのだ。

 ──そういうのを嫌がる男はいるのよね。

 経験として知ってはいるが、自己愛の外側を押し付けられることで、どんな損をするというのだろう。時月は、自身の許容範囲が特に広いということに気付いていない。与えられればまっとうするタイプだ。多少、理不尽なことでも。

 時月は、一方的に与えられた師のことも、間接的に縁ができた姉弟子のことも、愛すべき者だと思っている。どちらも、短所の目立つタイプではあるが、美しい長所もまた持つ。

「万羽様は、確かに困ったちゃんですけれど」
「うー」
「いいのです、お美しいのですから。顔がよければすべてよし、と言います」
「そうよね」

 師や、去った男が聞けば、何か言うであろうとわかっている。しかしここには女しかいないのだ。時月は姉弟子の爪にトップコートをかけてやる。心にも。

「つまらない男のことは忘れて、歌って踊って、新しいお洋服でも買いましょう。グレンチェックの、とても素敵なコートがありました。私のように背が低いと、チェスターコートはむずかしくて着られませんが、万羽様ならばっちりです。それで足首の細さを強調する靴を履いて、コーナーに差をつけましょう」

 時月はテディベアに巻くリボンを選ぶように、美女に羽織らせる上着を探すのも好きだ。万羽はイエベ春だが、顔とスタイルに恵まれているので、深いグレーのコートもよく似合う。

「ボルドーのカラータイツを履いて、芸能人くらいのオーラを出していきましょう。誰よりも、此紀様よりも、あなたのほうが強い女の服が似合います。ネックレスも今日はヴァンクリをやめて、グッチのチェーンにしましょう。香水はプアゾンにしましょう、名前が最高ですから」

 梓土がその香水を嫌っていたから、万羽はどこかへ仕舞ってしまった。捨てたのかもしれない。ならば、師に買ってきてもらおう。他の誰にも似合わぬ、赤黒い毒の芳香が、この女にだけは使いこなせるのだから。

 和泉は透明度が高く、皇ギは金属質だ。重度のある色香において、万羽の右に出る者はない。此紀よりも顔立ちが現代的で、冬は特に独壇場だ。何をどれだけ着せても服に負けない。

 若い男の行方など憂えている場合ではない。たくさん金を使って、ワンシーズンしか着られないような服を着て、今を謳歌するべきなのだ。

「繊細な言葉や、優しい音楽よりも、美しい顔貌かおかたちです。遺伝子が優れていることをどんどんアピールしていきましょう」

 万羽は時月の早口を聞くと、いつも少し困ったような顔をする。

「何のために……?」
「ライオンが吠えるのと同じです。サバンナで最強、自分こそが頂点、王者は意味もなくそれを勝ち誇っていいのです。王が強いと、国民も安心できますし」
「政治も戦争も、顔じゃできないわ」
「歴史書で熱心に読まれるのは、王の寵姫がいかに美しかったかを記した部分です。動かしていきましょう、顔で政治を」

 現在の王は、万羽むすめが悲しい顔をしていることを喜ぶまい。

 時月は腹を立てている。こんなに美しい女が、たかだか男のことで傷心しているということに。

「私があなたのように美しかったら、そんなことで悩みはしません。毎日チャラチャラします。楽しいことだけ食べて、嫌なことは周りに押し付けます」
「なんであたしに優しくしてくれるの?」

 優しい? 時月はきょとんとした。醜い者にとって、時月の発する政令は悪政の極みであろう。優しさとは、たまたま相手の法律で特権階級にあることを指すのだろうか。

 そういえば、優遇とは、優しく遇すると書く。そういうものなのかもしれない。

 ならば万羽の世界には、なかなか厳しい風が吹いていることになる。自分たちの師はその法によって、時月には柔和に、万羽には冷淡に接する。それは別に、優しさの差ではないのだが、万羽にはそう見えていそうだ。

 獅子は子を谷に落とすらしいが、それも子の資質によるはずだ。病弱な個体を落とせば死ぬだけで、群れを生存戦争にかけるならばともかく、いくらもいない子ならば殺しはすまい。

 これは、言葉では伝わらない。愛しているからこそ厳しくするのだと、そんな言い方をすれば嘘になる。

 愛も優しさも、相手と周波チャンネルが合わぬ場合、虐待になってしまう。師は珍しい周波で生きる男であるから、女をよく傷つける。時月はたまたま、傷つかない周波帯にいるだけだ。

 梓土は最初から、あきらかに万羽と周波が合っていなかった。遅かれ早かれのわりには、遅くまでもったほうだろう。

 比較的、誰とでも合わせられる者もいる。東雲などがそうだ。ああいう男を従者に取れば、万羽もいらぬことで煩わずに済むのに、今度は好みという周波が合致しないらしい。

 誰もが細やかな周波を持つ。いちいちチューニングするのは、あまりにも面倒くさい。だから時月は、見てわかる部分という、もっとも大きく割った範囲で物事を判断する。

「顔写真重視のマッチングアプリで、一番顔のいい男を選んで、本気にさせる遊びをしませんか? 気が晴れますよ」
「男はもういいわよ、今は」
「あら……?」

 男のことを考えたい気分なのかと思っていた。時月は首をかしげる。

「ではなぜ、歌って踊りに行かないのですか?」

 万羽は、ようやく笑った。そして「どうしてどっちかなの」と複雑なことを言って、時月の頭をそっと撫でた。





 青柳桜子は、うまく周波を読めば接しやすい相手だ。

 色舞が世間話のふりをして金の指輪を見せると、追加料金を取らずに査定してくれた。

「価値としては、一万円で買い取れるかどうかです。もちろん私らは買い取っても構いませんけど、売らはるのは損やと思いますよ。デザイン、なかなかかわいいし」

 青柳家の女としても器量のいいほうであるが、関西弁の入り方と直し方が、どうにもおっさん臭い。「売らはるんですか?」とゆっくり言えば京女風になろうに、「売らはるんでっか?」に聞こえる言い方だから、背後に大阪の商人あきんどを感じる。

「いいえ、ありがとう。値段というより、なんというんですか、本気度を知りたくて」
「贈ってくれはった男の? いい線なんじゃないですか、若い男だとすれば。色舞さんに似合うし、けっこう考えて買われたんやと思いますよ。小銭に替えるのはもったいないと思いますねえ」
「西帝さんなんですが、わかりますか。こう髪が長くて、眼鏡の」
「もちろん。あら、へえ、まあ」

 抑揚を使いこなして、興味津々をあらわしている。目を見開いたから、秀でた額に小じわが寄っている。美人だが、そのことにあまり頓着していない女特有の表情だ。

「売り値、これ言うていいんでしょうか、たぶん五万くらいじゃないでしょうか。一般的には、そこそこ本気じゃないと買わない値段ですよね」
「箱が立派だから、そんな気はしたのですけど……」
「本気度も測れない関係で、いきなり指輪ですか?」
「ええ、どうしようかと思って」

 色舞は困っている。愛の告白だとすれば、白黒をつけなければならないのだろう。

 桜子の左手の薬指には、いつも銀の指輪が光っている。シンプルに見えるが、途方もなく高価なのだろうと色舞が考えていると、桜子はその手をよく見えるように広げてくれた。

「これは本物やなくて、ファッションリングです。安もんですよ」
「そういえば、あなたは他にアクセサリーを着けていないわね」
「私らはそうですね、お客様より華美なのが一番いけませんから。光るもんで男の気を引いてもね、もう結婚してますし」
「そんな、カラスじゃないんですから」

 サバサバとした女であるのに、意外と前時代的なことを言うものだ。今時、男のためだけに着飾る女のほうが珍しいと思うが。

「あなたなら、ご結婚なさる前はさぞもてたでしょう。光るものもたくさんもらったのでしょうね」
「いきなり光るものを贈ってくる男いうんは、一人残らずセンスがないんですよね。そやからそんな唐突なことをするんでしょうけど」

 商売人であるのと同時に、資産家の令嬢でもある桜子は、ときどき容赦のない物言いをする。自分でもそう思ったらしく、「失礼しました」と小さく頭を下げた。

「西帝さんを悪く言うつもりやなかったんですけど」
「いえ、私も唐突でどうしようと思いましたから。なんですか、お姉さんの占いがどうこうと言っていたんですけど、その言い訳もね」
「占いって、例の百発百中の?」
「百発百中? 百発六十中くらいだと思いますよ。百中だったのは、神無様の頃でしょう」
「ほう。代々、当てものをなさる方がいらっしゃる? ええですね、百中の占い、あやかりたいわあ」

 そのきな臭い話に興味はないから、これ以上広げてくれるな、というメッセージが伝わる言い方だった。
 気持ちはよくわかる。色舞は了解して、桜子が興味を示した方の話に戻した。

「私と西帝さんは、血縁的には遠いんですよ。この家屋敷の中では」
「そこ大事ですね」
「ええ、まあね。西帝さんのお兄さん、ご存じ? 斎観さんとおっしゃるんですが」
「そこ、ご兄弟やったんですか!? 似てませんね」
「その似ていないお兄さんと、私は最近まで付き合っていたのよ」
「ほう! えっ、それエグないですか? 普通、兄弟のオンナ狙います?」

 リアクションが通俗的だから、かえって話しやすい。色舞は「そうよね」と話を続けた。

「私もね、兄から弟に乗り換えただなんて、狭い家で言われるのは嫌だし。困っているんですけど」
「あのお兄さんとお付き合いなさってたんなら、弟さんのほうはあれでしょ、好みやないでしょう」
「まあ、そうなのよね。本当に」

 兄のほうも、好みだから付き合っていたというわけではないのだが、それはぼかした。同情と親近感の話まで打ち明けるほど、色舞は恥知らずではない。

 桜子は女友達のように身を乗り出してきた。

「でも逆に、それだけダメな条件が揃っててもバッサリ振ってないうことは、色舞さんも多少はその気があるってことですか?」
「そう思われますよね。正直、男が好きとか嫌いとか、今は考えたくないのですけど」
「バッサリいくにはもったいない?」
「というか、こう、わかりません? 男と別れたばかりだと、寂しいじゃないですか。矛盾しているようですけど」
「わかります。矛盾もしてないと思いますよ。心うより、あっちでしょ」
「そうなのよね、やっぱり」

 性欲などとはまた別の話だ。男に寄りかかっていた身体は、久しぶりに一人で立つと少し重い。

 さらに掘り下げると、足元のふらつく自分が、父や兄に支えられることが怖いのだ。一人ではつらいという思いが、とんでもないものに変質してしまう可能性がある。まったく、近い血縁者には醜くあってほしいものである。そうであれば、おかしな芽も生じえまいに。

 桜子はぽんと軽く手を打った。

「困ってはるけど、それはそれとしてちょっとうれしいみたいな?」
「まあ、そうなのよ」

 すべての周波が合わないのに、タイミングだけが嵌まってきた。

 色舞は、それなりに長く生きてきた経験上、タイミングの神性を知っている。虫の知らせは、だいたい正しい。

 虫は指輪を受け取っておけと言っている。

 しかし、色舞は虫ではないのだ。

「どうしたらいいと思う?」
「ええっ、どうって」

 そんなことを私に聞かれても何も答えられませんよと、桜子はきれいな標準語で正しいことを言った。



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