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断章 「いつか桃を冷やす日」


 潔癖そうな見かけによらず、白威はパーソナルスペースの狭い男らしかった。
 
 蘭香が隣を歩いても気にする様子がなく、ちょっと腕など組んでみても、気付かぬかのように涼しげにしている。あげくの果ては、髪を触ってみても無反応だった。

 ───可哀想に。
 ───鬼畜の師によって、感覚を破壊されてしまったに違いないわ。

 蘭香は、濃いめの二枚目に対してはサディスティックな気分になるが、薄味のハンサムには親身な気持ちになるほうだ。女友達への労りに近い。

 女友達のようなハンサムは、山の中に切り拓いた畑で、なにか背の高いもさもさとした草? の様子を見ている。似合わぬ姿だ。

 蘭香は、ねだって同行しておいて、すぐに飽きて空を眺めていた。スマートフォンを取り出さないだけ気を使っている。

「それ、お米ですの?」
「トウモロコシです。お好きですか」
「わかりませんわ、考えたことがありませんから」

 斎観ならば、あの濃い眉を寄せて振り向いただろう。白威は「そうですか」と言って草を触っている。女の喧嘩を買わない性質たちらしい。

 蘭香は色の濃い土を蹴った。汚れてもいい靴を履いてきたからだ。

「退屈ですわ!」
「そう言ったでしょう」
「そんなに集中しなければいけない作業ですの? もっとお喋りをしながら、お花や果物を摘んだりするのかと思っていました」

 最初、ここへ来た日にそうしてくれたように。

 白威はようやく、蘭香のことを振り向いた。袖口と、それに顔が土で汚れている。

「すみません。トウモロコシを植えるのは前から楽しみにしていたので、きちんと育っているかどうか、様子を見たくて」
「言うてください!」

 そんな、楽しみにしているものだと知っていれば、こんなことは言わなかった。

 ───今言うたがな。

 白威はそんなことを言いはしない。蘭香の中の内なる蘭香が突っ込んだのだ。土をもう一度蹴る。

「もうお邪魔はしませんわ。ゆっくり様子をご覧になって」
「いいえ、もう終わりました。帰りましょう。喉も乾きましたし、お茶でもいかがですか」

 気を遣わせている。蘭香は何かに苛立ち、文句を言いたくなったが、飲み込んで白威に近付き、腕を組んだ。

「お洋服が汚れますよ」
「そんなことどうだってよろしいですわ。綺麗好きでいらっしゃるから、帰ったらお風呂に入るのでしょう? ご一緒してもよろしい?」
「はい、もちろん」

 屋敷の者はみな同じ湯を使うから、身分の低い者は、裸を見ることにも見られることにも慣れている。風呂で白威を見たことはもちろん何度もあるし、つまり逆も同じだ。蘭香の身体など見慣れているのだろうし、ましてこの男は同性愛者なのだ。

 ───だからといって。
 ───全然動揺しないのね。

 それとなく、腕に胸を押し付けてやろうと思ったが、それでは痴漢だと気付いてやめた。手を放す。

 蘭香も特段、性欲を感じるというわけではないのだ。抱かれたいと思うほど惚れているわけでもない。ただ、距離が縮まったら嬉しいと思う。

 黙って立つだけの蘭香に、白威の方からその話を振ってきた。

「もしホテルに行きたいとおっしゃるのであれば、明日でしたらご一緒できます。今夜はシフトが入っているので」
「貞操観念!」

 三十余年生きてきて、口にしたことのない言葉を蘭香は叫んだ。

「どうしてそんなことをおっしゃるのですか!? あなた、わたくしにそんな気なんてないくせに」
「すみません」

 蘭香は倫理観のなさを咎めたつもりだったが、白威は「どうして」の部分を詰問として受け止めたらしい。考えるような間を置いてから答えた。

「私や斎観はそういう世界しか知りませんので───女性には不快な思いをさせてしまうのかと思います。失礼しました」
「なぜすぐ神無様に帰結してしまうのですか!? もっと、あなた自身のハートで接してください」

 言いながら、これはついぞ、斎観には言うことがなかったということを考える。常に思ってはいたのだ。だが、言っても詮無いとわかっていた。あれは、芯まで神無のエキスに浸された古漬けだった。

 白威はずっと若いと思う。浅漬けだ。まだ新鮮なはずで、蘭香が少し洗えば、生野菜に戻せるような気がする。

 眼鏡の奥の、淡い茶色の目が蘭香を見下ろしている。その視線がそれほど冷たくはないことに、蘭香は心からほっとした。

「蘭香さんは貞操観念がお強いのですか」
「むっ、痛い切り返しですわ。どうせわたくしは、典雅様にろくに相手をされず、あのおじさんにも軽く扱われていた女です」
「あのおじさんは調律が狂っているので、あなたの価値にはまったく関係しません」
「聞いてもよろしい? あのう───」

 聞く前に白威は察したらしいが、問うた意図の方がわからないという様子で、軽く首をかしげた。

「ご承知でしょう。その通りです」
「いえ、それは───それは存じておりますけれど、そのね」
「女性はその話に興味がおありですね」
「んもう、一括り!」

 しかし、一括りにされるようなことを聞こうとしてしまったのだ。

 ───斎観さんといたしてらっしゃるの?

 いたしているに決まっている。白威の言う通り、周知の事実だ。それが彼らの業務なのだから。

 だが、どうにも想像ができないと思ったのである。この白皙の青年が、あの獣のごとき大男に組み敷かれる様子というのは、現実感がない。

 これはむしろ、斎観のヘテロ性をよく知るためかもしれない。あの調律の狂ったおじさんは、女が好きだ。それが仕事のために、男を抱いているというのは、それは、

「尋常ではなくエッチなことのように感じるのですけれど……」

 蘭香が声をひそめてそう言うと、白威はかすかに笑った。

「はい、尋常ではないのだと思います」
「御免なさいね、そういう意味ではなくって、いえ、そういう意味なのかしら……。わたくし、あなたがそんなことをするのは嫌ですわ」
「嫌と言われますと」
「あのおじさんがどんな目に遭っていようと、もう知ったことではないのですけれど、あなたには素敵なイケメンと寝ていてほしいのですわ。あなたが辛いことをしているのは、嫌だわ」

 白威は不思議なものを見るような顔をした。

「あら、辛くないのですか? 御免なさい、てっきりそうだと」
「いいえ、そんなことを言っていただいたことがないもので……」

 草と土と、人工的なミントの香りがする。斎観は血と火薬の匂いがした。

 慣れない感触で、蘭香は顔を上げる。背の高い草が風で触れたのかと思ったが、男の手で髪を撫でられていた。

「まあ……」

 頬が熱くなる。キッスかしら? そう思ったが、手はすぐに離れた。

「草がついていました」
「んもう! ……あら、もしかして嘘かしら? 本当はわたくしの可愛さにやられて頭をポンポンしたのですか?」

 指の先に挟んだ草の切れ端を見せられた。地団駄を踏む。

「んもう!」

 白威は顔をそむけた。笑っているという様子ではない。蘭香は冗談を言ったことを後悔した。それに、センシティブな話題に触れたことも。

「御免なさい……」
「すみません」

 謝罪の声が重なった。顔を見合わせる。

 蘭香が譲り、白威が言った。

「辛いことがあっても、耐えろとしか言われたことがなかったもので、回避を願ってくださる方がいることに驚きました。ありがとうございます」
「え……」

 常識の範囲のことを願っただけで、礼を言われるとは思わなかった。

 たちまち、蘭香は悲しい気分になる。白威の師は鬼畜で、兄弟子は調律が狂っていて、父親は薄情者だということを考えたのだ。白鷺は、蘭香の祖父にはべたべたしているが、心の淡泊さを隠さぬ女である。

 蘭香の姉弟子などは、身寄りがないと言える女だ。しかし、あればいいというわけでもないらしい。

 取ってつけたことを言う気にはならず、蘭香は植物を見上げた。トウモロコシというのがきっとよくない。もっと素敵な、花や果物であったら、別の話をしていたはずなのに。蘭香はトウモロコシを嫌いになった。

「わたくし、桃を植えたいですわ」
「桃ですか? 家庭果樹としては、かなり気合いの入った部類になります。実がなるのに三年かかると聞いたことがありますし」
「それなら三年、様子を見に通ってまいりましょうよ。ここは誰もいなくっていいですわ。誰も触われない二人だけの国です」
「すみません、美しい歌詞の引用に文句をつけたくはないのですが、ここは斎観も触わりにくる国なので……」

 蘭香はスピッツのことも少し嫌いになった。逆恨みである。斎観のことはもっと嫌いになった。誰も触われない二人だけの国を邪魔するなんて、野暮で無粋な男。そのうえ、白威の不幸の回避さえ願ったことがないらしい。

 しかし、ふと気が付いた。それは、もしかして、ひょっとすると。

「ここはあなたと斎観さんの、誰も触われない二人だけの国だったのですか?」

 白威は目を見開いた。その表情で、まるで違うということがわかって、蘭香はほっとする。

「あの方、あんなですけれど、色気はありますでしょう。だから……外からは窺い知れぬ世界を築いていらっしゃることもあるかと思いましたの」
「築いたことがありません、一度も。あんなに世界の閉じ切った男もいないでしょう」

 その通りだ。斎観は誰かと何かを共有することなどできない男だ。大きな力で空に浮かべることなど、望むべくもない。

「桃を植えましょうよ。そして実を川で冷やして、わたくしたち、二人だけで食べましょう」
「川で? ですか」
「冷蔵庫は歌詞にあまり出てきませんでしょう。素人が作っても甘くはならないのかしら? それならタルトにしましょうよ。絵本のようで素敵ですわ」

 蘭香も本気で言っているわけではない。少女趣味で可愛い女だと思われたいだけだ。そのことは伝わっているだろう。

 少女漫画の王子様のような美青年は、淡く笑った。

「いいですね。今度、ホームセンターに苗木を見に行きましょう」
「おしゃれをしますわ!」
「楽しみです」

 たかだかホームセンターに行くのにおしゃれをするのか、と言わないところが好きだ。斎観ならば絶対に言った。

 蘭香は白威の、土で汚れた袖口をそっと掴んだ。大事にしようと思ったのだった。あまり強くしがみつかない方がいいだろう。

 髪をそっと撫でられた。そんなに高頻度で草が付着するかしら? しかし、そういうものなのかもしれない。蘭香はトウモロコシへの評価を少し上方修正した。嫌いじゃないわ、そんなに。



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