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蜂の残した針 16話


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 長椅子の上で、姉は裁縫道具の箱を傍らに置き、白い布を膝に広げて、優雅に繕いものをしている。

 なんで俺の部屋でやるんだ、ちょっと迷惑だと思っていた西帝は、その様子がとても穏やかに見えたから許した。女が針を使う姿というものはよいものだ。クラシックな映画のようなおもむきがある。

 と思っていたのは三十分ほどで、「ああッ」という苛立ちの声をあげて、姉は布を乱暴に払った。畳の上に落ちる。

 椅子を取られたので床に寝そべり、タブレット端末で漫画を読んでいた西帝は、短い映画であったなと思った。

「なに癇癪かんしゃく起こしてんの?」
「血がついたら台無しじゃない! 白い布なんか使うからよ」

 針で指を刺してしまったのだろう。台無しになった理由も即座に理解しているようだから、西帝は特に言うこともなく眺めた。手当てが必要なほどの怪我ではあるまい。

 そういえば、手袋を外している。細かい作業をするならば、そうか。素手に慣れていないからミスをしたのかもしれない。そもそも針仕事に慣れているのだろうか?

「何縫ってんの? 兄貴に頼めば?」
「斎観は縫い物なんてしないわよ。それに、あたしが縫うことが大事なの。この世の物の中で、いちばん気持ちを感じるでしょ、手作りのアフガンって」

 西帝がイスラム圏の国を思い浮かべていると、千里眼の姉は「赤ん坊のおくるみよ」と解説した。

「だから白がいいかと思ったのよ。面倒くさいけど、耳もつけようかしら」
「情報が少ないようでいて多くて、うまく入ってこない。誰の赤ん坊?」
「詮索しないで。誰でもいいでしょ」

 てっきり、詮索されたくて見せびらかしているのかと思っていた。望まないならあまり干渉する気もなく、西帝はタブレットに視線を戻す。

「ちょっと! 冷たいじゃない。あたしがケガをしてるのよ」
「え、そんなたいそうなケガなの」
「違うけど、心配してよ。それでぴったり癒える程度なんだから」

 小さな感情をうまく言葉で説明する女だ。西帝は納得したので従った。

「大丈夫? ばんそうこうとか貼る?」
「たいしたことないわ」

 兄ならば面倒くさがるやり取りだろう。西帝は、兄よりは女心がわかるつもりだ。気遣いで癒えるものならば、癒すのが合理であろう。

 家族の愛はそこそこの万能薬だ。西帝は目を悪くした当初、マジかよ、不便だなあと思っていたが、姉と兄が気遣ってくれたからすぐに慣れた。ただいかんせんゴリラ寄りの家族であるから、視力を矯正する器具があるということにしばらく誰も気付かなかった。眼鏡を作ることを教えてくれたのは白威だ。西帝は彼のこともうっすら家族にカウントしている。

 逆に、父のことは敵だと思っている。いずれ打ち倒すべき巨悪だ。憎んでいるわけではないが、魔王なので有害なのだ。

 毒を盛ろうと思えばできるのだろうが、そうすれば姉が悲しむだろう。西帝は姉の性格をそれなりに理解している。この女の心は謀殺では救えない。決闘で魔王に打ち勝つしかないのだ。

 か弱さに欠ける姫は、落とした布を拾って広げている。

「白なんか汚れやすくて駄目ね。黒がいいわ。うちは全員ブルベ冬なんだから、似合うわよ」
「姉さんの子なの?」

 姉は「やべっ」という顔をした。口が滑ったのだろう。

 これは兄に、そして白威に報告だと、西帝は部屋を飛び出した。




 熱い紅茶を「熱いぞ」と言いながら差し出したのだが、兄弟子はぼんやりとマグカップを口に運び、「熱い!」と叫んだ。

 気もそぞろとはこういうことであろう。白威は自分の紅茶を吹きさましながら、その間抜け面をじろじろと眺める。

「なに見てんだよ」
「そう魂を抜かれるような話か? おめでたいことだろう」
「俺なんだ、苦労すんのは……このあいだ予言されてんだ。それに、西帝からしか漏れてきてねえってことは、まだ上に報告してねえんだろ。ってことはなんも準備してなくて、どうせ母親さらうのも、産まれるまで世話するのも俺なんだ」
「自分を憐れんで許されるのは、若くてきれいな女だけだぞ」
「現実的な手間の量を嘆いてんだよ」

 斎観という男に、容姿のほかの取り柄があるとすれば、この責任感の強さであろう。勝手に背負って勝手に嘆いているとも言えるが、実際、多くの手間を割くことになるはずだ。

「神無様に伝えるのがだりいなあ。無乃ちゃんが亡くなってもうだいぶ経つとはいえ」
「お喜びになるだろう、子供がお好きだから。このところシケたことが続いていたから、屋敷も活気づくだろうし」
「まあ、それだけが救いだな。あまりにも一族全体の子供が産まれねえから、誰の子でも歓迎されるっていう。王族なら警戒される位置の赤ん坊だろうに」
「自分を王族と仮定するのがずうずうしい」
「俺はともかく、俺の親父は普通に王座が視野に入ってるだろ。その嫡子の子なんか、おもしろくねえもんはいるだろうよ」

 実質、現長老を名指しである。彼は、かつて神無の子のことを疎んじた。今ではその基盤さえない。

 行きすぎた粛清が衰退を招き、年寄りばかりいて若者が少ないという、シケた現状を形成したのだ。

 兄弟子の部屋の、勝手知ったる押し入れを開けて、衣装ケースから古いシーツを引っ張り出した。

「俺も子供服を縫ってみようかな。こういうボロ布で練習して、上手くなったら綺麗な布を買って」
「なんでお前が張り切ってんだよ」
「おめでたいことだろう。張り切るのが礼儀だぞ」
「励ましてくれてんの?」

 そういうわけではない。慶事であり、イベントだから楽しそうだと思っているだけだ。裁縫はあまりしたことがないが、白威には向いているような気がする。

 桐生は反抗期を迎えて以降、すっかり気難しくなってしまったが、幼い頃はかわいらしかった。あのような子どもがまた現れるのなら、この抹香くさい屋敷も少しは明るくなるだろう。

 白威は子どもを好きでも嫌いでもないが、甘い菓子を焼いたら食い、服を縫ったら着る、小さな生き物がいれば楽しかろう。桐生とだいたい遺伝子の内容が一緒ならば、顔もかわいいことであろう。やにわに楽しみになってきた。

「テンションが上がってきた」
「珍しいな、お前がそんなこと言うの」
「お前と違って責任がないからな。小さい子供がいると、それを口実に細かいものを買ったり作ったりできるから楽しい。絵本なんかも買いたいな」

 斎観はぽかんとした顔をした。

「そんなことを言ってくれんのか……」
「だから、別にお前を励ましているわけじゃないが」
「どこから来てんだ、お前の母性」
「そんなものじゃない。もっとチャラチャラした気持ちだ。小型犬に服を着せて喜ぶようなものだろう」
「まさしく、母性を持て余したババアのやることじゃねえか」

 白威はそうは思わないが、兄弟子の想像世界ではそうなのだろう。暑苦しい世界観である。

「そういえばお前、姉貴の占いは行ったの?」
「ああ。無料にしていただいたから、お礼を伝えておいてくれ。それと、おかげさまで気が楽になりましたと」
「あんまりハマるなよ。なんか、何かをしろみてえなアドバイスとかされてねえだろうな」
「されたが、実現難度が高いから、しないと思う」
「──金かかること?」
「いや、そうでもないが」

 聞きたいようであったから、話すことにした。

「蘭香さんにマニキュアを買ってもらえと。色まで指定があった」
「それ系かあ」

 少しは冷めたのであろう紅茶を飲みながら、兄弟子は難しげな顔をした。
 気になって、問う。

「従ったほうがいいのか、このアドバイスは」
「身に着けるもの系は、聞いといたほうが無難ではある。姉貴に利害の発生しねえことは、基本的に親切で言ってるから」
「聞かないと不幸が訪れるのか」
「どうかなあ。神無様と違って、ネガティブなことはあんま言わねえが、あたる時は中るから、その程度なら聞いた方がいいかもしんねえ。らんこちゃんに言ってやろうか?」
「たぶん、俺が自分で動かないと効果が発動しないタイプのおまじないなんじゃないか」

 そう言われたわけではないが、雰囲気でそう感じたのだ。

 斎観はふうんと言った。

「マニキュアねえ。買ってもらった時点で達成なの? 塗って発動?」
「どうだったかな……塗れと言われたような気がする」
「男にはけっこうハードルの高いおまじないだな。あ、足の爪なら誰も見ねえか」
「手という指定だったような気がする、確か。ベージュと言われたから、目立たないほうの色ではあると思う」

 白威はたまには女の身体を作るが、維持できるのは半日が限度だ。その半日の間に塗ればいいのかもしれない。男が爪に色を塗っていて悪いことはないが、何か言われるのは面倒くさい。

 ただ、蘭香という女は頼みごとを聞いてくれるタイプなのだろうか。台所をよく使う者同士、普段から口をきかないわけではないが、私用を頼んだことはない。

 見かけのイメージほど性格のきつい女ではないと思うが、優しいという印象もない。

「蘭香さんにおつかいを頼む時のコツを教えてくれ」
「フツーに、頼めば聞いてくれると思うぞ。塗ってみてえけど自分で買うのは恥ずかしい、とかなんとか言えばいいんじゃねえの」
「さすが、女に適当な言い訳を思いつく速度がすごいな」
「白ぴのイジワルッ。どうしてそんないけずを言うのよ。小せえもんには優しいのに、でっかいもんは嫌いなのかよ」

 好きでも嫌いでもない。やや仲の悪い同僚だ。そのラインを維持するために、たまにこうして茶を飲んだりする。

「桐生君の噂をいろいろ聞くが、どうなんだ」
「料理はあんまりセンスねえな。もともと食うことにもあんまり興味ねえし」
「そうじゃなくて、典雅様を相手に見栄を切ったとか」
「それそんな噂になってんの? 典雅様が怒ってるらしいとは聞いてるが、俺が菓子折り持ってかなきゃいけないやつだと思う?」
「廊下で肩がぶつかって、桐生君が謝らなかったとか、典雅様がセクハラを働いたとか、どれくらい正確なのか、どっちが悪いのか、不確かな話しか聞いていない。桐生君が悪いのか?」
「さあ、あいつ言わねえし」

 こういう時に判断軸となるものは、日頃の行いであるが、それが両者はぴったり同程度なのである。自分たちは典雅の悪いところを知らず、桐生の生意気な面を知っている。

 その父親は高い鼻梁を指で押さえた。

「多いんだよなあ、処理案件が」
「桐生君が悪かったとしても、典雅様はお前に責任を問うたりはしないだろう。常識の範囲のことなら」
「典雅様が怒ってるのが本当なら、常識の範囲を逸脱したんじゃねえの? あんまり怒らねえだろ、あの方」
「お前の中で、信用度の天秤はそうなのか」
「桐生を信用してねえってことじゃねえよ、あいつ賢いし、そんな変なことはしねえだろ。女か?」
「典雅様が女のことで怒るか?」

 兄弟子ははっとした顔をした。

「色舞ちゃんとのことがバレたか……? 桐生じゃなくて、俺に怒ってんのか?」
「何かやらかしたのか」
「いや、特に覚えはねえが、恒常的にセフレ扱いしてたのがバレたのかと思って」
「そんな扱いをするな。切れないにしても、優しくしてやれ」
「俺はしてるつもりなんだが、女心ってある日突然炸裂したりするし、あーっ」

 処理案件が多いんだともう一度言って、不誠実な男は天井をあおいだ。



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