見出し画像

蜂の残した針 32話


←31話


 喪服の女というのは色気がある、この女は特にそうだと思っていたら、納屋に引っ張り込まれて手を握られた。

 一瞬、いや、三瞬は考えたが、さすがに理性が勝った。姉でなくとも、針のむしろの未来くらいは見える。こんなところを誰かに見られたら、その時点でまずい。斎観は納屋の戸を開けた。

「いいじゃない」

 此紀が閉める。そして今度は腰に手を回してきた。

「よくねえって! 飲んでますね」
「あたしはいつも飲んでるのよ」
「そうだった。あのですねえ、俺は間の悪い男なんですよ。こんな鍵もかからねえとこで如何わしい行為に及んでたら、どうせ誰かに見つかるんです。親戚全員にバレて、桐生に縁切られるのは困りますよ」
「喪服の男って色気があるから、ムラムラするのよ」
「感性が同じだ」

 甘酸っぱい匂いがする。こんなもんを嗅がされていたらどうなるかわかったもんではないので、戸を開けて、引きずるようにして女を廊下に連れ出した。

「あん……」
「あんじゃないですよ。赤飯食いますか?」
「初潮でも迎えたの? おめでとう」

 中身がおっさんであるらしい。足取りがおぼつかない様子なので、早く桐生に預けたほうがいいだろう。みなは広間にいるはずだ。

 しかし、その途中で此紀は足を止めた。

「宣水……」

 庭の、池のほとりに立つ長身の男は、喪服で背を向けていてもそうとわかる。帰っていたのか。しかし池で何を? 手を入れる者がいないから、もう鯉もいないはずだが。

 長い髪を風になびかせながら、フランス籍の男は振り向いた。格好のいいことだと、なぜか皮肉な気分になる。

「斎観」

 女ではなくこちらの名を呼んで、長い脚で歩いてきた。

「お悔やみを申し上げる。車は、まだ見つからないのか」
「ええ、場所が悪かったので」

 見つかっても困ると、斎観は思っている。自分と似た死体など見たくはない。崖の下で骨になってほしいものだ。

 宣水が存外、深刻そうな顔をしているので、何を言ったものかと迷う。赤飯は勧めないほうがいいだろう。

 気付くと、此紀がストッキングのまま庭に下りて、宣水と腕を絡めていた。

「此紀様!」

 険のある声が出てしまった。それはなんぼなんでもマナー違反が重複していると思ったのだ。

「桐生が広間におります。お足元も汚れます、お戻りください」
「そうか、人妻なんだったな」

 意外な良識を発揮して、宣水が此紀の手をそっとほどいた。
 連続で男に断られた人妻は、ぷっとふくれて縁側を上がると、斎観の側を通り過ぎて広間へ向かった。
 同じ縁側から、靴を脱いだ宣水も上がってくる。

「なぜ靴を……」
「ここに置いていたらまずいか?」
「構わないと思いますが、わざわざ玄関から庭に回っていらしたんですか?」

 思い立って下りたのなら、此紀のように履く靴がないはずだ。
 宣水は答えずに、斎観の顔を見た。

「背が高くなったな」
「百年前からこの背丈ですが、ああ」

 父に似ていると言おうとして、咄嗟に言い換えたのだろう。
 父は、二人の友とだけ親しくしていた。トリオの中で、もっとも瘋癲ふうてんの気のあったこの男が、今やもっとも良識的なのだ。状況とは移り変わるものである。

「あいつは、困った女だな。寂しいんだろうが」

 そう言いながら斎観の手を握ってきたので、「どういう連続?」と思ったが、こちらはいわゆる握手であった。誘惑ではなく、気遣いと励ましを感じる。
 昔から感じることだが、この男には有無を言わせぬ包容力がある。さぞ女に好かれることであろう。

「皇ギは休んでいると聞いた。お前が喪主だと」
「はあ、でも死──車が見つからない以上、村で葬式をあげるわけにもいかないってことなので、本当に形だけですが」
「手伝うことはあるか?」
「いいえ、大丈夫です。あ、此紀様のことは、またあっても断っていただけると助かりますが」
「そうしよう。桐生が寄り添っているなら、俺なぞ必要ないだろうし。神無はどうだ、変わりないか」
「お陰様で」

 元気かと聞かぬところに世慣れを感じる。
 しかし、端正な顔の男だと改めて思った。乾性の色気がある。髪は白いものが混じっているが豊かで、瞳などは鳶色よりも淡い。和泉の神話めいた美貌のルーツが確かにそこにあった。

 その目はまた、池を見ていた。泥色の水が溜まっているだけのそこを。

「蚊でも湧いてますか?」
「昔、あの池にはかえるがいたんだ。鳴き声が風流だったんだが、うるさいと言って豪礼が殺した」
「そうなんですか」

 父らしい、短気で悪しきエピソードである。

「愛していると思ったこともある」
「蛙をですか」
「いや、お前の父を」
「誰がです?」
「俺がだ」

 両のまぶたを指で押さえた。目玉が飛び出す気がしたからだ。

「大丈夫か?」
「言い方的に……友愛ではない印象を受けましたが」
「わからん、自分でも。あいつも、いや、聞きたくないか」
「もう聞いたようなもんですよ。親父が応えたんですか? 殴る時以外、男に触りたくないタイプだと思ってました」
「といっても、二度か三度だけだが」
「二度か三度はやったんだ!」

 その場でジャンプしてしまった。衝撃を逃す方法を他に思いつかなかったのだ。

 狭い屋敷に、暇を持て余している者ばかりであるから、図形が錯綜することは珍しくもない。しかし、その点と点の間に、そんな線が引かれていようとは考えたこともなかった。

 宣水は「ふふ」と短く笑い、ぎくりとするような流し目で斎観を見た。

「ここは狭く、俺たちは若かった。此紀は師に夢中で、俺たちはのなさを覚えていたんだろうな。生物の本能なのか? ペアでありたいという焦りもあった気がする。結局、俺たちはどこへも寄れず、つがいも得られなかったな」

 流れるようになめらかに頬に触れられ、おとぎ話のように完璧なキスをされた。

 瞬間的に、お姫様のような気分になってしまったが、これは位牌に手を合わせたようなものなのだろう。しかし何と言っていいかわからず、斎観は黙って目を逸らした。お姫様っぽいリアクションをしてしまったことに気付く。

 宣水はそっと離れると、優しげに目を細めた。

「明後日までここにいるから、何か用事があれば言ってくれ。和泉の部屋に泊まってる」
「はあ、どうも……大丈夫だと思いますが」
「豪礼の残した祝福が、お前に降るように」

 フランスでは遺族にこういう物言いをするのだろう。どうも、ともう一度答える。そしてまたキスをされると困るので、さりげなく場を辞した。

 廊下の角を曲がると、桐生が立って赤飯を食っていた。

「わっ! 何お前、こんなとこで赤飯を」
「じいちゃんの部屋に行こうと思ったら、取り込み中のカップルがいたから、気を遣って終わるまで待っててやったんだよ」
「くそ! 間の悪さがすごいな。見てたんならしょうがねえ、まだ行くな。お前もキスされるかもしれねえ」

 桐生は斎観の次に、宣水の愛した──?──男に似ているのだ。

 赤飯を食い終え、包んでいたラップを畳んで、桐生は無関心を装ういつもの顔をしている。ということは、怒っているわけではなさそうだ。

「さっき向こうで此紀様を見かけたよお~」

 此紀が何かを言っていようがいまいが、リカバリーがきくようにすっとぼけておいた。桐生はため息を吐く。

「目を離すと酒を飲むから、気を付けてたんだけど、少し立った隙に広間からいなくなってた。今、万羽様が捕まえてくださったけど。足が汚れてるから、離れにでも行ってたのかな」

 次の男を誘う前に、友に保護されたらしい。
 あんな女などやめておけと言えば、冷ややかに無視されるだけだろう。前向きに話しかける。

「久しぶりだな、ここでお前のこと見んの。もっとちょいちょい帰ってくりゃいいのに」
「目が離せないんだって。小さい子供抱えてる母親くらい不自由なんだよ──統陽はでかくなってたね。なんかこいつの顔見たことあるなと思ったら、昔の俺の顔だった」
「そうそう、お前に一番似てるんだよな。母親はかなり系統が違うのに、父系の血が濃いったらねえわ」
「和泉さんは信じられないくらい母親の遺伝子が仕事してるけどね。宣水様と何、デキてんの? いつから?」
「うるせえな、昨日からだよ」

 適当な返事をしておいた。桐生は気位が高いので、あしらえばゴシップには深入りしてこない。ついでに話を逸らす。

「じいちゃんの部屋に何か用があんのか? あんまいじくり回すなよ」
「泊まるから、布団とか確認しときたいんだけど」
「なんでじいちゃんの部屋に泊まるんだよ。此紀様の部屋に泊まるもんだと思ってたが」
「だから、此紀様の部屋に泊まるよ。俺が使う布団とか枕とか、じいちゃんの部屋から借りようと思って。それも誰かの許可取らないといけない?」
「自分の布団持ってったらいいだろ。まだ部屋にあるぞ」
「遠いだろ。面倒くさい」

 そういえば此紀の部屋というのは、父の部屋の隣なのだった。しかし自分の布団がある家で、親族とはいえ、誰かの布団を借りようという気が斎観には知れない。

「伯母さんは大丈夫なの? さっきフラフラしながら起きてきて、なんかむにゃむにゃ言ってたけど」
「もう起きたか。けっこう薬に強いんだよな。まあ、様子に気をつけてやってくれ。俺は神無様のシフト入っててバタバタしてるから」
「今日くらい白威さんが代わってくれるだろ」
「そんなあいつにばっかり頼ってらんねえよ、西帝の手が空いてねえ時は統陽のことも見てもらってんのに」

 なぜか突然、桐生は不快そうな顔をした。

「そうだね。白威さんはあくまで善意の他人であって、親父の嫁じゃないんだった」
「何? 今のどれがお前の気に障ったの? その通りだよ。何を怒ってんだ」
「別に」

 長い髪を気だるげにかき上げて、桐生は広間の方へ戻っていった。

 斎観は短く息を吐いた。うろうろしていると、色々な者に個別のエンカウントをして、なかなか面倒な思いをすることになる。少し間を置いてから、自分も広間に戻ろうと考えた。




 沙羅は不細工になっていた。

 まぶたが腫れて、鼻は赤くなり、頬はむくんでいる。長い髪は結われておらず、幽霊のようだ。

 女は恋を得ると美しくなるから、失うと醜くなるらしい。しかし心は気高いままのようで、喧騒の隅で薄い酒を飲みながら、きりりとした目で宙を見据えている。隣の東雲にしか聞こえぬ声量で宣言した。

「明日こそロープで下りようと思う」
「やめなさいって。あなたの身に何かあったら、向こうさんの遺族の目覚めが悪いでしょうよ」

 沙羅の操縦法を多少は知っているので、人道の方面で説いておいた。案の定それで黙る。

 しくしくと泣き出した。

「一人ぼっちで、崖の下などに落ちて、寂しがっているかもしれない……」
「絶対そんなタマじゃないでしょ。勝手に哀れまれる方が嫌がりそうですけど」
「お前があの男の何を知っているんだ」
「知らねえから、知らねえなりのイメージで喋ってるだけですよ。亡くなった方よりもあなたのほうが大事だし。風呂でも入って、ちゃんと寝てくださいよ。ブスになってますよ」

 沙羅はもっと泣いた。後頭部と背中に数回の軽い衝撃が走る。見ると、瓶のフタや飴や丸めた紙を投擲とうてきされたのだった。飴は東雲の父として、他にも沙羅の動向を見守り、東雲の言うことを聞いている者がいるらしい。

 飴を拾って包装を剥き、沙羅の口に入れてやった。

「うう……甘い」
「そうでしょうね」

 この精進落としの場で、見たところ、泣いているのは沙羅ひとりだ。談笑している者も多い。喪主はどこかへ行ったり戻ってきたりと忙しそうだが、その様子も含めて普段通りに見えた。

「頭痛は大丈夫ですか? 変な薬打たれてましたけど、それは?」
「頭はぼーっとする。薬はもう抜けた」
「抜けてねえじゃん」
「泣くとこうなるものだろう。私は、もう子供ではないし少女でもないのだから、そんなに気を遣うことはない。飴も自分で食べられる」
「普段はそうでも、今は分別がついてねえんだから子供ですよ。寿司食います? イクラありますよ」
「いらない……」

 食い気と色気がなくなると、生命力が消沈しているように見える。イオンで半額シールを貼られていたパック寿司を食いたくないだけならばよいのだが、他の食い物にも手をつけていない。

「飴を食っているのだから……」
「なるほど。まあ飴食って、ちょっと寿司も食ったら、もう寝たほうがよくないですか? ここにいたって寂しくなるだけでしょう」
「部屋で一人で布団に入るほうが寂しいだろう」
「そうですか? じゃあいいですけど」

 大勢の親族がいても、誰も悲しみを分かち合ってはくれないのなら、そのほうが孤独を感じるのではないかと、言葉にして考えたわけではないなりに、東雲は思ったのだが。

 心や寂しさのことを話したくはない。東雲は目に見えないものが苦手である。妹弟子が化粧もせずに顔を泣き腫らし、髪を乱れさせ、サイズの合わない喪服を着ていることを、なんだかなあと思う。死者と悲しみと身だしなみは、すべて別のことのような気がするのだ。沙羅が醜くなったところで、死者が浮かばれるということはなかろう。

 感傷的な意味合いではなく、思いや祈りで変化が起きるようには、世界はできていないのだ。カロリーを費やしたところで無意味ではないか。そうでなくとも、沙羅にはカロリーが足りていないのに。

 ふと出入り口に近い席を見ると、喪主が姉に寿司を食わせていた。どこも似たようなものである。

 みなが喪服を着た、色彩の抑えられた広間の中で、和泉の金色の髪はとても目立つ。つまり東雲もそうだということで、瓶のフタや丸めた紙の謎が解けた。

 ブロンド女の隣に座る刹那は、目を見張るほど美しい。喪服が似合っているのだった。国典に列席する、英国の王族のようだ。

 その左の弥風は、上機嫌を隠せていない。目の上のこぶの突然消失というわけだ。西帝がそばにいる時だけ笑っていない。

 西帝は給仕と酌と片付けをしながら、幼い弟を肩車していた。見かけによらず力があるのだ。

 典雅は浮かぬ顔で、膝で眠る末娘の髪を撫でている。才祇と色舞は姿が見えない。台所仕事に回っているのだろうか。

 此紀もまた眠っていた。こちらは男の膝枕ではなく、壁にもたれてうつむいている。長い脚が放り出されていた。ストッキングが伝線していてエロいなと思っていると、桐生がその脚に上着を掛けた。睨まれる。

 最終回っぽい総ざらいをしている途中で、二の腕に小さな衝撃を受けた。わさびの小袋であった。下座で寿司を食っている女が、手裏剣の要領で投げてきたらしい。

 何か知らぬが呼ばれたものと思い、立ち上がって近付くと、弟のほうが「どうした?」と声をかけてきた。わさびを投げた姉は無視して寿司を食っている。間の抜けた形になり、東雲は仕方なく挨拶をした。

「お悔やみ申し上げます」
「おう、沙羅さん大丈夫か? 髪バサバサだが」
「注意したんですけどね」

 皇ギの髪はきちんと櫛を通されて結われている。化粧も多分しているか。元が美人であるからそこはわからないが、とにかく沙羅よりは凛々しく見えた。

「不味い寿司だわ」

 買い出しの一部を担当した東雲への文句だろうか。

「はあ、すみません」
「あんたが握ったの?」
「そんな能があればよかったんですが、買っただけです。すみません、時間がなかったもんで」

 予算が少なかったと言うと、気を悪くするだろうと思い、そう説明した。斎観が姉の額を指ではじく真似をする。

「食っといて文句言うなよ。お前も、悪くないことで謝るな。いろいろ迷惑かけて悪いな」
「いえ、なんも」
「刹那様メッチャ喪服似合ってねえ? 美少年っぷりがすげえ。アメリカの貴族みてえ」
「アメリカに貴族はいないわよ。馬鹿を晒すのはやめなさい、みっともない」

 弟をしたたかに叱ってから、皇ギは東雲を見た。

「沙羅の頭痛はどうなの」
「ご存じだったんですか。今日のところはどうも、大丈夫みたいです」
「頭痛がマシになっても、醜くなっちゃおしまいよ。なんで小さい喪服を着てるの? 胸がパツパツで見苦しいわ」

 斎観の視線が広間をさっと撫ぜた。ほっとした様子から、甘蜜の姿を探したのだとわかる。彼女は出席していない。

 沙羅が醜くなることについて、東雲もよくは思わないが、おしまいになりはしないだろう。沙羅には律儀な心や、いつでも発揮される行動力がある。姿の美しさに関係ない、彼女の長所だ。

 嫌な気分だなあと東雲は思った。なんかむかつく。女に対してあまり腹を立てることのない性分なのだが、目の前の女のことは嫌いだと感じる。そりゃ美人だが、斎観さんに似てるし。それに身長も高すぎる。自分だって胸がでかいくせに、沙羅さんの悪口を。

 皇ギは斎観に酌をさせてグラスで発泡酒を飲み、煙草を咥えてやはり弟に火を点けさせた。女王のように東雲を見上げる。

「あたしを批判したいなら、政治に参加することね。舟を漕がせておいて、乗り心地に文句を言うのは、恥知らずのすることよ。あんたの父親はしない」
「どういう政治的な意図で赤ん坊の顔を、痛て」

 尻に衝撃、小型の灰皿であった。見ると投手と思われる東雲の父が、指でバッテンを作って口にあてている。

 視線を多く感じる。確かに、今ここで言うべきことではないだろう。

 とりわけ斎観の視線を避けたくて、東雲は灰皿を拾い、父のところへ届けるふりをした。



→タペストリー

→33話

→目次

サポートをしていただけると、逆にたぬきを化かす会が元気いっぱいになります。