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まぶたは閉じられるが、耳は閉じられない。

セナさんの記事を読みながら自分のことを振り返っていた。かなり長い期間、不定愁訴であるとか、パニック障害やうつであるとかいう診断であったが、どうも納得がいかない症状と状況があった。

状況が変わり始めたのは障害者就労支援センターのMさんに会ってからだった。Mさんから見ると、どうも診断内容と私の現状に違和感を感じたらしく、先生と面談なども一緒にして頂いた。が、どうも担当医の考えは変わることがなく、結局は担当医を変えるという方向で話は進んだ。

担当医が変わり、話をするとASDとADHDのチェックシートの記入を勧められた。前の担当医に何度か話してみたが、全く取り合ってもらえなかった発達障害の話である。結果としてADHDにはギリギリ該当していなかったが、ASDの方は該当していた。詳しく書いてよいものなのかわからないが、中ランク(?)くらいの判定であった。

そこからASD対策を順に試してみて、音のレベルを下げる耳栓を使うようになった。すると辛かった雑踏が割と大丈夫になり、頭の内圧が上がったような感覚や頭痛が減り、めまいなど諸々の症状が軽減していった。

そんな中で思い出したことがあった。子供のころ「聞こえる音が半分になればいいのに・・」とよく思っていたことを。当時に耳栓なんて常時していたら変に思われるだろうし、指をずっと耳に突っ込んで生活するわけにはいかない。目はまぶたがあって光を遮ることができるが、耳の穴はずーっと開きっぱなしで、外界の音は起きていようが寝ていようが常に脳に送られ続けているのだ。

今は脳に届く情報量を制限する機器が様々にあるので、ある面では良い時代なのかもしれないが、日常にこれだけのノイズが蔓延している時代というのも今だけだろう。

人類の長い進化の歴史から見ると、わずかな物音を聞き取っていた時代が圧倒的に長いはずだろう。生物として今のノイズや光の渦にまみれている生活というのは、無理があって当然なのかもしれない。

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