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気に入らない文章

あまり良いとは思えない文章。
だけれどソレも自分の中から生まれてきたものに違いない。

見ないようにしてしまうのは簡単だが、なんとなく。
ただなんとなくその失敗作のほうに本当の自分がいるような気もする。

では良くできたと思える文章。
そちらに自分はいないのかと自分に聞けば、それは・・そちらにも自分はいる。と答える。

でもまぁこれ、あくまで自分の中だけで感じていることで、他人からすればまた違った感想になることだろう。

それだけに多くの人に称賛されている作品というのは素晴らしい・・ものなのか?どうか。
中には「みんなが良いと言っている」ということで "いいもの補正" されてしまっている人もいるだろう。

まぁ、聞き取り調査したわけでもなし、科学的なデータがあるわけでもない。ただなんとなく想像しているだけの話。

ある役者さんの話

ラジオ番組での一幕。
ある役者さんが大ヒットドラマの主役を演じられた際に、「こんなの恥ずかしくてできないよ」「受けるわけないじゃん」と、撮影時には思っておられたらしい。

ところがそのドラマが放映されると大反響。
事務所にもひっきり無しに電話が入ってくる。
「感動しました」「名シーンです」
普段は自分が出演している作品に興味も示さなかった家族までもが感動し、「○○さん・・良かったぁ・・」と泣いていたそうだ。

作品を作っている最中に、「これはイケる」と意気込んだ作品というのは世間からの評価も寂しい感じになるようで、「自分ではよくわかんないね」「何が受けるかわかんない」と仰っていた。

そういう話を聞くと絵画もそうだな。と思う。
近代アートだと発表されて直ぐ評価されることが普通というか、あまり珍しいことでもないが、100年、200年前の画家なんて近代になって徐々に評価され、今でこそ誰もが知る大芸術家になっているが、当時は貧困や失意のまま亡くなっていることが多い。

まさか自分の作品が数世紀の後の世で高い評価を受け、2つ名のようなものまで付けられる存在になるなんてこと、普通は考えたりしない。

全く無名のまま、誰に知られることもない画家も相当いることであろうから、・・まぁ死後でも評価されている方々というのは幸せなのかもしれないが、その評価が本人に届いているのかは全く未知の世界であり、確認できない。わからない話になってくるので止めておく。

だからなるべくそのままで

自分の中から湧き出てくるもの。それは時と場合とで変わり続け、文体やらはグチャグチャで統一感なんてあったものではない。

「こういうものだ」「こうあるべきだ」というルールや概念に縛られない表現。そちらのほうがより生の感覚。内から湧き出したままの言葉を並べたほうが自分にとっては自然な文体と言え、違和感を感じなくて済む。
― ある程度意味が通じるように翻訳しているつもりではあるが ―

だから日常の光景を感じたままに書く文章と、自分の内側から湧いてきた言葉とではかなりイメージが違ったものになる。

でも、どちらも自分を通して表されたものに違いはない。

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