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結論ありきにならないことの大切さ|「訂正可能性の哲学」(東浩紀)

哲学書なのに新書並みにさくさく読めてとても面白かったです。「結論ありき」にならないことの大切さを、ウィトゲンシュタインやルソーなどの過去の哲学者をわかりやすく紐解きながら語っていて、哲学者全部盛り感もあります。異分子があらわれたときに、「異常」なものを排除したり説教したりして、自分たちを「正しい」側に置き続けるのはラクなんですけど、袋小路なんですよね。また、不登校という異分子と出会ってしまった親御さんにとってもヒント(訂正可能性に開かれた対話)がいっぱいある哲学書でした。

たしかに、自分を「正しい」側に置いておくほうがメンタル的にラクだし、訂正するなんてめどくさいし、生活がかかっていたりすると引くに引けないときもあります。とはいえ、異分子を排除するコミュニティは持続可能性がありません(だからこそ訂正可能性に開かれた対話をすべき)。
なぜか。まずはウィトゲンシュタインからこの話は始まります。


ウィトゲンシュタインの言語ゲーム

ひとは言葉を使ってゲームをしている。そう聞けばふつうは、発話者つまり「プレイヤー」は、自分がなんのゲームをプレイしているか、いかなる規則に従っているかぐらいは理解しているはずだと考える。チェスのプレイヤーが、目のまえの盤面がチェスのものであることを認識し、チェスの規則に照らして駒を動かしているかのように。
 
けれどもウィトゲンシュタインは、そのような常識に反し、言語ゲームにおいては、プレイヤーは自分がなんのゲームをプレイしているか理解することができないし、またどんな規則に従っているかも理解することができないと主張したのである。つまり、いったいなんのゲームをプレイをしているのかわからないまま、ただプレイだけを続けている、それこそが言語の本質だと主張したのだ。(中略)

たとえば恋人にむかって愛の言葉をささやいているときは、恋愛のゲームのなかにいると思い込んで、けれども、現実にはそこにはつねに、第三者がやってきて、じつはおまえはいままでずっと別のゲームをプレイしていたのだ、相手は本当は恋人ではなく、おまえを愛しておらず、したがっておまえの言葉も愛の言葉としては機能しておらず、おまえはずっとハラスメントをしていたのだと指摘される可能性がつきまとっているのだ。そこで、いや、自分としてはずっと恋愛のつもりだった、ハラスメントの訴えはおかしいと反論したとしても、それはもはや有効な反論にならない。ウィトゲンシュタインの発見は、そのような事例に引きつけると理解しやすい。

43p、45p

言語ゲームの事後的な訂正可能性は、コミュニケーションの本質なので、ありとあらゆる人間関係にあてはまります。なので、いつまでたっても意味は確定せず、後出しで「実はあれはね……」と遡及的にちゃぶ台返しされる可能性があります。子どものためによかれと思ってやってきたことが、事後的に「毒親」とか「教育虐待」とか指摘されてしまう可能性はつねにあります。

しかしながら、人間のコミュニケーションが難癖やクレームを原理的に排除できないというウィトゲンシュタインやクリプキの議論は、厄介さだけではなく、結論ありきに染まった集団を「空気読まないちゃぶ台返し」でひっくり返せる(訂正できる)余地を残してもいます。

訂正できる余地が、ガバナンス(統治)を強くする

この本の面白さは、この「訂正できる余地」について、あえて肯定的な評価を与えているところなんですね。しかもミクロな人間関係だけでなく、マクロな国家全体の統治においてさえも当てはめています。

例えば、著者は、社会主義がぽしゃった後の人類が信じることができる「大きな物語」(理想の社会のあるべき姿みたいなもの)として、AIが滅茶苦茶賢くなって最適な政策を出力し続ける「人工知能民主主義」のヴィジョンが台頭していると、現代社会をとらえています。

とはいえ、この新しい「大きな物語」は手放しで喜べるものではなさそうです。仮にAI(人工知能)が賢くなって「最適な政策」を出力し続ける時代になったとしても、そこからこぼれ落ちる困った人間は必ずでてくるからです。

一般意志がどれほど正確に抽出され、それを統治に変えるアルゴリズムがどれほど完璧になったとしても、そんなことは関係なく、肝心のアルゴリズムやら人工知能やらの選択に難癖をつけ、制度の新解釈を並べ、「訂正」を迫り、一般意志そのものを再定義しようと試みる人々は必ず現れるだろう。それが人間社会というものだし、政治家とはそもそもそういう難癖をつける人々を意味している。成田はそのような困った人間をいかに黙らせるのか、ほとんどなにも考えていない。いいかえれば、人工知能民主主義は、人間のすべてのコミュニケーションが訂正可能性に満ちた不安定なゲームであること忘れた、本質的に非人間的な構想なのである。

220p

そして著者はその「クレーマーによる空気読まないちゃぶ台返し」こそが、過ちを訂正できる力であり、民主主義の健全さを支えている力であるとポジティブに評価しています。このあたりの、ミクロな言語ゲームの限界がマクロな政治の話にアクロバティックにつながってく論理は、読んでいてかなりテンションあがりました。

もうちょっと具体例を出すと、AIによるプロファイリングが進めば進むほど、ひとりひとりがどんどん不可視の統計的カテゴリーにおとしこまれていき、釈明の余地なく、不利益を被ることもあります。これではとても健全なガバナンス(統治)があるとはいえないです。

人工知能民主主義には訂正可能性がない。いちど定まった一般意志は「正しい」だけで訂正されない。だからここでは市民は、いちど属性を与えられたら、永遠にその属性から脱出することができない。いくら善行を積み重ねても、「あなたに似た人々」が犯罪者であるかぎりにおいて、あなたは永遠にリスク集団の一員として分類され続ける。あなたは、あなたが男性であること、あるいは女性であること、ヨーロッパ人であること、アジア人であること、マジョリティであること、マイノリティであること、加害者であること、被害者であること、それらすべての規定から永遠に脱出することができない。あなたの行動はつねに「あなたに似た人々」に差し戻され続ける。それが人工知能民主主義の世界だ。

244p

バフチン「対話は本質的に終わりようがないし、終わってはならない」

訂正可能性はコミュニケーションの原理的な限界であり、逃れようのないものですが、むしろこの訂正可能性に開かれた対話を積極的に肯定しているのが、ロシアの思想家であるバフチンです。

彼が想定する対話は終わることがない。いかなる結論も暫定的なものにすぎず、あとでいくらでも転覆しうるからだ。人間のコミュニケーションは、みなが同意する安定した「真実」にけっして辿りつくことがない。そしてそれは失敗ではない。バフチンの考えでは、むしろその完結不可能性こそが人間の自由を保証するのである。

311p

ちなみに、このバフチンの思想に影響を受けたフィンランド発祥のメンタルケアの技法(オープンダイアローグ)は受け継がれており、日本でも徐々に広がりつつあります。

不登校という異分子に出会ったしまったときこそ、訂正可能性に開かれた対話が必要

不登校の親御さんにとってみたら、自分の子どもの状態は到底受け入れることができない異分子であり、何考えてんだか訳が分からない他者であります。とはいえ、こっちのほうが人生の先輩であり、どうしたらよいか解決法も知っているからそれを教えてやる、と上から目線で接しても、まったくうまくいきません。

なぜか。当事者からすると、結論ありきで説教したり説得したりしても、そんなことは百も承知で耳タコだからです。なので、正論を繰り返しても一向に関係性はよくならないです。

むしろ、どう見ても社会不適合者の異分子だとしても「相手をなんとかしたいという下心」を捨てて、自分んのほうを変えていく訂正可能性に開かれた対話をすること。そんなオープンダイアローグ的なアプローチほうが、不思議と家族関係も風通しがよくなって、副次的に問題が解消します。

オープンダイアローグ体験会

最後に宣伝になりますが、オープンダイアローグってなに? という方向けに、体験会も開催しています。参加費無料ですので、よかったらご参加いただけますと幸いです。


(参照)人権としての訂正可能性を残すための法規制

ちなみに、人工知能民主主義(アルゴリズムによる統治)に訂正可能性がないという論点は、プライバシーやプラットフォーマー規制の文脈で、憲法や情報法の領域でも議論されています。

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