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「学級会」をやめられない大人たちが「こどもかいぎ」から学べる2つのこと
悩みの100%は人間関係、という言葉もあるとおり、生きているだけで他者との衝突や利害調整は避けられないわけですが、最近は、いい大人がまるで小学校の学級会みたい私刑(リンチ)をしていて、悲しくなります。
"加害者"が「ごめんね」と謝罪し、"被害者"が「いいよ」と許して、とりあえず和解したことにする茶番が学級会だったとするのならば、もはや茶番以下です。むしろ、SNSでは一度謝罪したら最後、自ら非を認めたのだからと「叩いても安心な存在」として余計にボコボコにされます。端的に言って、対話の余地がなくなっています。
「こどもかいぎ」は、小学校に入る前の保育園の年長組ですら、対話はできるんじゃないか、というドキュメンタリー映画でして、今の状況にうんざりしている大人にこそ観てもらいたい作品でした。
(1)「こどもかいぎ」とは何か
保育園に通う子どもたちが輪になって座り、保育士の先生の問いかけに答えていく時間が「こどもかいぎ」です。お題は、とても些細なものです。雨ってなんで降るんだろう? どんな大人になりたい? 死ぬまでに一回はやりたいことは? など。
特徴は、先生が何か正解を教えるわけではない、様々な声がお盆の上にのせられていく場である、ということです。例えば、「生まれてくるとき何を思った?」「人類を増やしたいと思った!」なんてツッコミを入れたくなる回答もあったりするのですが、どんな回答にも先生は否定せず、受け止めます。
また、子ども同士のやり取りも感情むき出しで生々しいです。途中で話を遮られた子が見るからに不機嫌になったり、その子がその不満を共有したら、さらに「いや、そもそも話長すぎ。言いたいことは聞くから短くお願いね」と被されたりします。なんというか、先生の立場だったら、介入して「まあまあ、みんな仲良く、ね」とか言いながら取り繕いたくなります。しかし、「こどもかいぎ」ではあえてはそれはせず、大人は見守るだけです。
なぜかというと、「問題の解決をあえて目指さない。大人は一歩ひいて、子どもに任せて、うまくいかなったときのモヤモヤや後悔や反省も含めて感じることが保育に大事」という価値観があるのです。
(2)対話とディベートは何が違うのか──ディベート甲子園という教育NPO界の極北
問題の解決をあえて目指さない、というのは対話を成立させるための非常に大事な原則です。なぜかというと、問題の解決を目指すと、いかにこちらの主張を通すかというゲームになり、対話ではなくディベートになるからです。
誤解してほしくないのは、ディベートは国家・社会・組織を運営するうえで必要なスキルであり、これはこれで滅茶苦茶大事です。ディベートとは、ある論題について立場が異なるもの同士がお互いの主張をぶつけ合い、反駁し合いながら、より妥当な、合意できる解決策を模索するものです。民主主義を成立させるプロセスであるといってもいいです。
特に、中高生向けの競技ディベートの全国大会(ディベート甲子園)は、「安楽死を合法化すべきか」、「原発を廃止すべきか」という政策論題を、専門書のエビデンスを引用しながら、第三者である審判を説得する形式で行うので、ロジカル・シンキングがかなり鍛えられます。ディベート甲子園の決勝戦は、財務省の新人も研修で観るらしいです。高校生でさえ、一市民として、これだけ社会にとって何がよいか、合理的な議論ができる、という一例なのでしょう(なので官僚はもっと頑張れ、というインプリケーションがあるのかもしれません)。
また、競技ディベートの良いところは、賛成派か否定派になるかは試合ごとにランダムに決まるので、自分の政治信条と違う主張も擁護しないといけない点です(例:原発廃止派でも、くじ引きで原発賛成派の立場に立って発言しないといけない)。このように立場の交換があると、学生は様々な主張・思想にも一理あるということを自然に学べ、多様な価値観に対してオープンになれます。
さて、ディベート甲子園がロジカル・シンキングのスキルアップという点では最強の教育NPOだと確信しているわけですが、一方で、そこには「結論をあえて急がない」という対話の余地がないのは認めざるを得ません。組織や社会が、不確実性のもとで意思決定するために必要な訓練ですので、結論が決まらないままモヤモヤする状況(不確実性)への耐性を身に着けようという発想はありません。
(3)不確実性への耐性とロジカル・シンキングの両方が足りない「学級会」
こうしてみると、こどもかいぎとディベート甲子園は、真逆のポジションにいることがわかります。
そして、学級会は、こどもかいぎほど不確実性への耐性がなく(結論ありきの解決志向で)、ディベート甲子園ほどロジカル・シンキングではない(感情ベース)、という両者の悪いところ取りであることがわかります。
![](https://assets.st-note.com/img/1660220558885-WtlqUGJyBx.jpg?width=800)
本来は、こどもかいぎのような不確実性への耐性が必要なのに、どうしても解決志向(子どもたちの人間関係をなんとかしたいという下心)のもとで、対話の余地がなくなってしまい、かといって競技ディベートのような感情論を排したロジカル・シンキングにも振り切れない、なんとも中途半端な状況に陥っているのが現状ではないでしょうか。
すなわち、「学級会」化する社会からなんとか抜け出すためには、
相手をなんとかしたいという下心を捨てる(対話の余地を持つ)か、
競技ディベートのように徹底したロジカル・シンキングと、異なる立場への想像力を持つか、
そのどちらかしかありません。
どちらも大人ですら、いや、前者については大人だからこそ難しいことかもしれません。でも、私は「こどもかいぎ」を観たときに、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ希望を持つことができたのです。
【参考】
「こどもかいぎ」が保育園での対話だとするなら、「プリズン・サークル」のTC(治療共同体)は刑務所での対話です。
【保護者の方向けのお問い合わせ先は、こちらの公式サイトになります】
家庭教師のYURUMI
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