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この人、大学でてるな

ぼくは集合住宅に住んでいるので、年に1回ガス点検の業者さんが訪ねてくる。いつも5分で終わるのだが、数年前に1度、印象深い出来事があった。

ウチの台所のコンロは1口にクセがあり、やや点火しにくい。初めての人は、何回か「バチバチバチバチ」いわせないと火がつかないし、妻はいまでもバチバチバチバチ言わせている。

自慢にもならないことだが、ぼくは手先が器用というのか、機械のクセをすぐに飲み込んでしまうタチなので、そのコンロのクセもすぐに飲み込み、いつもサッと点火している。

しかし、点検の人は当然コンロのクセなどは知らないわけだから、バチバチバチバチ言わせまくってなかなか火がつかない。しかし、そんなことで「要交換」と言われるのはごめんなので、ぼくがよこから

これちょっとコツがあるんですよ

なと言いつつ横サッと点火してしまったんだけど、そのときの技術者さんからは、

本来、コツなんてあってはいけないんだけどね

とくぎを刺すように言われたのだ。ぼくよりちょっと年配でかっぷくのいいベテランのエンジニアという感じの人だった。そう言われて、ぼくがとっさにどう思ったかというと

この人、大学でてるな

と思ったわけである。

なお、この記事には、大卒と高卒を区別(差別)する意図はありません。もうちょっと読めばわかりますので先を続けます。

さて、「コツがあってはいけない」という言葉のいわんとするところを解説するとこうだ。

コツがあるということは、そのコツを飲み込んだ人には使えるが、コツを飲み込んでいない人には使えないということである。
しかし、本来テクノロジーというものは、だれでも同じように安全につかえるものでなければならないのだ。

とまあ、こういう「技術哲学」がさりげなく盛り込まれた一言なわけである。

ところで、ガス点検をするには「保安業務員」という資格が必要なのだそうだが、この資格は、2日間の講習と検定試験を受ければ取得することができる。たった2日の講習で必要な技術をすべて詰め込まなければならないのだから、

テクノロジーはこうあるべきだ

みたいな哲学を語っている余裕はないはずである。

これはガス講習にかぎらない。自動車教習所でも、簿記の学校でも、プログラミングの学校でも同じである。

安全なクルマ社会に向けて

とか

簿記の歴史

とか、

人とコンピュータが共存する社会

とか、この手の理念みたいなものは、テキストの第一章 第一節の冒頭にかかれているわけだが、ほぼ確実にすっ飛ばされる。手に職をつけるために学ぶべきことは多く、哲学などを垂れている余裕はないのだ。

だから、とっさに「テクノロジーとは」みたいな理念が口から出てくるような人は、専門学校ではすっ飛ばされるそうした余計な哲学が体にしみこんでいる人なのである。

たぶん、所属した研究室の教授からつねづね口癖のように

君ねえ。そもそも技術ってのはだねえ、

みたいなダメ出しを受けていたのだろう。

もちろん、大学を出ても哲学が身についていない人も多いし、逆に独学で身につけている人もいる。また、技術哲学は工学部以外では身につかない。

医学部を出た人は教授から

そもそも医術が目指すべきなのは・・

みたいなことをさんざん聞かされているはずだし、文学部を出た人は

そもそも文学なんてものはだねえ・・

なとと耳にタコができるほど言われているわけで、分野によって哲学の種類は異なる。

たとえば、ぼくは一時期ITエンジニアをやっていたのだが、しかし文学部出身なので、手先の器用さはあっても技術哲学はないのである。あのガス点検の人みたいな言葉はぜったいに出てこない。

とはいえ、現場でいい仕事をするためには、理念よりも手先の器用さとカンのほうが大事だ。

でも、もし大学教育に、専門学校とも、ウェブで身につけた知識とも異なる何かの価値があるとすれば、それはこういった理念を耳にタコができるほど聞かされて、体に染みついているという点にしかないと思う。

最近、ぼくは、法学部、経済学部など、社会科学系の出身者と交わることが多いのだが、みな口には出さないが、

社会とはこうあるべきだ

みたいな理念に基づいてしゃべっているのが言葉の端々から透けて見えるし、ぼくにはそれが欠けているのもわかる。

逆に、かれらが小説や映画を語りだすと、文学部特有のあの理念ともいえない理念というか、ぼくが耳にタコができるほど聞かされた

〇〇君、しょせん文学ってのはカネとオンナだろ

というくずれた匂いがしないのである。自分を知るというのは大事なことだ。

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