分け入つても 分け入つても 青い山

近所の公園にバスケットのハーフコートがある。中学生が日が暮れるまで走り回っている。

僕も小学生のときはああいう感じで遊びまわっていた。暗くなっても目の前のボールだけを見ていた。

一方で今の僕はもっぱら散歩だ。風や、日差しや、せせらぎや、木々や、日暮れ時の空気を感じたくて歩く。

中学生の意識は一点に集中している。僕の意識は周囲に分散している。環境への注意の向け方が真逆である。中学生は能動的で僕は受動的。おもしろい。いつの間に変わってしまったんだろう...。

故郷に帰って海岸を散歩していると、ジェットスキーが走り回っている。彼らは一瞬一瞬の操作と躍動感に夢中で、潮の匂いや波の音はきっと意識に入ってこないのだろうな。

若いころ、先輩に誘われて登山に行ったんだけど、登山という行為をうまく飲み込めなかった僕は「なんで降りるためにわざわざ登るんでしょうね」などと軽口をたたき続け、「黙って登れ」と一喝されてしまった。

でも考えてみると、登山は一歩一歩に集中が必要なアクティブな行為でもあり、同時に山全体を受け入れ一体化する受け身の行為でもあると思う。

分け入つても 分け入つても 青い山

今なら説明してやれる。バカだった。おしいことをした。
山岳修験道は、きっと奥が深いのだろうな。



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