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『最後にして最初の人類』について

ときどき思うことがある。
アートとは、電波に乗せたメッセージを宇宙へ向けて発信するようなことに近いのではないか、と。

そのメッセージは、宇宙の向こう側にいる何者かに届くかもしれない。しかし永遠に虚空を飛び続けるかもしれない。

そういう電波を発信しているような映画に今日出会った。映画というよりアート・フィルムである。

『最初にして最後の人類』(2021)

昨年、渋谷のアート系シアターでひっそりと公開されたらしいが、そういう情報はぼくの耳には届かないのでなにもしらなかった。

今日、この作品に出会ったのは全くの偶然で、アマゾンプライムビデオをあれこれと検索しているとまちがってヒットしたのである。

こういう作品は普段はサーバーの奥深くに眠っているはずで、自分で検索して釣りあげなければ、なかなか「おすすめ」などはしてくれない。

画面に人間は一切映っておらず、旧ユーゴスラビアの「スポメニック」と呼ばれるモニュメント群が延々と映し出される。

スポメニックとは、

ナチスドイツの占領から独立までの記録として60~80年代にかけて旧ユーゴスラヴィアで建設された奇妙な形のモニュメントの数々

なのだそうだ。このブログに書いてあった。

監督はヨハン・ヨハンソンという有名な作曲家だそうで、最初から最後までこの人の作ったアンビアントな音楽が鳴り続ける。

そこに英国の哲学者でSF作家だったオラフ・ステープルドンが1930年代に出版した同名のSF小説のナレーションがかぶさるのである。つまり

・モニュメントの映像
・音楽
・SF小説のナレーション

という3つの要素が、それぞれ独立し、影響しあいながら1時間11分続く。ナレーターは名優ティルダ・スウィントン。

ありふれた水曜日の午後に何が起こるかわからない

ただし、今日はこの作品を人に勧めようと思って書いているのではない。多くの人は最初の5分を見て眠ってしまうだろうし、それが悪いことだと思わないし、自然なことだ。

ただし、ぼく自身は続けて2回見たので2時間22分かかった。それほどのショックを受けたということだけを何とか伝えたい。

これまでの人生で続けて2回見た作品は本作品以外に2つしかない。

1つが小学校6年生の時に見た『スターウォーズ 帝国の逆襲』で、もうひとつがフランシス・フォード・コッポラの『カンバセーション 盗聴』で、これはすくなくとも20回以上は見ているはずだ。

ほかにも2作品、それ以上にショックを受けた作品があるんだけど、入れ替え制の劇場だったり、デートの途中だったりして2回続けてみることはできなかった。

つまり今回が人生で5回目ということになるが、これで最後かもしれないと思う。この先、こういうことはないのかもしれない。それくらいの出来事がが急に降ってきたのである。

ありふれた水曜日の午後に自動車にはねられて死ぬ人もいるのだから、ありふれた水曜日の午後に、人生最後の作品に出会ってしまうこともあるのではないか。

人生には限りがある

それにしても自分の文章の切れの悪さにいら立つ。ここに書ききれないほどいろんなことをかんじたし、1度目と2度目でも印象がまるで違うのだが、ともかくまず1つ目の感想として

今後、ぼくはヤフーニュースのゴシップとかスキャンダルみたいなものを二度と見ないだろう。

ということは言える。というかこの作品を見終わって、いつもの癖でヤフーニュースをクリックしたら

もう読めない・・

と感じたのだ。

時間は限られている。「誰と誰がもめている・・」などという話に1秒を費やす暇があったら、1秒だけ長くこの作品を見てから死にたいと心底思うので、その手のニュースは2度と見ない。

賛辞の数々

さて、本作の公式ホームページにはさまざまな著名人から賛辞が寄せられているので、手がかりに引用してみよう。たとえば

一世一代の貴重な体験

と評し、ぼくと同じようにショックを受けた人もいたようだ。また、

もしもあなたがクリエイターだったら、この作品を鑑賞して背筋が伸びる思いをするだろう。

これも正直な感想である。ぼくは「クリエイターでなくてよかった」と思った。クリエイターだったらこの先はげしく悩まなければいけない。

一方で、

人類最後の、あるいは最初の映画のように、ただ美しい。

このように、見栄えがよくて内容のないほめ方をしている人もいるが、有名人の賛辞というのは集客のためにあるのだから、ルックスだけハンサムな文章はぜんぜん悪くないし、むしろウェルカムである。

本作は、人類の知の始まりと終わりとを同時に体験させ、真に世界へ耳を澄ませるための装置なのだ。

これも何を言っているのかよくわからないところが、如才ない良い仕事だといえる。こうやって物々しい感じで盛り上がれば結構なことである。

他方で、

永遠に「わからない」ということがわかった気がする。

このように正直な人は、見ていて気持ちがよいし、

ただただ美しく、「コヤニスカッツィ」を想い出した

というのもあったけど、「「コヤニスカッツィ」みたいな作品ですよね」という言い方が素朴で、正直で、月並みでたいへん好感が持てる。

「コヤニスカッツィ」を思い出すのもいいが、だったらティルダ・スウィントン主演のデレク・ジャーマン『ザ・ガーデン』を思い出してもいいだろう。また、「ザ・ガーデン」に影響を与えたと言われるブライアン・イーノの「14ビデオ・ペインティングス」を思い出してもいいし、ジガ・ヴェルトフの『カメラを持った男』でもいいし、似ているものはいろいろある。

ぼくはロマン・ポランスキーの『水の中のナイフ』を思い出した。これは金持ちの奥さんと若者の情事の話なので、本作とはまるで関係なさそうだが、東欧独特の深い匂いのするところが似ている。

ぼく自身がスラブ的な匂いのする映画や音楽や小説に弱いのでなおさらそう感じただけかもしれないが、先ほど挙げたブログの人も

土着的なようで未来的な映画

と書いているので、この人も作品をしっかりと受け止めている人だ。

画面はモノクロームで粒子が荒く、白と黒が際立っていて、ほぼ一定の速度で動いており、ぜんたいに、ロールシャッハテストの絵のように見える。つまり、浮世絵みたいに奥行きが無くてムンクの版画と似ている。

ムンクの版画

さて、原作SFの内容をまとめていうと「海王星に移住した20億年後の未来人から、現在の人類に届けられたメッセージ」である。

映像の未来

ぼくが一番衝撃を受けたのは、

映像には、もっと大きな可能性が広がっているのではないか

とかんじさせられたことだった。

見ながら、「ああいうこともできるし、こういうこともできるし、これまでの映像とはまったくちがう世界が開ける可能性がある」と感じた。

世界には映像の天才がたくさんいるだろう。どうかその人たちにはこの作品の先にある、または背後にある、または斜め上にある可能性を探ってほしい。もっともっと別の世界があるはずだ。

そして、そういうものはきっと現れるとも思う。ぼくが死んだずっと後にも、ものすごい映像が現れるだろうということを予感した。

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