なぜ今ミステリーなのか?
最近ミステリー小説をよく読んでいます。
子どもの頃によく読んでいた横溝正史の金田一耕助ものを立て続けに再読しています。
長年ミステリーというものをバカにしていましたが、その良さを再発見しているところで、それは今の時代のあり方にうんざりしている点と無関係ではないと思うのでその点を書いてみます。
解ける謎と解けない謎
ミステリー(mystery)という言葉には、大きく分けて2つの意味がある。ウェブ版のmerriam-webster英英辞典を引いてみると、まず(以下、拙訳です)
とあり、つぎに
と書かれている。
つまり、解ける謎と解けない謎の2つの意味があるわけで、この2つの意味は相反している。
僕はオカルト好きなので、解けない謎が好きであり、解ける謎などナゾの内には入らないとすら思ってきた。
一方、推理小説というのは解ける謎を扱う小説なわけで
と言われた場合、『ムー』的視点からすれば、
という量子力学的なミステリーになるわけだが、推理小説のトリックは、わかってみれば手品の種みたいなあっけないことであり、なんじゃそりゃ!というていどのものだ。
昭和の子どもはミステリーからスタート
そんな僕だが、読書の手始めは解けるほうのミステリーだった。いまはしらないけど、昭和の小学生はみんなそうだったはずだ。
通っていた小学校図書室には、ポプラ社のホームズ全集やルパン全集、そして江戸川乱歩の少年探偵団シリーズなどがあってそれが読書のスタート地点になった。
ファンタジー作家の恒川光太郎さんが、「作家の読書道」というシリーズの中で
と言っているので、全国おなじだったはずだ。ファンタジー小説は解けない謎を扱う小説だけど、その書き手も小学生のころは解ける謎を読んでいたことになる。
角川にしてやられる
ぼくも同じだったが、やがて小学生向けのモノには飽き足らなくなり、背伸びをしたくなった頃、おりしも角川文庫で大ヒットしていた横溝正史におそるおそる手を伸ばしたのだった。
最初に手に取ったのが『獄門島』で、小学校5年なので、かなりのマセガキである。感想は
というもので、『獄門島』のあとで小林少年に戻るのはムリである。
それから『八つ墓村』『犬神家の一族』『女王蜂』『悪魔の手毬唄』などなど主だった作品を立て続けに読み進めて、気に入ったものは2回読み、さらに、古谷一行のドラマシリーズも見たし、石坂浩二の映画シリーズも見たので、主だった作品の犯人とトリックは暗記してしまって、いまでもそらんじれる。
黒歴史へ
ところが、その後、子ども時代に横溝正史にハマったことはぼくの中では黒歴史になってしまうのである。長年隠し通してきた暗い過去だ。
それには、平成に入り時代の空気が変わったことが大きいだろう。とりわけ2000年にテレ朝のドラマ『トリック』が始まるとなおさらそう感じるようになった。
あのドラマはぶっちゃけ横溝=金田一のパロディであり、事件は八つ墓村のような山奥の村か、獄門島のような離島で起こる。いかにも因習めいた雰囲気の中でたたりじみた怪異が起こるのだが、結局はインチキ霊能者の安っぽい仕掛けがバレて、笑い者になるパターンが多い。
横溝ワールドの昭和的なものものしさを21世紀の空気の中で小バカにしたニュアンスがあって、見ているうちに
と恥ずかしく感じるようになってしまった。実家にかなりの数を揃えていた横溝正史の文庫本も、背表紙を見るたびに自分の読書遍歴を恥ずかしく感じるようになり、半分くらいは吐き捨てるように資源ゴミに出して、いまは33冊しか残っていない。
キンドルでも買えるけど、令和の今、あの昭和な表紙で読み返したかったなあ・・と、処分してしまったことを悔やんでいる。
以上をまとめるとぼくは横溝正史に
まず夢中になり(昭和)→バカにするようになり(平成)→そして読み返したくなった(令和)
という展開で現在に至る。
再評価へ
再評価のきっかけは、昨年末にYouTubeの「角川シネマコレクション」で市川崑監督の『犬神家の一族』が2週間無料公開されたことにある。
子どもの頃の自分を笑ってやろう、というような軽い気分で見始め、最初は大時代な雰囲気を小バカにしつつ見ていたんだけど、見終わった感想としては
のである。それで実家の文庫本を『獄門島』からスタートして、子ども時代に読んだ順番に再読していったところ、ものすごーくおもしろい。当時は理解できなかった事情がわかる分だけ、あのころ以上におもしろくて、バカにできないおもしろさだ。
横溝ワールドの猟奇的な雰囲気がおもしろい面もあるけど、それよりも謎を整然と解き明かしいくプロセスがいい。
長年のオカルト好きゆえ、解ける謎ありきで展開される推理小説をバカにしていたぼくだが、再読が進むにつれ、推理小説というのは
と思うようになった。さっそくお勧めの推理小説をネットで検索したところ「日本のおすすめミステリ小説10選」というサイトがヒットし、「今後何年にもわたり国内のミステリ史にさんぜんと輝き続けるであろう名作を、ぜひ読破してみてください。」と書かれた第1位に
とあったのだった。恥ずかしいとか、黒歴史とかさんざん思っていたのが、一周回って、じつはミステリ史にさんぜんと輝き続ける第1位を小学校5年ですでに通過していたことを知った。
ほんとうにいいものは時代を越えて愛されるというだけのことかもしれない。しかし、個人的には、昭和から平成を経て令和へと、黒歴史からふたたび自己肯定へ変わるプロセスをたどったので、味わい深い。
今なぜミステリーなのか
大人の目でようやくミステリのおもしろさに開眼した点にも、思うところがある。
ミステリの世界にはマニアが多いので、今さらどうのこうの言っても始まらないのはわかっているのだが、それでもミステリ以外の小説をいろいろ読んできた人間が、あらためて思うミステリの良さは、
という安心感にあると思う。どんな筋書きであろうと、猟奇的だろうと、社会派だろうと、最後の最後には謎が解決して犯人が追い詰められる・・ということがあらかじめ保証されている。
行き先が決まっているからこそ、途中は好きなようにやれる。オカルト仕立てでもいいし、恋愛小説風でもいいし、社会問題を扱ってもいい。なにをもりこもうが、最後にはトリックが解けて犯人がわかる、という契約が作者と読者の間であらかじめできあがっているので、安心して読み進められる点が何よりいい。
『悪魔の手毬唄』の冒頭で、金田一耕助は峠道を歩いていて、あるおばあさんとすれ違う。後になってそのおばあさんは半年前に亡くなっていたことがわかるのだが、これがオカルトなら解けない謎になってしまうけど、金田一耕助なら、かならず明快な謎解きをやってくれる。
健全な精神
まだ日本に推理小説が根付いていない大正時代末期に、作家の佐藤春夫が有名な「探偵小説小論」というのを出しており、すでにこの魅力を看破していた。
ロマンチシズム、猟奇、怪しさ、悪の賛美・・こうしたものに明快を愛する健全な精神が拮抗しているのが推理小説だと。
ぼくがいまあらためて推理小説に惹かれるようになったのは、健全な精神に惹かれるからではないだろうか。SNSにはあいまいなウワサばかりが溢れて、世の中わからないことだらけだ。この時代の中で、明快な謎解きを約束してくれる推理小説の魅力をあらためて感じている。
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