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時間についての「あるある」―花輪和一の『刑務所の中』より

花輪和一氏のマンガに『刑務所の中』(2000年)という、とても有名な作品がある。

あまりに有名なので説明が要らないほどだけど、これはマンガ家の花輪さんが、刑務所に服役していた実体験をつづったマンガだ。

銃マニアだった花輪さんは、かつて趣味がこうじてホンモノの銃(ボロボロにさびたやつ)を手に入れたところを警察に踏み込まれてしまい、銃刀法違反で懲役3年の刑に服していた。

そのムショ体験をマンガにしているんだけど、ムズカシイ話は一切抜きで、ひたすらご飯のことばかりが描かれている。

受刑者はご飯だけがたのしみなのだそうだが、しかもみな甘いものに飢えており、コーラを1口飲むだけで

くう~こたえられねえな

こんな感じになるのだそうだ。極上の純米大吟醸でも飲んだみたいにうなっている。

また、ブルボンのチョコ菓子「アルフォート」を「残りを数えて大事に食」って

・・・ああ 残りあと三個か・・・

と名残を惜しむ様子も描かれている。ぼくも、それまで何気に食べていたアルフォートが、これを読んで以降、なんだか大事なものに思えてきてしまった。

ちなみに、田代まさしさんも前回出所した際、「まずコンビニに立ち寄ってお菓子を買ってむさぼり食い、そして下痢をした」と語っていたので、ムショで甘いものに飢えるというのはホントの話なのだろう。

そうやってご飯だけをたのしみにしている受刑生活は、一方で、起床から就寝まで分刻みスケジュールを管理され、数年にわたり同じことを繰り返す日々でもある。

そうすると時間の感覚も変わってくるらしい。

たとえば、「冬の一日」と題された章では、主人公の受刑者が
朝、起床とともに「・・しかし不思議だな」と思う。

気がつくと
いつの間にか昼になって
昼飯を食いながら

さっき思ったばかりなのに、あれ?もう昼だ。

と思うんだよな・・と考えつつ起床していると、ホントに

あ・・・本当にもう昼飯を食っている

となっちゃうわけで、永遠に飯を食っているような気分に襲われるのだ。

この感じは、単調な生活を繰り返したことのある人なら、だれでもあるあるなのではないか。

ところで、ドイツの文豪トーマス・マンの『魔の山』という小説の途中にも、似たような箇所がある。主人公は結核を患い、スイスの高原のサナトリウムに入っているので、毎日決められた生活を繰り返しているという意味では刑務所みたいなものだ。

第五章の出だしに「永遠のスープ」と題された節があって、単調な生活を繰り返していると、「永遠のスープ」がやってくるようになるのである。

君の枕もとへ正午のスープが運ばれてくる、―昨日も運ばれてきたように、そして、明日も運ばれてくるように。そして、それを見た瞬間に君は悠久の気にあてられるのである(中略)とにかくスープが運ばれてくるのを見たとたんに頭がくらくらとして、時間の区分がわからなくなり、区分が溶けあってしまい、君の目に万象の真実の姿として映じるのは、枕もとへ永遠にスープが運ばれてくる、前後のひろがりのない現在である。

岩波文庫(上)  p.317

この感じはぼくもなんとなくわかる。

最近、自分に課している「日課」が増えてきた。そうなると自然に生活に変化が乏しくなり、単調な作業の繰り返しになっていく。

ちなみに朝は、腹筋や背筋や腕立て伏せなどをやるのを日課にしているんだけど、今朝やろうとしたら、

あれ、さっきやったばかりのような・・

と思ってしまった。つまり、「永遠の腹筋」が訪れるようになってしまった。

このnoteも2年半にわたって書いているので、「さっき書いたのに、また書いている」と思う時がある(笑)。

時間というのは、伸びたり縮んだりほんとうに不思議なんだけど、でも永遠のスープや永遠のカレーならともかく、永遠の腹筋は苦しいので困る。

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