スーパーマリオと露寇事件
相手の身になって考えよう
みたいなことはよく言われる。
みたいな言い方もあり、このほうが具体的なので、ややありがたみが増す。じぶんをつねれば、相手もこのくらい痛いのだろうなと想像できる。
他人の靴を履く
ところで英語では、相手の身になることを、
という言い方をするんだけど、つねるより靴を履く方がわかりやすいので、ぼくの気に入っている言い回しだ。
他人の靴を履いてみれば、片べりしていたり、窮屈だったり、意外と重かったり、むしろ履きやすかったりと、いろいろなことがわかるだろう。
くつというのはふしぎなもので、脳みそからもっとも遠い場所にあるにもかかわらず、相手の気持ちがわかる不思議なアイテムだ。全体重がかかっているからかもしれない。
他人の靴というのは、かならずしも目の前の相手とか、同時代の相手にかぎらない。昔の人の靴をはいてみるのも、未来のことを考えるうえで、とても大事なことなのではないだろうか思ったのでちょっと書いています。
ゼビウスとマリオのすごさ
こういうことを考えるようになったきっかけは「スーパーマリオブラザーズ」と「マッドマックス2」だったので、まずはその話から。
初代のスーパーマリオが発売されたのは1985年なのでぼくは当時バリバリの中学生だった。そして大変な衝撃を受けたのである。
正確にはその前年に発売されたナムコの「ゼビウス」と合わせて、新しい時代が始まったことを感じた。
ところが、今の若者たちに初代スーパーマリオやゼビウスをやらせると
という答えが返ってくる。
むりもない。最新作「スーパーマリオブラザーズ ワンダー」と比較すれば、オリジナル版はかったるく感じるだろう。
これは映画でも同じで、CGバリバリの最新アクション映画を見た後で、昔の西部劇などみても、しょぼく感じてしまうのは仕方がない。
しかし、そういう単純比較をやってしまうと本質的なことが見えなくなると思うので、以下、当時の中学生の靴を履いていただこうと思います。
電脳空間は無限に広がっている
85円当時はまだネットは影も形もなく、パソコンも普及しておらず、ゲームと言えば、スペースインベーダーとパックマンとギャラクシアンだった。
それらと初代スーパーマリオやゼビウスをくらべた場合、すごかったのは、ギミックやアイテムやストーリーなどの表面的な要素ではない。当時、ナウなヤングだったぼくが受けた衝撃をあえて言葉にするなら
ということをゼビウスとマリオが教えてくれた。
インベーダーにしろパックマンにしろ、ゲームの世界=画面の範囲であり、モニターに表示されている範囲が、世界の全部だった。
これは、スポーツも同じことで、サッカーや野球やテニスにおいて競技の範囲は目の前のフィールドに限られている。それが戦える空間の全部であり、テニスプレイヤーが動き回れるのは1つのコートだけだ。となりのコートにボールが飛び込んだらその時点で試合は止まる。
ところか、ゼビウスやスーパーマリオは、画面の外側にボールが飛んでいっても、試合が止まらなかったんですね。
画面よりも広いゲーム空間がそこに広がっていた。これは画面がスクロールするというだけのことではなくて、画面の向こうに側に、別の世界がある感じ。電脳空間が、この世界とは異なる秩序で別個に動いている感じをはじめて知ったのだった。
テニスになぞらえれば、コートの外側でも、賞金王レースやら、メディアとの駆け引きやら、ロッカールームでのいざこざなど、別のゲームが続いていくわけだけど、電脳空間もおなじように広がっているんだということを教えてくれたのがゼビウスであり、スーパーマリオだったわけだ。
40年前の中学生の靴を履いてもらうとするなら、こういう感じだったのです。
もちろん、生まれた時からオープンワールドゲームやら仮想空間に親しんでいる世代には、その衝撃は意識できないだろう。しかし、無意識下では影響を受けていると思われる。
初頭効果の重要性
なぜなら心理学には初頭効果という概念があるからで、人間は相手の第一印象にものすごく影響を受けるらしい。
そして、あくまでぼくの推測だけど、民族や国家や社会なども、歴史的事件から受けた初頭効果を世代を超えてひきずっていくように思える(それについては後で触れます)。
なので、この先、仮想空間がどういう未来を拓いていくかを見通すうえでも、40年前のヤングがはじめて仮想空間に触れたときのの靴を履いてもらうのも意味があると思って書いてみました。
そして突き詰めていうなら、昔の人の靴を履いた気になれないということが、人間が歴史から学ぶことができない根本原因でもあるような気がする。
世紀末の情景
さて、もうひとつ、「マッドマックス2」の衝撃というのがあってこれも大事だと思えるけど、長くなったので短めに書きますね。
"2"が公開されたのが1981年で、あれから40年近くたって「マッドマックス怒りのデスロード」という映画がつくられて好評だった。デスロードを好きな人は多いけど、その原型は"2"にあるわけです。
しかし、ネットには「デスロードが気に入ったので"2"をみてみたんだけどさっぱりおもしろくない」いう意見があり、これは「スーパーマリオ ワンダー」はおもしろかったけど、初代はさっぱりおもしろくないといっているのとおなじことだ。
もちろん、デスロードにくらべれば2はかったるいし、スピード感も足りない。前作を叩き台にしてグレードアップしているのだから新しい方がよくなって当たり前だ。
ただし、ぼくは"2"の初頭効果を受けているので、両者に流れる本質が同じだということもわかる。
「マッドマックス2」で描かれたのは世紀末の情景であり、文明の果ての暴走族であり、そこにはテクノロジーとカルトの合体した世界観があった。翌1982年にはマンガ「AKIRA」の連載がはじまったけど、"2"の影響ははっきりとみてとれる。
しかし、デスロードにみられる表層の進化だけに目をうばわれれば、「テクノロジーとカルト」という初頭効果の影響も見失われ、そのイメージが現在の世の中にどういう影響を与えているのかもわからなくなってしまう。
もっと昔の靴を履いてみよう
さて、以上はぼくが当時を知っているので説明できるんだけど、本当に大事なのは、もっと昔の靴を履いてみることで、いいかえれば歴史の勉強である。
NHK BSの『英雄たちの選択』という歴史番組の2年前に録画したままだったやつを最近見ていて、歴史の初頭効果の大事さにあらためて気づかされたので最後に紹介したい。
日本人の交渉下手は昔から同じ
ぼくが見たのは2022年8月初回放送の「検証!200年前のロシア危機〜露寇事件」というものだ。江戸幕府は黒船来航の50年ほど前に、ロシアといさかいをおこしているのである。
番組司会で歴史家の磯田道史さんは
といっているけど、ほんとにその通りだとおもわされた。日本とロシアはこの事件以来ずーっとボタンの掛け違いをしており、それが現代まで続いている。
また、磯田さんは「この事件には日本人の対外観がぜんぶでている」とも指摘している。
日本人は、西洋合理主義に憧れつつも、その半面で、かたくなに神国日本を妄信する分裂した心情を持っている。そのことが露寇事件にはすでに表れており、やがて明治維新の尊王攘夷運動やら、さらに太平洋戦争末期の神風信仰やらになって表面化してくるのである。
その上で、以下はぼくの感想なんだけど、日本人が異文明とのコミュニケーションが下手なのはこのころから同じだと感じた。
江戸幕府は、考え方の異なるロシアに対して国内の理屈で通そうとして、事態をこじらせた。日本が陸地で他国と接しておらず、長年閉鎖的にやってきたことのツケが出たのだと思う。
現在の日本もなんとなく似ている。内向きの居心地の良さがある一方で、デジタル後進国などと呼ばれ、世界から周回遅れになっているあたりが同じだ。
そんなわけで、自分たちの現在地を把握して、これから向かう方向を知るには、歴史を学んで昔の人の靴を履いてみるのがいいんだなと改めて思わされました。
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