ボクシングというわけのわからない真剣なもの
以前聞いた話なんだけど、ある医師は、外科手術を執刀している間じゅうずーっと猥談を話しているそうである。たしか心臓外科医だったはずだ。
心臓外科医がみんなそうだというわけではなくて、だまって手術している人もいるのだろうが、ずーっと猥談を語っているくらいの方がぼくは自然な気がする。
指先がちょっと狂ったら命にかかわるようなことを十何時間ぶっつづけでやり続けるのだから、だまっていたら神経がもたない。
そして、だまって執刀している医師と、猥談を語りながら執刀している医師を比べた場合に、前者の方が
とは言えないし、また、後者が
とも思えない。ふたりとも、
という点は同じで、「他人の心臓を切り開いて縫い合わせる」ことにくらべれば、その最中に猥談を語っているか語っていないかは、取るに足らないことにすぎない。
真剣さとは自分にまけないこと
ここに毎日書いていることにもやや似た面があって、まじめなことを書いている日もあれば、猥談を語っている日もあるし、切れ味のいい日もあれば、つまらないことを書いている日もあるのだが、今日の記事が良かったとか、つまらかなったとか、不謹慎だったとか言うことはどうでもいいことだと思える。
それは、心臓外科医が猥談を語っているか、語っていないか位のことでしかない。すくなくとも、書いている本人にとって一番重要なことは、今日書き終えたあとで、
と思えることだ。
今日書いた内容がどれほどくだらない話だったとしても、たとえ猥談だったとしても、それでも
と思えるなら、それはぼくにとっては、ベストな記事である。
くだらない気持ちで書いていたら、すぐに気持ちが負けるので、今日をを明日につなげることはできない。
心臓外科医がどれほと猥談を語ろうと、指先の動きが止まらない限り、その人は真剣そのものだ。それと同じく、ぼくが今日どんなにくだらないことを書いたとしても、明日もまた書いているならば、今日のぼくが真剣そのもので、気持ちが負けていないことを意味する。
わけのわからないことを言っているようだが、「真剣さ」というものがどこにあるかということを言いたかった。
「ケイコ 目を澄ませて」
さて、今日「ケイコ 目を澄ませて」という映画を見たのだが、映画を撮ることの真剣さも、ボクシングの真剣さも似たようなものだと感じた。
映画を撮るのは大変なことなのだから、今年も来年も映画を撮り続けている人がいるならば、それがポルノだろうと、ホラーだろうと、その人は真剣なのである。
また、ボクサーは、今度の試合で勝とうが負けようが、明日もジムに練習に行こうという気持ちを失わない限り、自分に勝ち続けている。
アマゾンプライムで見たんだけど、まだ池袋の新文芸坐では来週まで上映しているそうだ。配信で見たのが申し訳ないような真剣さにあふれる作品だったので、ぼくも、こうして真剣に感想を書いている。
ボクシングというわけのわからないもの
この映画には、「わけのわからない真剣さ」があふれているけど、その中心にあるのは、ボクシング自体のわけのわからなさだと思う。
作品全体が「命懸けで殴りあう」という気ちがいじみた行為のわけのわからなさに支えられて成り立っている。
いろいろな賞を取っているらしいが、そんなことは知らずに見た。