アツくなったら終わり
高校の内申書などというものは、ふつうは厳封されており、本人は見れないことになっているはずである。でも、ぼくは自分の内申書を見た記憶があるのだ。はっきり覚えていないけど、余ったのを開封したんじゃなかったかな?
それで、次のようなことが書かれていた。
なるほど。。。じつにアウトな奴である。
とはいえ、ぼくという人間の本質をよく突いているのでその通りだと思わざるをえないし、教師という人々の観察力に感心させられる。
このnoteも、読んだ人からすれば「斜に構えてみんなと正反対のことを言っている」感じに見えているのではないだろうか。
人の本質は、何十年経とうが変わらないということである。
ただし、斜に構えているというのが「ひねくれている」とうけとられてしまうのは心外だ。ひねくれているのとはちがうのである。自分で言うのもなんだけど、これほどまっすぐに、斜めを向いているやつもいない。
たとえば、みんなが「コロナ、コロナ」言っている時に
みたいなことをいうのが、ぼくの「斜に構えている」部分であり、人によっては「いまそれどころじゃないだろ?」と言ってくるかもしれないが、ひねくれて言っているのではなくて、本気で心配している。
社会の主力部隊は、正面から来る敵を迎撃しなければならない。それはそのとおりなんだけど、敵は正面から来ると見せかけてサイドを突いてくる可能性だってある。
ぼくは、自分が「社会の補欠」みたいな立ち位置にいると思っているので、正面はレギュラー陣に任せて、自分はサイドを見張っているわけである。伊達に「斜に構えている」わけではなくて、誠心誠意、斜に構えているつもりだ。
とはいえ、たんなる義務感というわけでもない。世間が「正面へ、正面へ」という空気一色に染まって全体主義化していく感じがイヤなのである。
感情にながされるのが、とてもイヤである。
ぼくはお祭りのたぐいが苦手であり、式典のたぐいも苦手なんだけど、きっと同じことなのだろう。
はっぴを着たりモーニングを着たりしただけで、なんで急に威勢がよくなったり、引き締まったするのかね?「お父さんへ」なんつってウルウル手紙読んじゃったりして。
とつい思ってしまうのだ(言わないけど)。「自分に酔っている」感じが、見ていて我慢できないんだろうなー。カラオケも苦手だし、芝居がかったのがダメなのだ。
とはいえ、いまや世界は劇場型である。正しさより、エモさで決まる。自分に酔っているものが勝つ。
エモいという意味では「ウクライナ!ウクライナ!」も「ハイル・ヒットラー」も変わらないと思うのだが、みんなお祭りが好きなんだな。
そういわけで、世界はこれからますますお祭りの季節になっていくのだろうが、ぼくは
熱くなったら終わり
だと確信しているので、そう言い続けていく。
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