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わたくしの尊敬する人

今日はひさしぶりに『燃えよドラゴン』という映画を見た。この作品を始めて見たのは小学生3年生くらいのころで、たしかテレビで放映しているのを途中から見たおぼえがある。

ただし、そのときは怖くて最後まで見れなかった。

とくに怖かったのは、ブルース・リーが敵のアジトに潜入するシーンだ。アジトには見張りがウロウロしていて、リーは、見張りに見つかりそうになると、すばやく物陰に身を隠す。

見ていてドキドキし、見つかったらたいへんなことになるのではないかと怖くなって、見ていられなくなってたまらずにテレビを消した。しかし、無事に切り抜けたかどうかを確かめたくて、ふたたびテレビをつけたりし、そうやってつけたり消したりしては、ひとりで呻吟していた。

ところが、今見ると、そのシーンはぜんぜん怖くないどころか、むしろユーモラスなシーンなのだ。

見張りは見るからに雑魚キャラであり、見つかったらリーが「アチョー」などと言いつつ鮮やかに倒すだけのことだから、怖さも緊迫感もない。

それが小学校の3年生のぼくには怖くてたまらなかったのである。

尊敬する人「ブルース・リー」

さて、小学校の卒業文集の「尊敬する人」の欄にぼくは

ブルース・リー

と書いている。ということは、6年生になったころはそのシーンは怖くなくなり、むしろ、ブルースリーの強さとカッコよさにしびれていたのだろう。

2本の竹をひもでつないで、ヌンチャクみたいなものをつくってさかんに振り回す練習をしていた覚えがある。おかげでずいぶん突き指をした。

今でも6年生の頃と大して変わらない

今でも、ナムコの格闘ゲーム『鉄拳』をプレイするときには、必ずブルース・リーのキャラを選んでしまうので、今のぼくの感性は、ヌンチャクをふりまわしていた6年生の頃と基本的には変わっていないと思う。

しかし、3年生の頃の自分と今の自分は別人のような気がする。

先日も「9歳の壁」というテーマで記事を書いたけど、『燃えよドラゴン』を怖くて見ていられなかったころのぼくは、ちょうどその9歳の壁に差し掛かっていたあたりだ。

もしかしたら、そのころ、世間を生き延びていくために必要なニブさを身に着けたのかもしれないが、同時に、貴重な繊細さをうしなってしまったような気もしていて、あのまま成長していたらずいぶん違う人生になっていたのかもしれないなどと思う。大事なものを失ってしまったような気がしないでもない。

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