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物語には"起承転結"があるのだと思いこんでいた

以下の問いがヤフー知恵袋に投稿されていた。

中学時、国語の教科書で読んだ作品の名前を思い出せません。
書き初めを燃やしている時(どんど焼き?)、主人公が好きだと思っている子の書を発見する。そこには「光陰矢の如し」と書いてあり、勉強しなければ…と思う話です。

じっさいは「光陰矢の如し」ではなく「一寸の光陰軽んずべからず」なのだがたいしたちがいはない。井上靖の『しろばんば』という作品だ。600ページもある長編だが、一部分が中学校の国語の教科書に掲載されていた。ぼくも心に残っており、いつか読みたいなと思っていた。

そしてさっき読み終えたので、長年の宿題を片付けたような気分がする。いい作品だ。ただし、いい作品だから読んだわけではなく当時からすごーく違和感を感じており、その正体をたしかめたくて読んだのである。

当時、ぼくは国語の先生の話をそっちのけで「これはいったいなんなんだ。こんなものが小説と言えるのだろうか?」とだけずーっと考えていたのである。だから50代の今読んでみて「これはまちがいなく小説だ。それのわからなかった自分はガキだった」ということを確かめたかったのである。

しかし、いまあらためて通読してみて、おもしろいし、傑作だと思うけど「これで小説なのか」というギモンは消えない。

ところで、この作品は現代の子どもには合わないということで教科書への掲載は終了しているという。その理由として

一つの理由として「しろばんば」が単行本で六〇〇ページ近い長編である上に、その物語が洪作の日常的なエピソードの積み重ねで成り立っていることが挙げられよう。いわは淡々と進行し、しかもかなり量がある。刺激の強いライトノベルやテレビドラマに慣れた現代の中学生にとっては、単調で退屈に感じられてしまうのである。(井上靖「赤い実」(「しろばんば」後編)授業試案

ぼくが感じたギモンはこれである。『しろばんば』に出会うまで、小説には起承転結があるものだと思っていた。たとえば『ドラえもん』を例にとろう。

(起)のび太があそんでいる
(承)ジャイアンにイジメられる
(転)ドラえもんが道具を出して逆襲する
(結)調子に乗りすぎて大失敗する

物語というのはこういう風に起伏があるものだと思っていたのである。だが「しろばんば」には事件がない。教科書に掲載された部分も「少女の書初めを見て急に勉強したくなった」というだけだ。まるで日記である。あえて起承転結に当てはめるならこうなるだろう。

(起)子どもが集まって書初めを燃やしている
(承)男の子が火の中から少女の書初めを取り出す
(転)「それ、開けてはいや!」という細い声が上がる。
(結)そこには「少年老い易く学成り難し一寸の光陰軽んずべからず」と力強く書かれており、少年は「いきなりうちに帰って勉強したいような気持」にかられる。

これだけだ。

「それ、開けてはいや!」という声が上がったときに少年は顔を向けないでも声の主がわかる。そのあたりに淡い恋心が描かれておりイイ話なんだけど、このあと少年と少女の間には何もない。これが小説といえるのかさっぱりわからなかった。

今回読んでみてずいぶんおもしろかったし、起承転結がなくてもおもしろいものはおもしろい。人生だって起承転結などない。「人生がうまく描かれているから小説なのだ」と言われればそうかもしれないと思う。ただしそうはいってもギモンは消えず、こういうところにひっかかり続ける性格は中学時代から変わっていないなとあらためて思う。

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