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なんだかよくわからないものであり続けたい

時代に先んじすぎて、あら削りで売れなかったものが好きである。いつもそういうものに食いついてきた。そこには可能性のにおいがあり、未来にむかって開かれている。商品になりきってしまった時点でそれは過去のものだ。

先日亡くなられたさいとうたかを先生は「ゴルゴ13は読者ものだ」とおっしゃっていたそうだが、それは作品がすでに商品として成熟しきっていたということだろう。

それはそれですごいことだが、本当に可能性を感じさせるもの、未来に向かって開かれているものには、どこかしら狙いの定まっていない、なんだかよくわからない部分がある。そういうにおいが好きである。

よくわからない部分がある以上、世の中にはハマらない。だからガッチリと売れることはない。売れるというのは世の中にハマったときに売れるのである。わかりやすい例としてタカトシさんの「欧米か!」を取り上げてみる。

ぼくが好きなギャグであり、すでにnoteにその魅力を書いたことがあるのだけど、その誕生秘話のくだりを自分の文章から引用する。

このネタはもともとは「昔か!」だったのだそうだ。タカさんの書いてきたネタに「昔か!」というツッコミが何度も出てくるので「なんだこの下手なつっこみは」となっていたのだという。それが芸人仲間にみょうに受けるので、「なんかひっかかるな・・」と感じて、似たようなものが他にないかな~と考えてでてきたのが「大人か!」なのだそうだ。そしてつぎが「欧米か!」だったのだという。

まず「昔か!」があり、次に「大人か!」になり、最後に「欧米か!」でブレークしたわけだ。タカトシさんが「昔か!」の中に眠っていた可能性に引っかかって最適化をつづけた結果「欧米か!」でバシッと世間にハマったわけである。

「欧米か!」は完成されているが「昔か!」には可能性がある。完成されたものはよく売れるけどその先はない。幹から分かれた枝の先に咲いた大輪の花みたいうなものだ。それもいいんだけど、「昔か!」にはまだ幹から枝分かれしていない可能性のにおいが残っている。幹というのはタカトシさんの狂気みたいなものだ。

お笑いのことはよくわからないけど、つぎにおもしろいものが出てくるときは欧米か!の向こう側ではなくて、昔か!の手前から別な方向ににょきっと枝分かれしてくるのだろう。

ところで90年代にTwitterにかなり近いものを作り出していた人を知っている。リツイート機能はなかったがあとは似たようなものだった。しかしそれはTwitterのように完成されておらず売れなかった。でもあれには「昔か!」や「大人か!」のような、なんだかわからない可能性のにおいがしていた。

ぼくはそういうにおいが好きで、いつもそういうものに食いつく。びっくりするような真相にぶつかるのはいつもそういう場所である。過去をきれいに整えなおしたものはたいくつだ。ねがわくばこのnoteもなんだかよくわからないものであり続けたい。

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