見出し画像

テレパシーなんてロクなもんじゃない

電卓のほうが「民主的」

こどものころしばらく「そろばん塾」というものに通ったことがあるんだけど、いまでもあるのだろうかと思って調べてみると意外にしぶとく残っていた。

1980年をピークに10分の1まで減ったそうだが、2005年を底に、増加している。

子どもの能力開発や、計算力や集中力のトレーニングとしての価値が見直されてきた

と言われれみれば、集中力のトレーニングとしてはいいのかも。ただし実用性はない。

そろばんでものすごい桁数を計算をしようと思えばできることはできるのだろうが、やれるのは限られた人だけだし、生まれ持った能力に加えてずいぶんトレーニングを積まなければならない。

しかし、おなじことを電卓でやろうと思えば、だれでもできるし、買ったその日にやれる。電卓がいいのは誰でもいつでも同じように使える点で、その意味では、そろばんより電卓の方が「民主的」に思える。

暗算の達人といえども体調次第でパフォーマンスは変化するけど、電卓は電池さえ切れなければいつでも同じパフォーマンスを発揮してくれる。電卓がのおかげで、計算能力を妙にありがたがったり、人を見下したりすることができなくなった。

そもそも計算というのはそれほどクリエイティブな作業ではなく、脳みその筋力を競うようなことなので、そこで格差が付かなくなったのはいいことだと思う。

そして、電卓と似たような意味で、ぼくはイーロン・マスクの

Neuralinkもなかなかいい

と思っている。

これは、脳に電極を埋め込んで直接コンピュータとやり取りしようというプロジェクトである。

最終的にはAIと人間の脳をつなげようというようなことらしいけど、AIのことはおいておくとして、人間の脳がネットワーク化した場合、脳と脳で直接やり取りできるようになる。

アニメ『攻殻機動隊』の隊員同士が、口を開かずに会話しているシーンがあるけどああいうことをやれるだろう。つまり、一種の「テレパシー能力」を得られるのである。

かつて来日した超能力者のユリ・ゲラーが、テレビで想念の読み取りという技をやっていたことがある。

「黙ってなにかを思い浮かべてください。その想念を読み取ります」みたいなことだけど、あれをユリ・ゲラーだけでなく、みんながやれるようになるわけだ。

しかも、ユリ・ゲラーは調子のいい日と悪い日があるが、Neuralinkの場合、好不調の波はなく、全員「同じ値段で、同じ能力を、いつでも」発揮できる。

同じ値段で、同じ能力を、いつでも

これがテクノロジーのいいところである。そういう時代がくれば、世界中のユリ・ゲラー的な人たちは「電卓を買わなくても暗算できる人」みたいな扱いになるだろう。つまり宗教的に祀り上げられることがなくなる。

オウムの人々が出家してまでがんばって修行していたのは、ひとえにNeuralinkのような能力をオーガニック素材で手に入れようとしていたからで、つまり天然のテレパシーを発達させようとしていた。

同じテレパシーでも工場で作られる電極を埋め込むよりも、オーガニックなテレパシーのほうが「自然に優しくていい感じ」に思えるかもしれない。

しかし、暗算能力と同じで、いくらがんばって修行しても、ホーリーネームをもらえる人々と、ホーリーになれない人々がいた。

しかし、僕に言わせればテレパシーなど別にクリエイティブなものではない。スマホを使わずに通話しているというだけであり、それで新しい何かを生み出せるわけじゃないので、修行で身に付けるよりも、さっさと買えるようになったほうがいい。

修行などせずにだれでも「同じ値段で、同じだけ、いつでも」手に入るようになったほうが、いい未来がやってくるだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?