占いにおける「何か」について
昨年の10月21日にこういう記事を書いた。占い師のゲッターズ飯田氏が「来年2023年についてこのように言っている」という記事である。
飯田さんの言うことをいつも鵜呑みにしているわけではなく、失礼な言い方になってしまうかもしれないが、「外してるな」とかんじることもある。
しかし、この記事でとりあげていた予測については自分の肌感覚に照らして、かなりの確率で当たっているはずだと直感したので引用させてもらった。
ちなみに今日言いたいことは、
みたいな自己顕示欲モリモリのことではない。そういうことはぼくはどーでもいい。
しかし、まちがいないと思っていたことが実際に起こった場合は、その前後の皮膚感覚みたいなものを重視しており、今回もこうなった以上、やはりその前後の皮膚感覚みたいなものが残っているので、それを記録しておきたい。
この動画です。
2023年の予測
さて、ゲッターズ飯田氏が昨年の秋の段階でどういうことを言っていたかというと、
ということだった。飯田さんのみならず、多くの占い師が、来年あたりから新しい流れが顕著になってくるという見方をしているとも言っていた。
上の動画によれば2023年は
ということだったが、肝心の
ということについては、彼自身、さっぱりわからないと言っていた。ただし、それは彼の腕が悪いからではなく、そもそも占いというのはそういうものなのである。
「何なのか」だけがわからない
具体例を挙げてみよう。ぼくも占いをやっていたことがあり、アマチュアとして練習で鑑定をしていたころに、「今年中に、子どもはできますか?」という相談を受けてこのように答えた。
と冷や汗をかきつつ説明していると相談者のほうが
と言ってしまったのだ。「じつは新車のバックミラーをぶつけてゆがませてしまって以来、夫婦仲がぎすぎすしているんです」とのことだった。こういうものなのだ。
これは占術というものが、森羅万象をフラクタル(自己相似形)なものとして計算していることと関係があると思う。こういうものと「似ていることが起こる」みたいなことは言えるのだが、具体的に何なのかはギリギリまで分からない。
今年の「何か」はAIだった
そういうわけで、飯田氏によれば、2023年には「何か」によて時代がガラッと変わり、
とのことだった。また、その「何か」はすでに出現している、ともいっていた。
こう言われると、おそらくテクノロジーに関連があるのだろうなというくらいのことははわかるが、具体的なことはわからなかった。しかし、2023年もすでに2か月が過ぎてそろそろわかってきましたね。
今回の「何か」はAIだった。生成AIだったのである。
生成AIは昨年にはすでに誰でも使える状態にあり、使う人は使っていたけど、今年に入ってブレイクした。ただし、占い的に言えば、この「何か」はべつの何かだった可能性もある。ギリギリのところで、別の何かと入れ替わってもおかしくない。
2020年の「何か」
これは2020年に経験したこととも似ている。
2019年の終わりに、占い師のLove Me Doさんのライブに行ったところ、
と言っていた。ただしそれが何なのかはわからなかった。
ぼくは、巨大隕石が落ちるのではないかと思ったりしていたのだが、やがて「感染症」だということがわかったわけだ。しかしこれも占い的には、ギリギリで別のものになっていてもおかしくなかった。
そのあたりは、待ち受けて、そしてじっさいに体感してみるしかない。占い師の言うことがぜんぶ当たるわけではないし、見当違いのことも多いが、
ということを繰り返していると、「これはどうやらまちがいない」という感覚はつかめてくる。
2020年のLove Me Doさんも、2023年のゲッターズ飯田さんも、ぼくはたまたま接した情報にすぎないのだが、それでも、元アマチュア占い師として
という直感はあった。
文系的思考の限界
今回あらためて、何かの出現を「待ち受けてそして体感する」という経験を経てみて、世界がフラクタルに展開している、という肌感覚はさらに強まっている。
「世界をフラクタルにとらえる」というのは、原子核の周囲を電子がまわっていることと、恒星の周囲を惑星が回っていることとを相似形でとらえるようなことである。ミクロコスモスとマクロコスモスが照応しているような感覚であり、理系的で、かなり数学的な発想法といえる。
一方、文系の人は未来を、弁証法的発展段階ようなものとして、直線的にとらえることが多い。
みたいな感じであり、そもそも「哲学的思考」というものが、古代ギリシャの昔から、こういう発想法なのである。でもぼくはこの手の文系的思考には限界があると感じる。段階的に展開するのは、
だけであり、世界が「人の言論」に都合のいいように展開してくれているとはどうにも思えない。
もし、事象が段階的に、直線的な展開をするのなら、「何か」の部分があらかじめわかっていてもよさそうなものだ。しかし、現実には「何かの軌跡」だけは追えるが、それが何なのかは最後まで分からないことがほとんどだ。
文系の発想法で未来を読むのはちょっときびしいのではないかと、改めてかんじている。
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