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変人が未来をつくる

未来を拓くのはいつも変人だ。

最近、このことばかり書いてきたような気がするけど、だいじなことなので何度でも書こう。未来を拓くのは変人だ。

だからといって、もちろん変人だけでも困る。国を支えるエリートは「正統派の教養人」でないと困る。

漢文や古文の素養があり、ヨーロッパ文明に通じ、シェイクスピアや万葉集をそらんじて、モーツァルトを愛するようなエリートももちろん大事だ。

しかし、エリートの困る点は、「自分たちが未来を拓いている」と勘違いしているところである。さっさと気づいてほしい。エリートは未来を拓いていない。

かれらは「自分たちのようなエリートを拡大再生産したら世の中がよくなる」と勘違いしていて、それが教育方針に表れる。

たとえば、安倍元首相が「教育勅語」を復活させるとかさせないとかで物議をかもした。

「教育勅語」というのは明治時代に作られた教育の基本方針で、「忠君愛国」と「儒教的道徳」の精神が記されている。

全国民がこころをひとつにして力を合わせ、親をうやまい、兄弟、夫婦なかよく、勉学や仕事に励み、社会に貢献し、もしやのばあいは国の安全のために真心をささげて奉仕するように。

みたいなことが書かれているわけで、軍国主義を助長したとして、戦後に廃止された。

原文はわかりにくいけど、わかりやすい現代語訳がこちらに掲載されているので1回は読んでみても損はないです。短いものです。

まあいいことが書いてあるわけよ。

これを現代教育に持ち込みたいと考える人たちは「日本人の心を大切にしなさい」と教えるのがなぜいけないの?と問う。なるほど、ごもっともだ。

一方で、反対するひとたちは、この思想が太平洋戦争で国民を鼓舞するために利用されたことを忘れるな、という。これももっともなことだ。

じゃあおまえはどっちが正しいと思うのかと聞かれれば

どっちも的外れ

と答えるしかない。

教育勅語が正しか、正しくないかという議論自体が、しょせんアタマの固いエリートの議論でしかないのだ。

くりかえすが、未来をつくるのは変人である。スティーブ・ジョブズであり、イーロンマスクである。一方、この勅語から生まれるのはせいぜい、カタにはまった優秀なエリートだ。

そして、勅語を批判しているひとたちも、軍国主義がどうたらと頭が固いのは同じであり、アタマの固いエリート同士の言い争いを擁護する気にも、批判する気にもなれない。

どちらの発想からも未来なんか生まれないのである。不毛な議論だ。

エリートは、自分たちが未来を開いているわけじゃないということにさっさと気づいてほしい。法律をつくったり、為替を動かしたり、外交文書を交わしたりしても、そこから未来が生まれるわけじゃない。社会という自動車に油をさしているだけだ。

あたらしい世界を拓くのはいつも変人であり、エリートは変人のサポート役でしかない。自分のようなエリートを拡大再生産したら国がよくなるなどと、かんちがいもいいところだ。

さてさて、ぼくはいちおう変人の部類なので、こうやってエリート批判をしていればカッコよく終われるんだけど、じつは書きたいんはそんなことじゃないくて、今日は自己批判である。

ぼくは、自分がエリートのアタマの固さも持ち合わせていることを自覚している。若いころに正統的な勉強をやりすぎたのかもしれないし、まじめすぎるのかもしれないけど異端になりきれない。

マンガを読むか、アリストテレスを読むか、二択を迫られたらアリストテレスに手が伸びてしまうところがあるんだよなー。

それが立派だとは思っていない。そこまでバカではない。エリートというのは、マンガを読むより難しい本を読むほうがエライと思っているような連中だが、一緒にされると困る。そこまでバカではないのだ。

しかし、マンガを我慢して、イヤイヤ難しい本を読んでいるわけでもない。そっちのほうが楽しいと感じるときがある。マンガではやや物足りなくなるときがあるのだ。そういう体質は抜けない。

未来はマンガのほうにあるとわかっている。それでも治らないので、要はエロ本に手が伸びてしまうのと大差ないんだけど、まあ一生治らないんじゃないかなあ。

とりあえず「エイリアンの思想をさぐるために難しい本を読んでいる」ということにしておこう。これなら気ちがいの度合いがグッと高まるのである。

未来は遊びの中にある。

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