noteは平和共和国。Twitterは丸見え


noteに引っ越して1か月。Twitterも10か月しかやってないけどここまでに感じたことを書いてみる。

noteは平和だけど文章に手間がかかる。一方Twitterは手間がかからないけど投稿者の性格が丸見えになる。

最初はツイッターの内容をそのままnoteに引っ越せばいいと思っていたけど、全然ちがうということは初日に分かった。断片的な文章を構成しなければならない。

構成するということは筋道を通すためにでこぼこを削るということであり、でこぼこというのは僕の中のバカ成分である。

評論家の吉本隆明さんは「著書を読んでから著者に会うと文章よりも少し馬鹿に見える」と言っていたことがある。本は冗長な部分やバカな部分を入念に削るから本人よりも利口に見えるのだろう。

noteやブログにも似たような面がある。
文章に時間をかけている分、本物の僕よりもわずかに利口に見えているはずで、ぼくのバカな面は全部は伝わらない。

一方ツイッターは全部出る。

Twitterは情報伝達手段としてはとても効率が悪いと思うけど、投稿者の人となりを知るにはこれ以上ないツールだ。

特定の人の投稿を長期的に見ていると、最初は散発的に見えた投稿もやがてある種の傾向の中に納まっていく。それがその人のパーソナリティだと思う。本人に会っても印象は変わらないはずだ。

そういう意味では危険なツールと言える。全部出てしまう。
動画でいえばライブストリーミングを続けている感じに近いと思う。

というわけでTwitterで長期的にキャラを演じるのはムリだという暫定的な結論です。どこかではみ出るはず。

数年間一貫した演技が続くとしたらそれはどういう人でしょう?サイコパスでしょうか?

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