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剣豪の風格

何年か前に、深夜のテレビ番組で「本好き芸人さん集合!」といった企画をやっていた。ゲストはたしか、又吉直樹さん、光浦靖子さん、カズレーザーさんだったとおもう。都心の巨大書店のなかをめぐりながら、それぞれの芸人さんに、本に対する思い入れや、おすすめの本を聞いていく内容だった。

又吉さんが芥川賞をとったあと、しばらく小説に焦点があたった時期があったけど、そういうながれの中で生まれた番組なのだろう。

番組の中でカズレーザーさんが、おすすめの作家としてアメリカのトマス・ピンチョンを挙げていた。ピンチョンというのは、テレビではまず名前が上がらないマニアックな作家だ。メディアにいっさい顔を出さないし、生きているのか死んでいるのかもわからない。一時は実在しないのではないかといわれていた。新作は10年に1作くらいしか出ない。それでも出すたびに話題になる。

ぼくは学生時代にずいぶん苦しめられたので、書店に入ったらピンチョンのことはぜったいに考えないし、おすすめにあげることもない。訳書が半径2m以内にあるとわかれば迂回する。ピンチョンは文体もストーリーもひたすらいりくんでおり、1回や2回読んだくらいでは理解できない。マニアはそういうところにほれこみ、ピンチョンのナゾを解くためだけに読み続けるらしい。

それにしても、あそこでさりげなくピンチョンを出したカズレーザーさんはすごい。はじめて赤ジャケットに金髪を見たときのようなインパクトを覚えた。それに加えて又吉さんの活躍がなければピンチョンの名前が民放で挙がることなど永遠になかったとおもうので、あれひとつとっても又吉さんの影響力はすごいのである。

とはいえ、ぼくが好きなのは北方謙三先生だ。3人が書店の中をめぐっていく途中で、北方謙三先生が待ち受けているシーンがあった。北方先生は、ピンチョンとは正反対の多作な作家であり、メディアにもよく登場する。この番組でも、お約束の北方ボイルドなスタイルで待ち受けていた。

そこで、どういうはなしの流れか忘れたけど、光浦靖子さんがちょっと調子に乗った感じで「私、先生の本ぜんぶ読みま~す!」と言ったのである。すると北方先生は、「えっ、ぜんぶぅ~?」と不満そうにこたえたので、とっさに光浦さんが「いや、ぜんぶは無理です」と返してことなきを得たのだった。そうなのだ。北方作品を全部読むのはムリなのである。ご本人が「自分の作品を全部読むのはムリだ」と思っているほど多作な人である。ピンチョンとは正反対だ。

ぼくは文学で生業を立てるのを止めてから、一時期、北方作品ばかり読んでいた時期がある。かんぜんに仕事を離れて肩の力をぬくと、手が伸びるのは北方ボイルドだった。ピンチョンを読もうなどとはさらさら思わなかったが、あれがぼくの本心なのだろう。仕事を忘れて本を読む快感に浸りながら読みまくった。

最近、北方謙三の「剣豪  日向景一郎シリーズ」全5巻というのをひさしぶりに読み返しているが、学ぶことが多い。一言一句のブレがないというか、一切の迷いがないというか、句読点の位置まですべてが定まっている。だれも読み切れないほど作品を量産し続けたらここまでビタっと収まるのかと思うくらいムダのない文章が続く。文体自体に、剣豪の風格が漂っている。

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