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高校時代に読んだマンガに人生を支配される

いま読んだ本が、いますぐに身になるということは、ほんとうはない。血肉になるのは10年も20年も経ってからである。

それはわかっているつもりなのだが、そうはいっても、思春期に呼んだマンガにどれほど影響を受けているのかをいまごろになって思い知らされると、おそろしい気がしている。まるで操り人形だ。

高校時代に読んだマンガ

以前にも書いたことがあるが、ぼくが一番影響を受けた漫画家は小学館の「少年サンデー」で活躍しておられる小山ゆう先生だ。最近だと「あずみ」などが有名だが、ぼくが10代の頃はなんといっても『がんばれ元気』であり、そして『スプリンター』だった。

そして最近まで、自分は『がんばれ元気』にもっとも影響を受けたのだと思い込んでいたんだけどどうやら勘違いで、『スプリンター』のほうが深いところで影響されている。

実家に置いてあるのでもう20年は読んでいないのだが、この数日で全巻を読み直してみて、そら恐ろしいほど影響を受けていることに気づいた。最後の方ははずかしくて読めないほどだ。

お前のネタ元はココなんだな

というのが丸わかりなので、はずかしい。あなたにもいずれそういう日が来るだろう。あるいはもう来ているかもしれないが、今自分がドヤ顔で主張している考え方が、少年時代に呼んだマンガのコピーだったということが丸わかりになる日が来るのでぜひたのしみにしていてください。

スピリチュアル陸上マンガ

あらすじを引用しておくと

日本有数の大コンツェルン・結城グループ。その後継者候補として、義父・豪太郎のもとで帝王学をしこまれる結城光16歳。そして、豪太郎の実の娘でありながら、父の援助を拒否して生きる、女子ナンバーワンスプリンター・水沢裕子16歳。まったく違う青春を選んだ二人だが、意地を張りあいつつも、やがて光と裕子は互いにひかれていく…。

ありがちなスポ根ラブコメに思われそうだが、いま小山先生のWikipediaを読んでいると、『スプリンター』は"スピリチュアル陸上漫画"と称されていた。

連載期間は1984~87年で、バブル崩壊前の「日本が世界を牛耳るか」と思われていた時期に当たっており、同時にぼくの高校時代がすっぽりと収まる時期でもある。

一方で、オウム真理教が勢力拡大を続けていた時期でもあった。

当時の日本の大人たちが

世界は日本の前にひざまづくぜ。ウハウハだぜ。ヴィトンにグッチだぜ。

と思っていたのに対し、多感な若者はそういう風潮に懐疑的で、世界を牛耳ることよりも、内面の宇宙を探求することに関心を深めつつあった。それが、やがて平成の新興宗教ブームに結び付いていくわけだが、そういう流れの中でのスピリチュアル陸上マンガなのである。

物語の前半は、17歳の若さで日本一の企業グループを率いることになった主人公が、伊豆を都心と高速鉄道で結び、第二の都心を作り上げようとする話だ。一方で、かれは気晴らしに陸上の100mをやっているのだが、あるときがんばりすぎて肉体の潜在領域、いわゆる神の領域の呼ばれるパワーを発動してしまう。

体内の酸素をすべて使い切ったあとで、さらに脳の酸素を体に回して肉体の限界を越えていく力を発動してしまい、その先に神の幻覚を見るのである。

やがて彼は、9秒台の宇宙に入れば神と合一できる、という確信を深めていき、富と権力とニュータウン構想のすべてに興味を失い、それらをなげうって、0.01秒のタイムを更新するために命を削っていく。

今読めば、大企業のトップの座をなげうって、一介のアスリートに転向し、神との合一を目指して厳しい訓練に励む姿は、

オウムの出家

以外の何物でもないのだが、当時の風潮に嫌気が指していた思春期の少年の心の深いところを捉えてしまった。

探求の先に富も名声もない

『あしたのジョー』の場合、こぶし一つで成り上がった先に待っているのは富と名声だったが、これは高度成長期の考え方だ。

一方、バブル前夜のマンガ『スプリンター』の場合は、すでに持っている富と名声を捨ててかけっこの世界に行くわけで、その先に富と名声が待っていたりしたら、巨大企業グループ総裁の座を捨ててかけっこにのめりこむ意味がなくなる。なので彼は宇宙の探求だけを目指す。

ラストの走りも、記録非公認の状態で、命がけのタイムトライアルである。

走り切った先に待っているのは神との合一なのか、それとも脳の酸素を使い切って廃人になるのか

いずれにしろ走り切った先に富と名声は待っていないわけで、純粋な探求心以外になんの見返りも得られないところで命がけの戦いに挑む。

セルフ出家

当時、この考え方にどれくらいの若者が影響されたのかよく知らないけれど、すくなくとも僕は自分が思っていた以上に影響を受けていたらしい。

その後30代の半ばを過ぎて、それまで積み上げてきたものを捨てて、一種のセルフ出家というか、ソロ出家してしまうのだが、その当時は、『スプリンター』のことなどおもいだすこともなかった。

しかし、今にしてこのマンガを読み返すと、いずれ全部を捨てる決断をすることは、10代にこのマンガを読んだ時点で、すでに決まっていたように思える。

そして、オウムの出家者たちも途中まではぼくと同じベクトルだったと思えるのだが、どこかの時点で、自分が教団内で認められ、自分たちを世間に認めさせるという承認欲に狂って、おかしくなっていったようだ。

なまじその姿を見ているので、自分を特別視することや、人より上に立とうとすることへの警戒感は人一倍強い。

そうすると、「世間に埋もれて出家する」という以外の選択肢はなくなるので、現在のぼくの今の生き方そのものになってしまうのだ。バブル前夜に思春期を迎えると、こうなってしまうということなのだろうか。

35年も前に読んだマンガにどれほど人生を支配されているのかを知るとおどろくほどだ。


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