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イメージに縛られるのは窮屈

かつてビートたけしさんがベネチア映画祭のグランプリを獲った際、授賞式に股間に白鳥をあしらったコスチュームで登場したことがあった。

いまネット検索してもなぜか出てこないのだがぼくの記憶ちがいではないはずだ。たしかに白鳥のコスチュームで登場していた。

なぜああいうことをやったのかについては、芸人魂だとか、かぶりもの好きだとかいろんな理由があるのだろう。ただし、ぼくにも共感できる部分があった。あれは1種の独立宣言だと思うのだ。

世界三大映画祭のグランプリを獲ってしまったら、どうしても「巨匠」というイメージが付きまとう。なにせベネチアは黒澤明の『羅生門』以来の受賞だ。東スポ映画大賞とは重みが違う。最初は、みんなに巨匠、巨匠とちやほやされて気持ちがいいかもしれないけど、そのうち窮屈になってくる。

巨匠のイメージが先行しすぎてコマネチ!を自由にやれない立場に追い込まれるのがイヤという動物的な勘が、ああいう格好をさせたのではないだろうか。

「じぶんはやりたいときにやりたいことをやる。他人に押しつけられたイメージの奴隷にはならないぞ」という一種の独立宣言だったのではないか。

これはタケシさんにかぎらずいろんな人に付きまとう問題だ。

タケシさんと同じく、自分で自分のイメージをこわした有名人にキングカズがいる。三浦知良選手が、「ポイントゲッターのキングカズ」というかつてのイメージを維持しようと思えば、すでに引退していなければならない。

いま世間はカズさんを見て「年取ったな。むかしの華麗な姿はないな」などと思うが、その視線をものともせずにプレーする姿は「股間に白鳥」とおなじくらい世間の押し付けてくるイメージから自由だ。

ぼくにはこの状態がほんとうの自由だと思える。

ところで、タケシさんだけではなく、ぼくでもあなたでもその気になればいつでも白鳥のコスチュームで銀座を歩くことはできる。ぼくやあなただけではない。岸田首相でも、退陣した後で白鳥のコスチュームで銀座を歩くことは可能だ。鳩山さんだって韓国で土下座しているくらいだから、やろうと思えば白鳥くらいやれないわけがない。気合の問題だ。

しかし、それがぜーったいに許されない人がいる。陛下である。
それをやったら宮内庁に爆弾が投げ込まれるかもしれないし、長官が首を吊るかもしれないし、国会が紛糾するかもしれない。いくら陛下に気合があってもぜったいにやれない。その不自由さは庶民には想像しがたいものだ。

もちろん、不自由な分、衣食住に困ることなく、みんなに頭を下げてもらって暮らせる。つまり、世の中ではステータスと不自由さがセットになっているのである。

たとえば、ふつうの庶民が下着泥棒を働いても新聞のネタにはならないが、犯人がたまたま東大卒や、元ジャイアンツの選手だった場合は派手に書き立てられる。社会的イメージがいい人にはこういう不自由がある。

ぼくですらたまにnoteの評判がいいと、次の日にそっちに寄せた記事を書こうとしてややひっぱられることがあり「不自由だなあ」と思う。

たけしさんやカズさんのようにいちど出来上がった世間のイメージを自分で壊す勇気のある人が本当に自由な人なのだろう。

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