人間力とは自分の外側にある力
汚れた実家に帰り、認知症の老人に向き合うたびに
とおもう。
とはいえ、そもそも僕には人間力などはないので、いくら試されようと、平気だ。ないものは出てこないのである。しかし、そもそも、人間力が何を意味しているのかも僕にはよくわからない。
内閣府の定義する人間力
ネットで検索してみると、内閣府が、人間力というものを「明確に」定義している。それによれば人間力とは
なのだそうである。
なんだかよくわからないが、同時に、日本のお役所ならでは味わい深さも感じられる文章だ。
ぼくにとっての人間力
ぼくが「人間力」という言葉を使う場合、すでに書いたように自分に欠けている力を指して使うことが多い。なので、いいかえるなら、ぼくにとっての人間力とは、
だということもできる。自分にはどうにもできないものが、人間力である。
その意味では、上の内閣府の定義も、人間力にあふれた文章だといえるかもしれない。なぜなら、ぼくには逆立ちしてもこんな文章は書けないからだ。
人間力とは何か。言葉をえらべばきちんとした答えを出せると信じ込んでいる人か、あるいは、お役所に頼まれればおのれをむなしくしてもっともらしい答えをひねり出せる人か、どちらかでなければ、こんな文章は書けないが、ぼくはそのどちらでもない。
しかし、いずれわかる
役所の定義によれば、人間力は「生きる力」だということになるが、ぼくは、死に方にこそ人間力が現れるのではないかと思っている。
家族の中にも、ふっと消えるように亡くなった人もいれば、ひたすら周囲をふりまわして生きながらえている人もいる。また、死の淵で超人的にねばった人もおり、ぎりぎりのところでそれぞれの人間力が現れているように思えてならない。
上の定義を考えた有識者の中にも、朝露が消えるように亡くなる人もいれば、自分だ誰かわからなくなって、なお周囲の気力と体力をためしつづける人も出てくるはずで、両者のちがいは偶然ではなく、その人が死というものに向かい合ったときに、はじめて出てくる魂の地金のようなもののだと思える。
ぼくにもいずれそういう日が訪れるので、いまどんなきれいごとを並べようとも、その日になれば、ほんとうの人間力があからさまにあらわれるにちがいない。
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