好きなものを好きと言えることが一番大事
公明党と幸福実現党は、どちらも宗教がバックに付いた政党だが、性質はかなり異なる。
どちらの肩を持つ気もないのだが、外から見ていても両者は明らかにことなっており、公明党は良くも悪くも普通の政党だ。
公明党はボトムアップ
公明党では、各々の政治家が、支持者の意見をまとめて党に持ちより、ああでもないこうでもないと意見をぶつけ合って党の方針をとりまとめて、国会にもっていく。つまり
というボトムアップで党の方針を打ち出しているので、ある意味ふつうの政党である。
幸福実現党はトップダウン
その点、幸福実現党は正反対であり、党のマニフェストはすべて総裁の大川隆法氏によるトップダウンの決定事項だ。
総裁が方針を打ち出し、それを各党員が丸呑みにする。
総裁はそもそもブッダの生まれ変わりなのだから、その判断にも誤りはない。そして、各党員と大川氏とでは、「魂の格」がちがうのだから、議論などというものもありえない。したがって党内にはイエスマンしかおらず、意見をぶつけ合ったりする議論の場はなかったはずだ。
彼の教えをありがたく復唱するロボットになるか、脱会するか、どちらかしか道はなかった。
僕の経験
ぼくがかつて関わっていたネットコミュニティにも幸福の科学と似たような面があった。
そこは超常現象を研究するサークルにすぎなかったんだけど、やや宗教チックなところがあり、主宰者がカリスマで、才能があり、しかも超人的な努力をいとわない優秀な経営者だったので、他のメンバーは、ひたすらイエスマンに徹するしかなかった。
このリーダーのことをあえて「教祖」と呼ばせてもらうけど、そのコミュニティでは、教祖の「世界観」をまるのみにしなければメンバーでいられなかった。
教祖の意見をうまいことほめたたえるコメントを入れるとみなから称賛されるのだが、逆に教祖の意見にちょっとでも、疑問を持ったり、異論を唱えたら、教祖をはじめとしたメンバー全員に寄ってたかってボコられる。
好きなものを好きと言えない
そして、ぼくは映画が好きなんだけど、教祖の世界観に照らせば、次第に自分の好きな作品をすなおに「好きだ」と言えなくなってきたのである。
これまで好きだった映画を見ても、内面化された教祖の世界観がじゃまをし、その作品を否定するような考えがわいてきてしまってすなおに楽しめない。好きだと感じる自分が間違っていると思えてきて、自然な感性を押し殺してしまう。これは苦しいことだった。
そういう状態が数年続いた。今考えれば洗脳に近いのだが、優秀なカリスマの周囲に集まると、並みの人間はどうしてもそうなってしまう。
洗脳されていることになかなか気づくことができなかったのだが、やがてたまりにたまったものが出てきてしまった。
反抗と脱会
ぼくは、もともと「好きなものを好きでいたい」という点については何人にも譲歩することができない性質で、たとえ、相手がブッダだろうが、キリストだろうが譲歩できない。
と強要されても、それはムリなのだ。地獄に落とされるとしても、ムリなものはムリである。
そういうじぶんがむくむくと頭をもたげてきたので、ぼくはそのコミュニティから脱退する決心をした。実際のところ抜けるのは簡単ではないので、「抜けた」というより「追放された」。
教祖の考え方にいちいちかみついて、次々に異論を展開していたら、やがて「出ていってください」ということになったのである。なので向こうサイドからはいまでも「退会したのではなくて追いだした」という認識だろう。
水曜どうでしょう
それはともかく、うまいこと脱会できてそれから数日後のことだ。深夜のテレビ番組で「水曜どうでしょうクラシック」という再放送番組をやっていたのである。そしてそれがほんとうに
のである。教祖の世界観になんの気がねもいらず、ただ素直におもしろいと感じられる状態は、数年ぶりのことであり、自由な感じに感動を覚えた。
自分にとっておもしろいものは、たとえどんなにゲスな、くだらないものでも、すなおにをおもしろいと感じることに何の罪悪感も覚えなくていいという爽快感を今も忘れることができない。
好きなものを好きと言えるのが一番大事
その経験が身に染みているので、それ以降も「自分が好きなものをすなおに好きと言えること」を最優先にして生きている。
そのせいで、金銭的に苦しくなることもあるし、コネもできないし、えらくもなれないけど、それでも「自分が好きなものをすなおに好きと言えること」が一番大事だ。他人の世界観を押し付けられるくらいしんどいことはない。
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